「そうしてそれは、オオクボが君権の強大を標榜し、イワクラが確然不動な国体の厳守を主張しているにかかわらず、その実、彼等が維新以来ほしいままに占有してきた政権の保持を画策するに外ならなかったことを示すものである。彼等の思想は、皇室と政府とを混同し、政治の責を皇室に帰することによって、みずから免れ、結果から見れば畢竟皇室の徳を傷つけるものだからである。そうしてそこに、いわゆる王政復古または維新が、その実少なくとも半ばは、皇室をも国民をも欺瞞する彼等の辞柄であり、かかる欺瞞の態度を彼等が明治時代までもちつづけてきた証跡が見える。」
津田左右吉「明治憲法の成立まで」[1]
1「明治維新」の再評価
昨年来続けてきた津田左右吉『我が国民思想の研究』の解読の作業も終わりに近づき、「明治維新」とそれをふまえた明治国家の形成の津田による評価が問われねばならない時期にいたった。だがその時期が、「明治維新」150年目の再評価の時期と重なることを私は予め知っていたわけではない。これは思わざる暗合である。だがそれに気づいていなかったのは本人だけで、20世紀日本の本質的な読み直しは、「明治維新」の読み直しに当然至るべきものであったというべきことであったのかもしれない。
いま書店の店頭を賑わせている多くの「明治維新」関係書から私は一冊を選んだ。それは三谷博の『維新史再考』[2]である。著者が日本近代史の専門家であり、「150年間の維新史観を根柢からくつがえす」という帯のコピーが目を引いたからでもある。私は「150年間の維新史観」をどうくつがえしたのかを見てやろうと思った。
幕末の緊迫した政治状況の最終段階で薩摩は長州と結託して、幕府の武力的倒壊へと政治戦略を方向付けていく。徳川慶喜による政権奉還の上表(慶応3年10月)を見ながらも、薩摩はクーデターによって幕府政治権力の朝廷への返上を迫った。三谷はその書でこの事態をこう説明している。「薩摩は長州と挙兵準備を進める一方で、慶喜に対しては政権返上を勧めた。慶喜は意外にもその受け入れを決断し、その結果、薩摩は優先順位を変えて土佐との提携に踏み切り、それによって国元の挙兵反対論を抑え、藩主自らの率兵上京を実現した。薩摩は長州・芸州との出兵契約は維持したが、挙兵は棚上げし、朝廷が招集した大名会議が開かれる以前に王政復古のクーデタを決行した。」[3]薩摩のこのクーデターは、薩長同盟を構成し、鳥羽・伏見の戦いを経て、武力的な政権奪取としての明治維新をもたらしていくことになる。
これが激しい言葉でもって津田が非難した薩摩と西郷の陰謀である。策謀をもって「王政復古」をもたらした薩摩と西郷に向けられた津田の怒りを思い起こすためにもう一度ここにその言葉を引いておきたい。
「チョウシュウと結託して幕府の武力的倒壊を画策し、現に軍事的行動を起こしていながら、それと同時に将軍ケイキの政権奉還を容認したのも、その一つであって、そこに彼(西郷)の権謀が現われている。だから冷静に観察すれば、彼の行動には互いに矛盾していることが多く、従って時によって変化もする。ただ一貫していたのは幕府を敵視してそれに反抗することであり、そうしてそれを実現するためにはどんなことでもするを憚らなかったことである。虚言を吐いても術策を弄しても少しも意に介しなかった。この点では浪人輩の行動と全く同じである。」[4]
「明治維新」の変革としての正当性もその継承の正統性をも否定するような本質的な懐疑と怨嗟の言葉を津田にもたらしたのは、政治的事態を幕府の武力的討壊へと方向付けた薩摩のクーデターであった。ではこのクーデターを、「150年間の維新史観を根柢からくつがえす」ことをいう『維新史再考』はどう読み直すのだろうか。
2 慶応3年のクーデターの意味
慶応3年の薩摩の政治的転換を三谷もまたクーデター、すなわち武力的政権奪取をめざす反幕運動への転換としている。だが津田に明治維新をも薩長による政権の非正当的奪取行為とみなさしめたこのクーデターを、三谷は新国家の創設を可能にした歴史的な意味をもった討幕運動として積極的に評価している。鳥羽・伏見の戦いにおける薩長連合の勝利をめぐって三谷はこういっている。
「この鳥羽伏見の戦いは小規模な戦闘であったが、政権と日本の行方を左右する分岐点となった。勝利者の薩・長は新政府における主導権を獲得し、日和見を決め込んでいた諸大名は次々と雷同、その結果、秩序の抜本改革への道が開かれることになった。徳川慶喜が新政府の首班となっていたならば、新国家は王政下の連邦の域に留まったことであろう。王政復古を機として公議と集権と脱身分を狙う点で、二つの王政復古案は同じ方向を目ざしていたが、薩・長による徳川権力への挑戦と破壊は、より急進的かつ徹底的な変革を可能にしたのである。」[5]
これとともに、三谷のこの歴史評価を導く彼の方法的視点をも含んだ、上の文章を結ぶ言葉をも引いておきたい。
「以下では、この新政権の下で、「公議」と「集権」の追求がいかにして脱身分ーーその柱は武士身分の解体と被差別民の平民統合ーーにまで行き着いたのか、その決定的関門となった政体変革のあらましをスケッチすることにしよう。」
三谷がここで「薩・長による徳川権力への挑戦と破壊は、より急進的かつ徹底的な変革を可能にした」というように、慶応3年のクーデターに薩長勢力による討幕と幕府政権の奪取に大きな歴史的、政治的な意味を見ているのである。三谷はこの歴史的な意味の読み出しに当たって、「公議」と「集権」と「脱身分」をキーワードとしている。「公議」について三谷は、政府外からの政治参加を主張するこの語に「人材の登用や政権への直接参加を求める主張もここに含めることにする」といっている。「集権」あるいは「集権化」について三谷は、「近世の日本は二人の君主と二百数十の小国家群からなる双頭・連邦の政治体制を持っていたが、これを天皇のもとに単一の国家に変える。これが集権化である」といっている。これは討幕派の掲げる「王政復古」のスローガンの「王政」に当たる国家の政治体制にかかわる概念である。また「脱身分」については、「政府の構成員は生まれを問わずに採用し、皇族・大名・公家四百家あまり以外は、被差別民も含め、平等な権利を持つ身分に変える。これが脱身分化である」[6]と三谷はいっている。
だが「公議」「集権」「脱身分化」という明治維新とそこから成立する明治国家政府の政治体制の歴史的な意味を読み出すために構成された指標概念のあり方を見ていくと、これらはただアジアの地で、政治的犠牲者も極めて少ない変革を経て、短期間に、成功裡に成し遂げた「近代」国家の創出を称賛するために、このおめでたい歴史家によって構成された概念だといわざるをえない。彼は「王政復古」という「集権化」のスローガンが、昭和の天皇制的絶対主義的国家をいかに導いたかを見ることは決してないのである。
津田は「公議」も、「王政的集権」も藩閥的政権のデマゴギーとして、その欺瞞性と危険性とをあばいていく。
3 「天下の公論」
津田は「天下の公論」という言い方は、幕末文久期の京都で尊王攘夷派の浪士たちがその主張を「天下の公論」として揚言したことに始まるとしている。「いわゆる志士浪人の徒が大言壮語をもって荒唐不経な尊王攘夷の説を唱え、宮廷人に間に遊説して幕府の執った国策を攪乱もしくは破壊しようと企てるに至って、彼等はその主張し揚言するところをみずから「天下の公論」と称したの」だといい、当時の長州侯の幕府への建白にも、「列藩並に草莽の士の所存、天下の公論」という言い方がされていると津田はいうのである[7]。
「天下の公論」を尊王攘夷派の浪士・志士たちの自己主張の派閥性を隠蔽するイデオロギー的縁飾の言語と見る津田は、五ヶ条の御誓文(慶応4年3月)もまた幕末の志士たちの思想に由来することをいうのである。津田はその第一条(万機公論)と第三条(官武一途)の二ヶ条は「幕末から継承せられた思想であることが知られる」といい、「これは幕末の叡慮または勅諚として発表せられたものに、明治政府に立つようになったものの前身ともいうべき当時の志士輩浪人輩の構想から出たものがあることと、おのずから関連するところのあること、つまりそれを継承したものであることが、わかろう。(維新政府の発表した詔勅はみなこういうものである。御誓文と同時に発布せられた長文の詔勅はキドの起草したものと伝えられている)」というのである。これは江戸開城の前夜というべき時期に発表された五箇条の御誓文の党派性をいう希な言説である。
津田は「万機公論に決すべし」という第一条は明治四年のころには消滅したという。「思想の上では専制政治主義をその根柢にもっている王政復古論の存在にもより、公論衆議説が幕末における草莽の徒の無責任な空論に由来するもの、その意味では幕府倒壊の後には無用のもの、だからでもあり、幕府を倒壊した薩長人の、戦勝者をもってみずから居る武断主義の意向にもより、また封建制度の解体にもより、西洋の立憲政体に関する知識の浅薄であったことにもよるのであるが、厳粛な形で発布せられた五箇条の御誓文の第一条は、明治四年のころには、かくして一たびは消散したのである。」
津田が五箇条の御誓文の第一条の消滅をいうこの言葉をもつ文章「明治憲法の成立まで」が書かれたのは昭和34年(1959)である。いわゆる「安保闘争」が日本における民主主義の危機を叫びながら繰り広げられようとした時期である。ところで戦後日本のこの民主主義は、五箇条の御誓文のあの第一条に内なる始原を見出しながらその国民的定着がはかられていったのではなかったか。戦後日本に明治維新とはこの五箇条の御誓文の第一条とともに再評価され、再発見されていったのである。そのとき津田が「天下の公論」は尊王攘夷を叫ぶテロリストたちのイデオロギー的縁飾であり、五箇条の御誓文の第一条もその思想的反映であり、第一条の意義は明治4年のころには消滅したといっても、だれがそれを振り返って見ることをしただろうか。私もまた今回津田の明治維新関係の文章を読むまでまったく知らなかった。
4 「明治憲法の成立まで」
私は津田を読むこととは、その「神代史の研究」を読むことであり、それで足りると長いこと思い込んでいた。数年前、私は「大正」を読み直す作業を始め、その流れの中で津田の「神代史の研究」をも読み直そうとした[8]。津田の「神代史の研究」を読み直しながら、それと同時期に始められた津田の「国民思想の研究」とその意味とを私は考えざるをえなかった。後者は『文学に現れたる我が国民思想の研究』の「貴族文学の時代」(大正5)、「武士文学の時代」(大正6)、「平民文学の時代 上」(大正7)、「平民文学の時代 中」(大正10)として大正期に陸続として刊行されていった。私は津田のこれらの大業を見ながら、これは津田がいま眼前にしている明治維新を正統的な始まりとする明治の国民国家形成に対するカウンター的な作業ではないかと思った。津田の『我が国民思想の研究』とは、明治国家と同じ重さをもった大業だと私は考えた。
だが私のこの推定を確証するはずの『我が国民思想の研究』の最終巻「平民文学の時代 中」は津田の生前に刊行されることはなかった。ただ津田はこの最終巻を構成するはずの論文を戦前から、戦後の昭和36年に亡くなる前の昭和34年まで書き続けていたのである。それらの論文は津田の死後、『文学に現れたる我が国民思想の研究 五』(津田左右吉全集 第八巻)にまとめられて出版された。
配布した資料に見る通り、この巻は没後筐裡から見出された遺稿(戦前の文章と推定される)から、戦後直ぐから亡くなってから公表された文章を収めている。私は前回報告したように、ここに附録として収められている「メイジ維新史の取扱いについて」と「さいごう・たかもり」によって津田の明治維新観を見た。今回私は津田の明治維新観を敷衍するために「第十一 明治憲法の成立まで」にいたる諸論文を読んでいったのである。私は昭和34年の論文「明治憲法の成立まで」を最後に読んで、むしろこれは初めに読むべきものであることを知ったのである。
私が津田の『我が国民思想の研究』という大業の意味をやっと推察しえたのは、未刊の最終巻の明治維新をめぐる諸論文を読むにいたってである。そして津田の批判的な明治維新論の意味を私に教えたのは論文「明治憲法の成立まで」であった。なぜそうなのか。なぜ最後の論文にいたって津田のはるかな時間とはるかな精力を費やしてきた作業の意味が開示されるのか。もちろん津田は伏せられた秘密をそこで開示したわけではない。「王政復古」を呼号した明治維新とこれを正統な初まりとした明治政府による国家形成が昭和の絶対主義的天皇制国家をも帰結させた重い事実が、天皇を敬愛する津田における批判的な言説化を遅らせてきたのであろうし、われわれの津田理解をも遅らせてきたのであろう。まさしく問題は「復古」を称しながら創成される新たな「王政」=「天皇制的政治体制」にあるのである。
だが「王政復古」によってみずからを正当化し、その継承を正統としていくのは明治新政府を構成するリーダーや皇国主義者だけではない。後の近代主義的歴史家もまたこれによる近代的統一国家の形成を評価するのである。私が本稿のはじめにいったように『維新史再考』の著者は「公議」と「集権」と「脱身分」の三つのキーワードを挙げて明治維新と明治新政府の遂行の世界史的意味を高く評価した。ここでいわれる「集権」とは、すでにいうように「王政(天皇親政)」的権力の集中と政治体制的統一を意味している。三谷はこの「王政的集権」に高い評価を与え、明治維新を再評価するのである。彼は「王政復古」の明治維新とこれを正統とする明治政府に強い懐疑と深い危惧とをもちながら、それを言説化するのに戦後をまたなければならなかった津田を思い見ることはない。その厖大な「参考文献」に津田の名を見出すことはもとよりない。流行遅れの津田左右吉など挙げるわけがない。だが流行遅れの津田こそが「王政復古」をいう明治維新とこれを正統とする明治政府の危険性をもっともよく知り、もっとも深く憂える人であったのである。
私は稿を改めて津田と「王政」の問題を論じたい。
[1] 津田「明治憲法の成立まで」『文学に現れたる我が国民思想の研究五ー平民文学の時代 下』所収、津田左右吉全集・第八巻。
[2] 三谷博『維新史再考ー公議・王政から集権・脱身分化へ』NHK出版、2017。
[3] 三谷・「第十一章・四 クーデタから内戦へ」『維新史再考』。
[4] 津田「附録二 さいごう・たかもり」『文学に現れたる我が国民思想の研究五ー平民文学の時代 下』所収、津田左右吉全集・第八巻。
[5] 三谷・「第十二章 明治:政体変革の三年半」『維新史再考』。
[6] 三谷「まえがき」『維新史再考』。
[7] 津田「明治憲法の成立まで」津田左右吉全集・第八巻。
[8] 私の「大正」の読み直し作業は、『「大正」を読み直す』(藤原書店、2016)にまとめられている。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.02.25より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/75087895.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study944:180305〕