仙石官房長官が国会で惰眠をむさぼっているという新聞記事には思わず笑ってしまった。退屈な質疑など聞いていられないということよりも、それがちょうど睡魔の誘いになったのだろうか。邯鄲ではないが、彼はこの眠りの中でどんな夢をみていたのだろうか。草臥れ果てて夢どころではないというのが正直なところなのかも知れないが。そういえばチリでの鉱夫の救出は感動的であったが、彼らは地下でどんな夢をみていたのか。生涯で最も多くのの夢をみた期間だったのかも知れない。村上春樹は『1Q84』で夢を描きたかったのだと述べていたが、それは読者によく伝わったであろうか。
僕らの日常が取り立てて多忙ということではなくても、何となく忙しい感じがしてならない。時間に追われているという感覚から自由になれないのだ。次から次と事件が生起しというよりは、事件化されあっいう間に舞台から消えてゆく光景は僕らの感覚を忙しいものにしているのだ。この根底には歴史的な時間の流れが加速化することがある。歴史的やってくる事柄とそれを了解する自己の意識の間でズレが生まれるのだ。このズレは不安感やいら立ちも含めてこの忙しさの感覚になるのだが、この感覚は夢を見にくくさせていることと関係する。なんでもいい。やれ尖閣列島だ、やれ円高だ、やれ○○だということが次から次と眼前にやってくるけれども、上手く了解出来ない間に消えて行きこころには徒労感が残る。僕らはこうした世界の動きに背を向けたい。だがそうはいかないのだ。世界は自然と同じように向こう側からやってくるのであり、これは心的現象だから勝手に堰き止めるわけにはいかないのである。心的な世界に水浸しに状態になるのは誰も止められはしないのである。
これに抗うのは自己問答という沈黙過程の内に閉じこもることであるが、其の力は夢を自己の内で紡いで行くことにほかならない。それは世界の書き換えであり、自分流の世界の構成である。これはある種の妄想かも知れないが、この中で夢を生み出し続けていくことだ。夢は作家の特権ではない。誰でも沈黙という世界の中で多くの夢を見、それを抱え込んで生きている。世界とは新聞やテレビで流される世界ではない、人々が今日から明日へと流れて世界がある。この世界は孤立している故に、連帯しているもう一つの世界である。歴史の流れという世界を超えるもう一つの世界を夢として見続ける現実の基盤はあるのだ。仙石官房長官の居眠報道はとんだ場所に自分の想像を運んだようだ。
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