次に掲げるのは、1933(昭和8)年に一人の言論人が書いた「わが児に与う」という文章の抜粋である。
《お前はお父さんが理想主義だと笑うかも知れない》
◆お前はまだ何もわからない。が、お前の今朝の質問がお父さんを驚かした。この書の校
正ができあがって、序文を書こうとしている朝である。お前は、『お父さん、あれは支那
人じゃないの?』と。壁にかけてある写真を指して聞いた。『ウン、支那人ですよ』と答えると、『じゃ、あの人と戦争をするんですね』というのだ。
『お父さんのお友達ですから戦争するんでなくて、仲よくするんです』、『だって支那人でしょう。あすこの道からタンクを持って来てこのお家を打ってしまいますよ』
お前のいうことを聞いていて、お父さんは思わず憂鬱になったんだ。
◆親父がジャーナリストだから、この子も時代の空気を嗅ぐことは早い、と笑ってしまうのには、お前の疑問はあまりにお父さんの神経を刺激したんだ。『この空気と教育の中に、真白なお前の頭脳を突き出さねばならんのか』。
◆お前はまだ子供だからわからないけれども、お前が大きくなっても、一つのお願いは人種が異ったり、国家が違うからといって、それで善悪可否の絶対基準を決めないようにしてくれ。お前のお父さんはアメリカに行っておった時に、人種の相違で虐められたこともあった。その時には『なに、こいつらが・・・』と燃えるような憤激を感じたものだが、しかし年齢をとって静かに考えるようになってからは、地球の上から、一人でもそういう狭い考えを持つものが少なくなることを念ずるようになったんだ。
◆お前はお父さんが理想主義だと笑うかも知れない。しかしお前が、ものを考える時代になったら、その笑われた理想主義がはたして遠道であったかどうかを見てくれ。こちらからワンと言うと、先方がただだまって引込むなら現実主義は一番実益主義だ。しかしこちらがワンと言うと、先方がだまって引きさがる保証があるかね。こちらが関税の保障を高くして、先方だけに負わせる仕組みが永遠にできれば結構だが、先方も自己防衛から円の下落と、こちらの関税に対抗しないという保証がどこかにあるかネ。先方も困るということは、こちらが困らないということではないよ。近頃の日本のインフレ経済学者の中にも、時代の影響を受けて、こうした一本道の人が多いのは喜ぶべきことだろうか。
《躊躇なく道理につくことの気持を養ってくれ》
◆お前が大きくなって、どういう思想を持とうとも、お前のお父さんは決して干渉もせねば、悔いもせぬ。赤でも白でも、それは全然お前の智的傾向のゆくままだ。
しかしお前にただ一つの希望がある。それはお前が対手の立場に対して寛大であろうとすることだ。そして一つの学理なり、思想なりを入れる場合に、決して頭から断定してしまわないことだ。
◆お前もこの国に生まれた以上は、国家を愛するに決まっている。が、お前の考えるように考えなくても、この国を愛する者が沢山いることだけは認めるようになってくれ。お前のお父さんも、全然反対な立場に立つ人に対しても、真剣でさえあれば、常に敬意を払ってきたんだ。
◆お前はお前だ。お父さんはお父さんだ。お前を教育するのに、お父さんの型に入れようとするような気持ちは微塵もない。お前はお前の持っているものを、煩われることなく発揮すればそれでいい。
お前は一生の事業として真理と道理の味方になってくれ。道理と感情が衝突した場合には、躊躇なく道理につくことの気持を養ってくれ。これは個人の場合にもそうだし、国家の場合でもそうだ。日本が国を立って以来道理の国として、立って来ている以上は、道理に服することが日本に忠実でないというようなことがあるものか。
◆折も折、今朝の食卓でお前の頑是ない質問があったばっかりに、お前に与える手紙がこの著の序文の代わりになった。これも何かの想出になろう。
《リベラリスト清沢洌の生きた時代は》
以上で引用を終わる。
この筆者は、清沢洌(きよさわ・きよし、1890~1945)。敗戦前の45年5月に急逝した外交評論家である。この文章は、1933年刊の著書『非常時日本への直言』のはしがき「序に代えて わが児に与う」である。清沢は、明治半ばに生まれ、アメリカに学び(海外生活は通算14年)、日本では1920年代から30年代にリベラルな論陣を張った。戦後は『暗黒日記』(ただし他人の命名)の筆者としてよく知られる。
「わが児に与う」が書かれた1933(昭和8)年はどんな年だったか。
世界は、「1929年大恐慌」への必死の対策に追われていた。為替切り下げ、ブロック経済化は清沢の一節にも出てくる。[必死の対策]を、少し乱暴に3分類すれば、日独伊の「ファシズム」の道、連合国の「ニューディール」の道、ソ連の「社会主義」の道、となるだろう。日本では、31年の「満州事変」、32年に「満州国」の建国と承認、犬養首相暗殺のテロである「5・15事件」、33年には国際連盟からの脱退、京大滝川事件という言論弾圧、共産党幹部の「転向」、と激しい状況が続いた。まさに日中戦争への道、言論・思想の自由の崩壊への道を突き進みがら「総力戦体制」を構築していった。むろん、全くの暗黒でもない。34年には米大リーグ選抜軍が初来日し、「大日本東京野球倶楽部」(読売巨人軍の前身)が誕生して翌年から「職業野球」が始まる。
《この危機を国民が自覚していない》
「わが児に与う」から82年が経つ。
『暗黒日記』(ちくま文庫・全三冊、2002年)の解説者として、評論家の故橋川文三は次のように書いている。(◆と◆の間)
◆「日記」を読みなおし、胸をつかれることの一つは、清沢がしばしば述べていることであるが、「敗戦によって果たして日本人はより賢明になるであろうか?」ということである。(略)官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナリズム、精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性、等々。日本人の劣性の側面を指摘して余すところのないこの記録は、それがたんに冷笑的立場から書かれたものでなく、日本の再生を熱烈に希求した愛国者の記述であるだけに、現代のわれわれにとってもなお生々しく迫る自己批判の模範ということができる。◆
安倍晋三政権の「積極的平和主義」は、「イスラム国」人質事件以後は、「テロには屈しない」、「(犯人に)罪を償わせる」、「(テロリストに)日本人には指一本触れさせない」と言い放ち、集団的自衛権に関しては、「日本に攻撃がなくても自衛隊は世界のどこでも防衛活動が可能」という危険な言葉をまき散らしている。まき散らすだけではない。国会での絶対多数を背景にして彼らは、強弁・詭弁・修辞を駆使して、解釈を変え、法律を創り、制度をあらためて、戦争のできる国に驀進している。二人の人質を犠牲にした責任は取らないのか。
戦時の清沢、平時の安倍。いずれが自己の客観化と平和への意思が強いか。いずれが自他を直視できず武力への傾斜を強めているか。戦後75年続いた「戦争から平和へ」という「時代精神」は、ベクトルを「平和から戦争へ」と逆転しつつある。不幸なことは、この逆転は国民に圧倒的に支持されている。形式上そのように見えることである。そして最大の悲劇は、その危機を国民が自覚していないことである。
私には言葉がない。君には言葉があるのか。「敗戦によって果たして日本人はより賢明になるであろうか?」と総括した橋川の言葉を繰り返してこの文章を終わる。 (2015/03/06)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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