済州島4・3事件等ツアー報告

皆様
おはようございます。犯罪都教委&1・5悪都議と、断固、闘う増田です! これはBCCでお送りしています。重複、ご容赦を!

敬愛する同志!? に誘われ、たまたま予定が無かったため、以前から関心のあった、4・3事件を中心とした富士国際旅行社のツアーに参加しましたので、ご報告(添付ファイル)! メモを取らずにいたので、私の脳ミソ記憶だけですから、聞いたお話などは勘違いなどもあるかもしれませんが、ご容赦を!

済州島(チェジュド)は、北九州とほぼ同緯度にある東西楕円形の火山島です。以下、一番、心に残った済州島戦争歴史平和博物館の館長さんの言葉を紹介します。御関心のある方は、かなり長いですけど・・・なにしろ、4日間ですから・・・添付ファイルを開いて全文、お読みいただければ嬉しいです。

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私は質問しました。「旧日本軍は、お父さんに強制労働させたりしたのですから、館長さんは日本に対してイヤな気持、恨みの気持ちがあるのではないかと思うのですけど、そういう部分は展示にも映画にも無かった気がします。どうして私財を投じてまで、こういう博物館を作られたのですか?」

館長さんの答えはこうでした。「私の父は、敗戦後、軍服のままでは日本に帰国できなかった元日本兵に自分の背広などをあげました。私は『どうして、自分を酷い目にあわせた日本人なんかに、そんなに親切にするんだ?』と父を問い詰めました。

父は言いました。『あの人たちが悪いんじゃない。戦争をさせた上の地位にいた日本人が悪いんだ』と・・・決して、日本が悪いと伝えたいのではなく、私は、二度と日本人と韓国人が、こういうことにならないために、体験を若い人たちに伝える教育の場が必要だと考えて、これを作りました。」

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2012年10月22日済州島旅行記

2012年10月22日~25日 済州島4・3事件ツアー報告
敬愛する同志!? に誘われ、たまたま予定が無かったため、以前から関心のあった、4・3事件を中心とした富士国際旅行社のツアーに参加しましたので、ご報告! メモを取らずにいたので、私の脳ミソ記憶だけですから、聞いたお話などは勘違いなどもあるかもしれませんが、ご容赦を!
済州島(チェジュド)は、北九州とほぼ同緯度にある東西楕円形の火山島です。

*22日 12:20済州空港着  済州市内見学
1、三姓穴

ここには地面に三つの穴があいています。これは原始、誰もいなかった済州島に、天から降り立った三人の天人の男性(三神人)がいた、という証拠になっていて、済州島の聖地のようです。彼等が済州島に最も多い(「半分くらい」と通訳ガイドの金さんが説明されたような)、高氏・良(簗)氏・夫氏=三姓の先祖となったという神話の起源地です。

天孫降臨のニニギが、自分は働きもせず、先に土地を耕していた人々を自分に服従しない「悪者」として征伐(強盗殺人!?)し、奪ったクニで「王」になったという日本神話に比べ、天から降臨して人間になった三人の元神様たちが自分で狩猟し畑を耕し、三人の姫と結婚して、協同して働き国をつくった、それが済州島の人々の御先祖である、というのは、とても平和で良い神話ですね!・・・では、その姫さん方の御先祖は? とも思いますけど・・・

この三姓穴の入り口にある写真のトルハルバン(石爺さん)は韓国でも済州島だけにあるもので、村の守護神として村の入り口とか境界線にあったそうです。済州島は漢拏山(ハルラサン)を中心として全体が火山島なので・・・側(小)火山が368とか・・・、火山岩の玄武岩を彫って作ってあり、済州島のシンボルです。稀に「石婆さん」もあるそうですが、「男尊女卑が強かった・・・働くのはもっぱら女性という・・・島で、とても少ない」と通訳ガイドの金さんが説明してくれました。

2、観徳亭
済州牧官衙の前にある1448年に建てられた島で最も古い建築物だそうです。この前が広場になっていて、1947年の済州3・1事件の舞台となりました。
これは3・1独立運動の記念集会において、騎馬警官が幼児を馬で蹴飛ばしたまま通り過ぎようとしたことに怒った民衆が投石したことで、警察官が発砲し、死傷者が出た事件です。その結果、警察、及び警察と結び付き暴虐をほしいままにしていた西北(ソプク)青年団による弾圧と、それへの抵抗が、朝鮮半島を分断する単独選挙に反対する運動と結び付き、翌1948年の4・3武装蜂起事件につながっていったのです。西北は、ソ連占領下の北朝鮮から逃げてきた極右反共青年集団で、リーダーは日本植民地支配下、特高警官として同胞を弾圧拷問した韓国人だったとか。

ここは、金石範の小説『火山島』によく出てくる場所なので・・・って、3巻までしか読んでません・・・「あ~、この前を李芳根(イ・バングン)や妹の有媛(ユウオン)、南労党の康蒙九(カン・モング)や南承之(ナム・スンジ)たちが歩いたのか~・・・」なんて、感慨がありました。もちろん、作家が創作した人物群ですけど、モデルとなった人たちがいらっしゃったでしょう。

官衙の中に表示されていた朝鮮王朝時代の済州牧長官の報告書に年貢の馬の数が書かれていました。済州島は火山島なので水が不足し、平野もないため、高麗時代に占領軍だった蒙古軍が連れきた馬の後裔(一般的な馬より小柄)の一大産地となっていました。また、朝鮮半島では一番南にあるため、唯一柑橘類が生産できる所で、それぞれの木のミカンの数はきちんと一個も違わず朝廷への報告書に記載され、何が何でもその数を納めなければならなかったので、苦しんだ農民たちからは「涙の木」と言われたそうです。
しかし、現在は、和歌山県の在日の人たちからミカン栽培を学んで成功し、何千坪のミカン農家もあり、たいへん収入が良いため子どもを大学に出せる費用が得られる「大学の木」と言われているそうです。通訳ガイドの金さんは「実は、上の姉たちは学校に行けなかったんですけど、ミカンを栽培するようになったので、私は大学に行けました」と言っておられました。

官衙の建物の中には役人が碁を打ったり、妓生を侍らせて宴会する建物もあり、妓生養成所もあり・・・やっぱり、支配階級の人間たちは、搾り取られる庶民と違い、優雅に暮らせたんですねぇ、これは万国共通ですねぇ・・・と、ツアー参加者(全部で5名、最高齢は82歳の男性)と苦笑してしまいました。

3、その他
龍頭岩(ヨンドウアム)という、溶岩がそのまま海に流れ落ちる時に・・・と言って、島全体が火山ですから、ほとんどの海岸は溶岩が海に流れ落ちているのですけど・・・龍の頭のように見える岩を見ました。「龍の頭」と言うにはちょっと、苦しいような気もしましたが(笑)、奇岩に間違いはありません・・・

あと、本当に不思議な「お化け道路」も見学。別に、そう作ろうと思ってつくられた道路ではなく、偶然、発見した人がいて、今は観光地になっている、という道路です。
どこが不思議かと言うと、誰が見ても、どう見ても「上っている」としか見えない道路なのに、「実は下っている」という、目の錯覚を起させる道路です。証拠として、車(私たちはマイクロバスでしたが)のエンジンを切ると、自然に車は上っていく・・・とにかく、上っていくとしか見えない・・・のです。でも、エンジンを切った車が進行していく、ということは、下っているのですよねぇ・・・バスを降りて歩きましたが、やっぱり、上り道路にしか思えないのです。水をまくと、何と、水が上の方に流れていくように見えて・・・

夕食は雉肉のシャブシャブ。初めて雉肉を食べましたが、とっても美味しかったです。最後の雑炊が、また、美味!

*10月23日
1、漢拏山自然路コース
漢拏山の側火山の一つ御乗生岳(オスンセンアク 1169m)片道30分を往復。黄葉が綺麗な山で昨日の雨が上がり、とても気持ちのいい初心者向けコースでした。遠足の中学生、小学生がいっぱい登っていました。どこでも、子どもたちって可愛いですね。
その頂上には、第二次大戦末期、旧日本軍が、この島を沖縄の次の決戦場になると想定して6万(7万だったかも)の日本兵を入れ・・・当時島民は22万人とか・・・全土要塞化をした跡の一つ、トーチカが残っていました。
標高1,100mの地に、済州島民を酷使して軍事基地を造らせたわけです。入って、その覗き窓? から、海岸や町を見下ろすと、何とも表現できない気持ちになります。

2、済州島戦争歴史平和博物館
映像館で日本植民地支配下の記録映像などを使って日本人向けに作成した映画・・・ちょっと、味付けが甘いような気がしましたが、未来を作る日本の若者たちを対象に作った感じですから、こういうものかな・・・を見た後、館長の李英根(イ・ヨングン)さんのお話を聞くことができました。
この博物館とすぐ側のカマオルム地下要塞の保存管理は李館長さんが私財を投じられたものだそうです。また、館長さんは、近くの山の中にある、打ち捨てられて藪の中に埋もれていた旧日本軍人のお墓を発見して、一人で木々を伐採してそこを整え、きちんと供養をしてくださっているそうです。今は、日本領事館の人も掃除などには協力している、ということです。
この博物館については、私は以下のような韓国紙の報道で知識としてはありました。
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【朝鮮日報 2012.08.19】
済州の日本軍洞窟陣地、日本人の手に渡る可能性も
済州道「文化財庁で購入してくれるよう望む」
日本の植民地時代に道民を動員して構築、個人が修復し博物館を建築
日本の宗教団体が買い入れの意向を表明…政府、国民の怒りを見て買い入れに46億ウォン投入したが、鑑定評価額は2億7000万ウォン
博物館「安値では売れない」、政府「評価額以上は渡せない」
日本に買われる可能性も

もう少しで日本の手に渡るところだった「済州戦争歴史平和博物館カマオルム日帝洞窟陣地」の政府の買い入れが難航していることで、再び論議を呼んでいる。済州道からの買い入れ要請を受けた文化財庁が「土地の鑑定評価額以上では購入できない」と難色を示しているためだ。初期復元に20億ウォン(約1億4000万円)もかかった洞窟陣地の鑑定評価額は2億7000万ウォン(約1890万円)。これによって「日本への売却が再び進められるのではないか」という懸念混じりの話まで持ち上がっている。さらに今年初めに博物館を買い取る意向を表明していた日本の某宗教団体は、今も買い入れる意向を間接的に打診しているという。
政府がカマオルムの日帝洞窟陣地の買い入れを表明したのは今年3月だ。太平洋戦争当時に日帝が済州道民を動員して作ったトンネルが日本人の手に渡るという消息が伝わると、地域の世論は一気に沸き立った。結局、済州道は日帝洞窟陣地と平和博物館の買い上げに向け財政支援を行うよう文化財庁に公式要請した。しかし、文化財庁は2006年に登録文化財になったカマオルム洞窟陣地だけを買い入れの対象としており、博物館は購入できないと回答した。文化財の管理法上、個人が建てた博物館を買い取ることができる根拠がないとの理由からだった。この部分については博物館側も同意しながらも、解決の糸口は見えたかのようだった。
問題は最近、洞窟陣地に対する鑑定評価結果が出たことに起因する。4800坪(1坪=約3.3平方メートル)の洞窟陣地の鑑定価格が2億7000万ウォンにしかならなかったことだ。文化財庁の関係者も「鑑定額が予想以上に低く出て驚いた」と話した。洞窟復元に約20億ウォン、博物館の建立に26億ウォン(約1億8000万円)が投入されたことを考慮すれば、あまりにも低過ぎる額だった。このように評価額が低くなったのは、陣地洞窟内の展示施設に対する評価はもちろんのこと、陣地洞窟が持つ文化財的価値が評価の対象から排除されたためだ。評価を依頼された鑑定評価法人は「文化財の貨幣価値は計量化が難しい」と陣地洞窟に対する鑑定評価ができない理由を説明した。
済州道庁と文化財庁は「現在評価対象から外された陣地洞窟内の施設についても鑑定評価できる方法を模索している」と明らかにした。しかし、再び鑑定評価が行われたとしても、すぐに売却できる可能性は非常に低い。文化財庁が「公益的価値評価の反映は非市場価値を反映するよう求めるようなもので、不動産売買に類例がない」と、反映を拒否したからだ。博物館側が韓国文化遺産政策研究所に依頼して評価した同博物館の公益的価値は約250億ウォン(約17億5000万円)だ。しかし文化財庁は、洞窟陣地内の施設に対して再び評価を行ったとしても、復元費用にははるかに及ばない額が算出されると予想している。
イ・ヨングン館長(59)は1996年から私財を投げ売って本人が直接陣地洞窟を掘り出し修復、博物館を建設した。日帝に強制連行され、カマオルムのトンネルで働かされた父のためだった。イ館長は、強制労働させられた老人約200人を一人一人インタビューし、トンネル発掘のために地域一帯の土地を丸ごと買い上げた。昼食も洞窟内で弁当で済ませ、洞窟内の土を掘り出してはつっかえ棒を立てていった。ゴミ置き場から日本軍の軍服や水筒など当時の遺物2800点を集めた。陣地洞窟の復元費用を含め、博物館の建設にかかった46億ウォン(約3億2000万円)は、中卒のイ館長がトラックの運転手から始めて稼いだ元手と銀行からの借金で充当した。
2004年にオープンした博物館は、修学旅行の定番コースとなり、日本人の来館もあったが、次第に訪問客が減っていったことで、赤字運営を免れることができない今の事態にまでつながった。借入金の利息だけでも現在月に5000万ウォン(約350万円)を超えるという。済州道庁の関係者は「博物館を建てた当時の設立者の過剰投資もあったと思うだけに、国家が100%補填するには無理がある」と話した。
文化財庁の関係者は「文化財を経済的価値に換算して評価した前例がないため、一般の不動産と見て買い入れるほかない。博物館の建設に多くの費用がかかったとしても、現実的にこれをすべて補填することはできない」と説明した。複数の政府関係者からは「博物館側が受け入れなかったら、解決できる方法は何もない」という言葉まで聞かれた。イ・ヨングン館長は本紙との電話インタビューで「政府がすべきことを個人が代わりに行ったまでのことで、これも過剰投資と言われなければならないのか。周辺にも膨大な被害を与えているし、率直に言って本当に大変だ。どこでもいいから早く買い取ってほしい」と辛い心境を語った。

■済州カマオルム洞窟陣地
太平洋戦争当時、済州市翰京面清水里カマオルム一帯に日帝が作った地下トンネル。3階構造からなっており、長さは2キロで出入口は33個ある。司令官室、物資保管所、作戦会議室などの部屋は数十に上っている。日帝が太平洋戦争当時に済州道に作ったトンネルの中でも最大規模として知られている。
クァク・レゴン記者

【中央日報 2012.10.10】
韓国文化財庁 済州・平和博物館の買い取り推進
【済州聯合ニュース】日本の植民地時代の歴史を伝える済州市の私設博物館「済州戦争歴史平和博物館」が資金難に陥り、日本人への売却交渉が進められているとの報道を受け、韓国文化財庁は10日、登録文化財を中心に国が買い取りの手続きを進めていることを明らかにした。
同博物館の敷地内にある旧日本軍によってつくられた「カマオルム洞窟陣地」(国家登録文化財第308号)と関連資料について、国と済州道が購入を決定し、手続きを進めてきたという。
同庁によると、近く洞窟陣地と博物館所蔵の遺物に対する鑑定が終了する。
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私は質問しました。「旧日本軍は、お父さんに強制労働させたりしたのですから、館長さんは日本に対してイヤな気持、恨みの気持ちがあるのではないかと思うのですけど、そういう部分は展示にも映画にも無かった気がします。どうして私財を投じてまで、こういう博物館を作られたのですか?」
館長さんの答えはこうでした。「私の父は、敗戦後、軍服のままでは日本に帰国できなかった元日本兵に自分の背広などをあげました。私は『どうして、自分を酷い目にあわせた日本人なんかに、そんなに親切にするんだ?』と父を問い詰めました。
父は言いました。『あの人たちが悪いんじゃない。戦争をさせた上の地位にいた日本人が悪いんだ』と・・・決して、日本が悪いと伝えたいのではなく、私は、二度と日本人と韓国人が、こういうことにならないために、体験を若い人たちに伝える教育の場が必要だと考えて、これを作りました。」
何と、素晴らしいお父さんでしょうか・・・「普通の日本兵が悪いのではない、命じた上の立場にいた日本人が悪いのだ」・・・被害者でありながら、敗れた加害者に対して、こんなにも寛容に接してくれた韓国の人たち。とても、心に残る言葉です。
カマオルム(オルムは側火山のこと)の複雑な洞窟陣地をまわると、御乗生岳のトーチカの中に入った時よりも、もっと名状し難いものがありました。
他の方が「日本人はどのくらい、ここに来ていますか?」と質問されました。お答えは「韓国では修学旅行生などが来ますが、日本人は個人や皆さんのような個人的グループの方が多く、平均すれば一日15人ぐらいです。」

お話の最後に、私の闘いについて、韓国MBC,SBS,KBS,英チャンネル4が取材して報道してくれたものを一枚のDVDにまとめたものをお渡ししました。前日に渡し、それを見てくださった通訳ガイドの金さんが館長さんに説明してくれました。李館長さんは「ここの映像資料として、ぜひ、使わせてください」と言われ、感激でした。

3、海軍基地建設反対運動に揺れる江汀(カンジョン)村
案内をしてくださる予定だった反対運動の活動家の方が、あいにくと体調が悪いということで、通訳ガイドの金さんと私たちだけで回りました。この海は貴重なサンゴ群が有り海洋公園になっているにも関わらず、韓国海軍の新しい基地を韓国軍=韓国政府が建設強行している所なのです。裏には、米軍の強い意向が有ると言われています。米韓安保条約で、韓国軍基地は米軍が使用したいと言えば、即使用させることになっていて、自国政府は拒否はできない、ということです。沖縄の米軍基地と同じですね・・・
村では、基地建設に反対の家には反対運動のシンボルの黄色い旗が、賛成の家には国旗が、はためいていました。何の旗も立ててない家も・・・村の中は、それまで中の良かった隣近所、兄弟姉妹、親戚同士に亀裂が入っているそうです。これも、どこの国でも同じ構図・・・。
この海岸からは、午後からの快晴の中、美しい漢拏山の全容がよく見え、最初に見た時は歓声を上げてしまいました。本当に美しい山・・・美しい海と・・・。前日は時々、雨が降って漢拏山は雲の中で全く見えなかったので、小説『火山島』のイメージから、もっと、ゴツゴツしているかと思っていたのですけど、裾野が実になだらかに延び、山頂だけが、ポコッと被った帽子のように出ています。

4、アルトウル旧日本軍飛行場跡
広い広い畑の中に旧日本軍の飛行機格納庫である掩体壕が20カ所残っており、そのうち一つは崩れたそうですけど、残り19カ所は今も健在です。飛行場跡は今も何もなく、韓国軍・米軍が有事の際はすぐ使えるようになっている感じです。ここは、旧日本軍が農民たちから強奪したまま、今も、国有地になってしまっていて、旧地主さんたちは「返してほしい」と訴え続けているそうですけど、韓国政府は返そうとしないとか・・・旧日本軍は今も済州島の人たちに迷惑をかけつづけているのですねぇ・・・

御乗生岳の旧日本軍トーチカ、平和博物館そばの旧日本軍カマオルム洞窟陣地、このアルトウル旧日本軍飛行場、他にも海岸の崖に洞窟を掘らせ回天などの基地とした場所・・・つまりは、旧日本=大日本帝国は他国に乗り込んで暴力支配し、全て自分たちの為に他国の人も土地も好きなように使っていたわけで・・・なんとも、自己チューのカタマリの大迷惑な存在だった、ということが物として目の前に厳然と存在しました。韓国本土では、さすがに、こんな旧大日本帝国の大規模な遺物は無いので、胸にシンシンと響きます。そして、大日本帝国は4・3事件、朝鮮戦争を引き起こす種をまいて引き上げ、大日本帝国を継承した日本国は、朝鮮半島での200万人からの人の血とそれに何倍もする涙を糧として経済を復興させたわけです。
それなのに、今でさえ、反省どころか「自分たち日本人が、遅れていた韓国を近代化してやったのだ」なんぞという、トンデモ日本人たちが、けっこう、いて、そういう教科書さえ作り、日本政府文科省は検定合格させて、教科書としてのお墨付きを与え、そういう教科書を子どもたちに押し付ける教育委員会がジワジワと増えており、そういう教科書の歴史偽造を「歴史を偽造してますよ」と真実を教える、社会科教員として当然の職務を果たした私が『公務員不適格』として免職にされるのが日本国です。世界の中で日本だけが歴史の進歩の歯車を思いっきり逆回転させているとしか思えないのですが、それで、日本の子どもたちに「自国・日本への誇りを持たせることができる」なんて、超!? 勘違いでしょう。

まぁ、ほとんどの日本人は何も知らないので「リゾートアイランド・チェジュ!」や韓流ドラマを楽しんでいます・・・チェジュ島以外でもそうなのですが、本当にそれだけでいいのでしょうか?
洞窟の一つは『チャングムの誓い』の撮影場所になったそうで、ほんの少々は韓国の方の役にたっている・・・かな!?

*24日
1、4・3平和公園&記念館へ
4・3事件は、観徳亭前の1947年3・1事件から始まりました。「1948年の朝鮮南部単独選挙は朝鮮半島の分断を固定化するもので、統一朝鮮独立のためには5月10日の選挙は阻止しなければならない」と、南朝鮮労働党(南労党)済州島党が4月3日に武装蜂起。8月15日の韓国政府成立後、戒厳令が出され、1954年9月1日に漢拏山禁足地域が解除されるまでに、武装隊と討伐隊の衝突、鎮圧過程で25000~3万人の島民が殺されたと言われます。
光州事件などを経て韓国が民主化されるまでは、これは「アカ・共産主義者の暴動」とされ、犠牲者の事を語ることは許されず、大声で泣くことも許されなかったのです。祭祀も公にはできず、遺族は身分証明書に「思想犯」として赤線が引かれたものを持たされ、差別され、どんなに試験で優秀でも、公務員になることも士官学校などに入学することもできなかったそうです。
この平和記念館は「済州4・3真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が1999年に成立したので、2000年から建設に着手し、2008年に開館しました。入って暗い洞窟のような所・・・4・3事件の闇を意味するとか・・・を抜けると、高い吹き抜けの太陽光が入る真下に何も書いていない真っ白な柩のような石碑が横たえてありました。『白碑』というそうです。記念館の日本語ガイドの女性は言われました。「まだ、4・3事件には正式な名前が無いのです。正式な名前がついたら、これに刻名し、立ち上げて記念碑となるのです」
これが記念碑として立てられるのは、統一朝鮮国家が成立した時でしょうか? それは、いつ?

生存者で前遺族会会長、現在どこかの地域・・・聞きましたが記憶がなく・・・の遺族会会長をしていらっしゃる金錫甫(キム・ソッポ)さんからお話を聞くことができました。今年77歳になられたそうです。最初に日本植民地下で教えられた日本陸軍の歌を今も覚えていると言って、いくつか歌ってくれました。すっかり、日本人化していたので、「解放後2年間ぐらいはバカになった」と笑われましたが、こちらは、ズキリと胸が痛かったです。外国語なのに徹底した皇民化教育の結果、日本語で考える習慣がついていると、母国語で考えることがなかなかできない、ということは聞いていました。
8・15解放後、やっと、独立した朝鮮ができると思ったのに、米軍が来て、日本植民地下で日本の警察官として独立運動をする人たちを弾圧した同国人たちが、また、警察官となって統一朝鮮を望んだ人たちを弾圧していったのは納得がいかない、というのが当時の普通の済州島の人たちの気持ちだったようです。
事件当時、村長だったお父さんは捕まるのを避けるために山に逃げ、連座制により・・・これは、最近までかなり長い間、あったそうです・・・お母さんが刑務所に入り、3ヶ月後釈放された時は食事を満足に与えられず、拷問もあったので、すっかり体を悪くして働くどころではなくて伏せっているしかなく、12歳の彼が幼児の妹さんを背負い食べ物を集める、乞食のような生活をせざるを得なかった、ということです。
戸数約300、人口約1200人の村で、お父さんを含む433人が殺され、幼い妹たちも3人が犠牲になったそうです。生き残った人の中でも、他の所に移されたあと、また、100人が殺されたということです。
金会長さんは、今は5千坪のミカン農園を経営し、娘さんは大学教授で、息子さんは会社の重役となり、人も羨む家庭を築くことができたそうです。学校には行けなかったけれど、独学で学び、立派なミカン農園経営者となっていらっしゃいます。
「隠れて妹たちの祭祀をしなければならなかったけれど、私は妹たちの好きだったものをそなえてきちんと祭祀をしてやれました。でも、一家全員殺されて、だれも祭祀をしてあげられない家がたくさんあるんです。心が痛くて、そんな人たちのために、なんとか祭祀をしてあげたいと考えて、最初はささやかな慰霊施設を考えていたのですけど、こんな立派な施設になりました」と笑っておられました。
そして「みなさん、遠い日本から、こんなところまで来てくださって、ありがとうございました。どうか、済州島の明るい所もたくさん見てください」と私たちを気遣ってくれました。本当に韓国の人たちは優しいなぁ、寛容だなぁ、と、いつも思います。そして、そうした被害者である方たちの優しさ、寛容さに付け込むような一部の・・・ん~~、一部かな?・・・日本人たちに恥ずかしさを覚えるのです。
私は質問しました。「この虐殺の責任者として李承晩大統領、米軍政長官と、蜂起のリーダーで北へ逃げた南労党の金達三をあげる韓国の方もいますが、会長さんも、武装隊のせいで、こういう虐殺が起きたと、お考えですか?」
会長のお答えは「いやいや、武装隊と言っても、同じ村で一緒に生活していた仲間ですからね・・・」(彼らのせいとは思わない、ということですね。)

金会長さんにも私の闘いの取材記録DVDをお渡しして、次に、この事件の中でも最も大規模な虐殺事件の起きた北村里(プクチョンリ)4・3記念館へ。ここでは、2人の軍人が武装隊に殺されたことをきっかけに、1949年1月17日、小学校の校庭に病人であろうとも子どもであろうとも村の人たち全てが集められ、村全体が放火されて焼きつくされ、校庭でも近くの畑でも老若男女、赤ん坊も含めて350名余りが次々と軍隊に虐殺されていった所です。その小学校が、そのままの地に・・・もちろん、とっても綺麗な校舎、校庭になってはいますけど・・・あります。日本人だったら、そういう忌まわしい場所は、ササッと移転させ、全く影も形も分からなくしてしまいそうですが。
ここでは、遺族会会長の洪(ホン)トクスさんのお話を聞きました。「トクスは日本語でいえばトクヤマ=徳山で、日本の親戚たちは、そう名乗っています」と言われました。
私が「お若く見えますけど、事件の時は何歳でいらっしゃいましたか?」と質問し、お答えは「3歳です。今、67歳です。」
お父さんは1949年、「山を降りたら罪を免除する」という韓国政府の投降勧告ビラを信じて降りたところを逮捕され、ついに帰って来られなかったそうです。いろいろお話を聞きましたが、日本の出版社の新幹社の社長さんと親しい、と言われました。私が「あっ、じゃあ、高さんですね。私も知っています。四谷にとっても美味しい韓国料理の店も出しておられますよ」「え~っ、そうですかぁ」ということになり(笑)・・・
参加者の一人が言われました。「韓国の民主化運動には敬意を持っています。日本よりも本物の民主主義ではないかと思います。ただ、4・3事件といっても、僕もそうですが、なかなか直ぐにはピンと来ない人も多いです。僕は映画が好きでよく見ます。映画は、とても多くの人に分かり易く問題を知らせることができますから、この4・3事件も映画化して多くの人に見てもらってはどうでしょうか? そういう計画はありますか?」
お答えは「韓国内でも、4・3事件に関心のない人も多くて・・・それで、実は、映画を作り、釜山映画祭にも出しているんです。ただ、これは一般の人は見ることができません。検閲があって・・・」
そうか・・・今でも韓国では映画を上映する前には政府の検閲を受けなければならないのですね・・・初めて知りました。4・3事件についてはノ・ムヒョン大統領が韓国政府を代表して謝罪されたんですけど、まだ自由に映画を撮り、上映することはできないでいるのですね。
そういえば、金錫甫氏も「こういう記念館に対して、今でも快く思わない(韓国)人もいるんですよ。」と言っておられましたし・・・確かに4・3事件の犠牲者たちは、南だけの選挙によって38度線で国家が分断されることに反対した(とされた)為・・・といって、子どもたちは無関係ですが、権力者から「敵」とされることは「人間」として認められない、ということ・・・ですから、この事件を映画で描くことは、根本的に「大韓民国」建国に対する疑義を提出することになり、大韓民国政府としては、検閲許可を出すわけにはいかない、ということなのでしょうか?
また、他の参加者から「個人への政府補償はあるんですか?」という質問が出ましたが、お答えは「個人補償はありません。数が膨大ですから・・・共同補償として、こういう記念館を作るお金などが出ています。」

洪会長にも、最後に私の闘いについての取材記録DVDを差し上げました。ガイドの金さんが「石原慎太郎と闘っている先生です」と言われましたら「勇気が有りますねぇ」と(笑)。「来年4月には、日暮里でも4・3記念集会を持つので、ぜひ、そこで皆さんと再会しましょう!」と、洪会長のお言葉でした。

ここでいただいた日本語リーフの中にあった作家の玄基栄(ヒョン・ギヨン)氏の言葉も心に残りました。「勝てない状況だからといって降伏し屈服しなければならないのか? 勝てない闘いであれ、闘うのが人間というものだ」。彼は『順伊おばさん』(金石範訳 新幹社)の作者です。順伊(スニ)おばさんは、北村里大虐殺の犠牲者の一人で、玄基栄氏はこの4・3事件の悲劇を韓国内で初めて筆にしたことにより、罪に問われました。
もしも、1948年に米軍政下での南だけの選挙が行われず、統一選挙を行って統一朝鮮ができていたら、4・3の同国人大虐殺事件もなく、朝鮮戦争もなかったわけで、日本の歴史も世界の歴史も変わっていたはず・・・日本の高度成長は無かったかもしれません。「歴史のイフはナンセンス」としても、チラッと考えてみずにはいられません。
しかし、とにかく、そうなんです! 勝てない闘いであれ、「人間として、正しいこと」の為に、闘うのが人間というものだ!!!・・・我が身を思い(笑)・・・

2、世界遺産・万丈窟へ
ここは自然の溶岩洞窟で、何十万年という時間が造ったその規模の大きさには驚嘆するばかりです。とても、私の拙い言葉では表せません。ぜひ、実際に行って、その目で見て来てください(笑)。絶対に一見の価値が有ります!

3、城邑民俗村へ
ここは、本当に昔のままの済州島の家が残っている村です。萱で葺き、萱の縄を張り巡らして、しっかり止めた屋根の家が並んでいました。済州島は「風の島」です。風がとても強い所なので、吹き飛ばされないように、また、水田が無いので藁が無いため、萱で葺き、萱で編んだ縄で止めるのです。ここで今でも村の人は生活しています。家の中ではもちろん、電気・水道・ガスを使っているのですけど、外側には手を入れられないのです。
この村の日本語ガイドさんは本当に日本語が上手で説明が上手で、おまけに話術が巧みなので、私にしますとかなり高額なのですが、「たいへん健康に良くて、済州島でもここだけでしか売っていない」という食品を、ついつい買ってしまいました。実家の母の弱った体に効けば、高くはないかも・・・と。さて・・・。

*25日
最終日。歴史探訪&自然探訪の、本当に中身の濃い、素晴らしく充実した旅の最後は、済州民俗村。島の東南部にあり、ホテルや空港のある済州市からは車で1時間くらいの広大な野外博物館です。ここで、ず~~っと、素晴らしい通訳ガイドをしてくださった金さんが、お休み処で粟マッコリとジャガイモのチジミをおやつに奢ってくださいました。逆にならなきゃいけないのですけど。
粟マッコリは『火山島』に出てくるので、済州島に行ったら、飲んでみようと思っていたのですけど、現代の済州マッコリはお米で造ったものなので、私が「粟マッコリを飲みたいな」と言っていたのを、覚えていてくださったようです。本当に普通の済州マッコリよりも甘くて濃くて、とっても美味しかったです! でも、これは自家用にしか作っていなくて市販はしてないとか。
お昼は済州市に戻り、参鶏湯! 丸ごと1匹煮込んだ鶏のおなかに、もち米、ナツメ、朝鮮ニンジンが詰まっています。何とか、征服! おなかがパンパンになって大満足し、バスに戻って・・・真っ青っ!? カっ、カっ、カメラが無いっ!? どツ、どツ、どーしよ~~・・・
あ~・・・また、大ドジを踏んでしまった・・・民俗村で粟マッコリの写真は撮ったから、その最後にトイレに行った時だ、きっと・・・
通訳ガイドの金さんは「大丈夫です。民俗村に電話して探してもらって、あったら、タクシーで持ってきてもらいます。時間はまだありますから。」と力強く言ってくれました。この後は免税店に寄って空港に行くだけで・・・でも、私は買い物どころではなく・・・といって、城邑民俗村で御土産用のお金は無くなっていましたけど。
ツアー参加者の方も心配してくださって、みんなが買い物を終えた後も、しばらく免税店前のあずま屋で休憩しながら待ってくれました。「私が撮った写真をCDにして送ってあげますよ。ほとんど一緒だし、増田さんがDVDを渡している所なんか、増田さんのカメラには無いでしょう?」と優しく言ってくださる方もいて感激しました。このツアーで初めて会った方なのです。でも、飛行機は午後6:10発ですから、まだ、時間に余裕はあるし、ほのかな期待をかけて・・・
と、金さんの携帯電話のベルが鳴りました。「あったか!」と期待して金さんを見守りましたが、金さんの話の口調は厳しいまま・・・ああ、だめよねぇ、しかたない・・・と諦めがよぎりました。「はぁ~~・・・さすがにこれは、ミス増田」なんて、しゃれてられないよねぇ・・・泣きそう・・・
っと、そこへ、また、金さんの携帯のベルが・・・金さんが「そう、赤のコダック!」と。バンザ~イ!!! 有ったのです、有ったのです。あ~っ、良かったぁ・・・実は皆さんには「まぁ、もう古いから、買い替えようと思ってたんですよぉ」な~んて、負け惜しみ(笑)を口にしていたんですけど、本当は、もちろん、ここまでに撮った写真が惜しくて惜しくて惜しくて・・・

これで、安心して空港へ。搭乗手続きをしても、まだ3時。椅子に座っておしゃべりをしていましたら、金さんが、誰かに手をふっています。彼も気がついてこちらへ。なんと! 平和博物館の李館長さんではありませんか! 同じ便で東京の品川にいらっしゃるとか・・・成田へ向かう大韓航空の飛行機は一日一便しかないので、25日に成田に向かう人は、皆、この飛行機で一緒になるんですけど、奇遇でした!
そして、しばらくして、金さんの携帯のベルが鳴り、短く話し終わると「今、運転手から、もうすぐ着くと言っています」と言われました。バンザイ、バンザイ!!! 走って、タクシーの来る所へ。3万ウォン、2,400円、タクシーで1時間、日本では考えられない料金で助かりました! 封筒に入れてしっかりセロテープで止めてあり、焦ってしまい開けるのに苦労しましたが、赤のコダックのデジカメが出てきました! ありがとうございました! もう、誰彼なく、お礼を言いたい気分!

ということで、最後に皆様をお騒がせし、ご迷惑をおかけしてしまいましたが、通訳ガイドをしてくださった金さんはじめ親切で優しい済州島の方々、ツアー同行者の方々のおかげで、素晴らしく充実した旅を終えることができました!        オシマイ!