渡部富哉・講演会のお知らせ

著者: 渡部富哉 わたべとみや : 社会運動資料センター
タグ:

日時:4月21日(土)午後1:00~5:00

場所:明治大学駿河台校舎・リバティタワー

2階1021号教室

演題:「解明されたゾルゲ事件の端緒―日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追って」

講師:渡部富哉(社会運動資料センター)

参加費・資料代:1000円

沖縄の革新の元祖といわれる松本三益は当局のスパイだった、という衝撃的な真相を語る。

沖縄教育労働者事件と三益、九州2・11事件(西田信春虐殺事件)、毛利基特高課長の三益隠し、最大の疑惑は三益入党の時期、⑤ゾルゲ事件の端緒について、⑥コミンテルンの密使小林陽之助と三益、ゾルゲ事件の疑問を解く鍵「満州の事件」はこうして明かされた。

これらの疑惑追及は故石堂清倫・中野重治から渡部に委託されたものです。今やその真相が綿密な資料調査の裏付けをもって明らかにされる。

講演録はA4版で130頁を越えるため当日製本頒布します。日本共産党にも講演録は発送し内部の自浄努力を要請します。ご来場をお待ちします。

主催:現代史研究会

連絡先:090-7181-3291(由井)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ゾルゲ事件の端緒は松本三益であり、彼は当局のスパイである

世界で唯一の「ゾルゲ事件研究誌」も50号で停刊となりました。1993年に『偽りの烙印』を出版以来、4半世紀をゾルゲ事件研究につぎ込んできました。これまでゾルゲ事件の端緒は松本三益であると立証し、会報№43~44にも「安田徳太郎と松本三益の名誉棄損裁判をめぐって─『聞き書き』と『戦前史の真実』を検討する」を掲載しました。

この論文の最大の焦点は宮城与徳を安田徳太郎や高倉輝、九津見房子たちに紹介したのは松本三益ではなく、松本三益の妻ツルだと事実を曲げて供述させ、三益隠しを謀ったこと。しかも九津見房子はそのために懲役8年を言い渡され、日本帝国主義の敗戦に至るまで、和歌山女子刑務所に拘禁されながら、組織者とされた松本ツルは2カ月間の拘留で無罪釈放。松本三益もお咎めなし、という調査報告はゾルゲ事件研究にとっては極めて大きな問題点であり、その実証は大きな成果だったと思っています。

この裁判問題の最大の焦点は、安田側の主張する「満州の事件をまけてもらうために松本三益は当局と取引をした」という点にありましたが、ついにその点については未決着のまま疑惑だけが残されて、未完のままに幕引きとなりました。

ところがこの「満州合作社事件」は関東憲兵隊が、ゾルゲ事件の摘発を警視庁特高に功績をとられた意趣返しのために、「尾崎秀実の系列がまだ満州に残っている」として、「満州合作社事件」をでっちあげ、それが満鉄調査部事件」に波及していったのです。

その関係史料が1933年に九州の共産党再建のために派遣された西田信春(石堂清倫、中野重治の学友で同志)の逮捕、虐殺事件の真相報告会に出席した松村高夫慶応大学教授たちの「満州合作者事件研究会」に呼ばれて報告したときに提供された史料(「平賀貞夫に対する治安維持法違反事件関係・満州最高検察庁史料」)によってようやく判明しました。その詳細を史料発掘の経緯を含めて会報に書きました。それは一つの大きな現代史のドラマでもありました。こうして遂にゾルゲ事件の最後に残された最大の謎は解明することができました。

昨年、米寿を迎えた筆者は伊藤律の故郷の岐阜県瑞浪市の伊藤律研究会で、鈴木則夫愛知大学教授とともに「伊藤律とゾルゲ事件」などについて報告してきましたが、本年1月には柴山太関西学院大学教授から「野坂参三と神戸」というタイトルで講演を頼まれ、本会の幹事だった高木康行さんの協力で、何回も神戸に足を運び、兵庫県特高の福本義亮と野坂参三の関係を中心に報告しました。野坂参三調査も石堂さんからの委託によるものでした。

その報告が東京に伝わり「渡部の人生最後の報告を聞いておくべきだ」ということになったのだろうと推測しますが、4月21日に明治大学で「日本共産党の顧問・松本三益の疑惑を追って」と題して講演することになりました。本来のタイトルは「日本共産党顧問松本三益は当局のスパイである」でしたが、あまりにも講演のタイトルにしてはどぎつすぎる、というので若干軟化しました。

これは故石堂清倫さんから「中野重治と共に君に今後を委託する」と言われた遺言の報告ですが、石堂さんは具体的には何も私には語りませんでした。石堂さんの松本三益スパイ説は、「ゾルゲ事件の端緒」と今回の私の報告の(四)「九州地方委員会の党再建に派遣された西田信春の虐殺事件と松本三益」についてです。

この事件は石堂清倫さんの東京大学時代の親友であり、同志だった西田信春を当局に売ったのは松本三益であるという。その具体的な内容は筆者には石堂さんは全く語りませんでしたが、「石堂清倫・中野重治の二人の名を以て後事を君に託す」と遺言されました。(石堂清倫・中野重治・原泉編著『西田信春書簡・追憶』土筆社1970年、参照)筆者はゾルゲ事件研究の合間に、長年にわたって野坂参三と西田信春の事件の研究を続けてきました。

松本三益は沖縄では「革新の元祖」と言われています。また日本共産党の顧問でもあります。2011年に沖縄で第6回ゾルゲ事件国際シンポジウムが開催されたとき、沖縄の「オイル事件(教職員組合が弾圧された)」の端緒は松本三益だと二次会で報告したら、「そんなことをうっかり沖縄で言ったら五体満足で内地に帰れないよ」と言われたことを思い出します。

松本三益は当局のスパイだという最大の謎は、特高課長毛利基によってこれまで隠蔽されてきましたが、彼は一体何時、共産党に入党したのか。古賀牧人編著『ソルゲ・尾崎事典』によると「昭和6年(1931年)10月日本共産党に入党」と書いてあります。

筆者はこれまで井之口政雄が1928年の普通選挙で沖縄から立候補したとき、彼の政治秘書として沖縄で活動し、沖縄で最初の共産党細胞をつくった人物と聞いており、それ故に沖縄の革新の元祖だといわれているのだと思っていたので、古賀氏にそのことを告げました。ところが古賀氏によると、「正確を期するために直接共産党本部に問い合わせて回答をもらって書いたのだ」として、日本共産党中央委員会の回答書をコピーしてくれました。

因みに今日ネットで松本三益を検索すると一つの例外もなく「1931年入党」と書かれています。ところが「10月入党」と書かれたものは一つもなくありません。そこには深刻な理由があるのですが、今回の講演で詳細に報告します。

松本三益が沖縄の共産党の集会で講演するときには例外なく1928年沖縄で選挙のときに那覇で初めて共産党細胞を作った話を高らかにうたいあげます。その物語は聴衆に感動すら与えます。戦前の厳しい弾圧の中で決死の覚悟で入党し、細胞建設をした活動の物語です。それは沖縄国際大学の安仁屋政昭教授が『近代日本社会運動史人物大事典』でも同じように書いている。その同一人物が「松本三益の共産党入党は1931年」だと、三益本人と同じように書いている。研究者としてはありえないことです。共産党員でない者に共産党細胞が出来るのか、これほどでたらめな話はない。

松本三益の活動舞台は大坂でした。「大坂では関西沖縄県人会の関係者はほとんど検挙された」と書きながら1924年に沖縄県人会の機関紙「同胞」の編集発行人であり、翌25年には全日本無産者青年同盟の結成を指導し、沖縄県人会に結集した人たちのうち共産党に入党した者は全員が検挙されたと書きながら、松本三益は検挙をまぬがれている。それは何故だと質問した者はいない。

三益は沖縄では1928年入党をうたいあげ、共産党の公式見解では1931年10月入党と二刀流を使いこなしてきた。ところが筆者が丹念に「特高月報」をめくっていくと、意外にも「三益の入党は昭和7年(1932年)7月下旬入党」(昭和8年9月分)と書いてある。

共産党員が検挙されると、先ず最初に検事の「人定訊問」と呼ばれている、共産党の入党の時期、推薦者の氏名、活動歴などが詳細に聞き取られる。これは例外がない。いくら二刀流の達人でも三刀流は使いこなせないだろう。戦後の公安調査庁の史料や米軍の共産党幹部に対する調査には例外なく1928年入党と書いてある。

そして三益は日本共産党の中ではたった1回しか起訴された経験がない。それは九州の2・11事件(西田信春虐殺事件)で西田とともに中央から派遣された松本三益がその手入れの直前の11月に、東京に呼び戻されて検挙をまぬがれた。当時、日本共産党中央には当局のスパイ大泉兼蔵がいたから、容易に中央からの指令で呼び戻すことは可能だった。

ところがその事件は九州で500人を越える検挙事件だから、記事解禁は号外を出して大見出しで報じた。その記事には西田と並ぶ中央から派遣された最高幹部だから4カ所に亙って真栄田(松本)三益の実名入りで書かれている。当然、検挙前に消えた松本三益に疑惑が及ぶ。そこで毛利基が三益隠しの「二の矢」を放った。「農民闘争社事件」である。

九州の三益たちが入党させた人たちがわずかに党歴5~6カ月というのに対して、懲役5年~6年が科せられた。三益はその事件の記事解禁と同じ時期に、九州の同志たちから三益に疑惑がかからないように、「農民闘争社事件」で検挙され、懲役2年を宣告された、ことになっている。これは全くおかしな表現だが、ゾルゲ事件で安田徳太郎の追及に、守屋典郎弁護士は「1935年7月13日から1936年9月23日まで千葉刑務所に在監中」であるという在監証明書を提出した。ところが「懲役2年」のはずがこの「在監証明」によると1年と70日ではないか。

毛利特高課長の三益隠しはまだある。1934年に日本共産党中央委員会は袴田里見の検挙を以て潰滅し、戦前は再建できなかった。だが引き続いて共産主義者は再建をめざして活動を続けた。コミンテルンからの働きかけもあった。毛利はそこに三益の存在価値を認めて大事に秘匿していた。

日本共産党の潰滅はコミンテルンに共産党の活動並びに国内情報が入ってこなくなった。

時代は日独伊三国のファシズムが市場の再分割をめざして、第二次世界大戦に突入しようとする時期に当たる。こうした情勢を背景にしてコミンテルンから日本共産党のその後の事情の調査のために何人もの密使が派遣されたが、活動する間もなくすべて検挙された。

筆者の講演の重要な柱の一つに「コミンテルンの密使小林陽之助の検挙(獄死)と三益証言の欺瞞を暴く」がある。松本三益は小林陽之助と接触した数少ない現役の共産党員であるために共産党機関紙「前衛」で「党の旗を守ってたおれた小林陽之助同志をおもう」(1962年8月号)を発表した。筆者はこの論文を詳細に検討した。その結論は、ここに書かれていることは100%が虚構。という結論に到達した。この詳細も講演会では報告する。

ここまで来るとゾルゲ事件の伊藤律端緒説などは特高宮下弘個人の謀略などではなく、もっと大きな権力のゾルゲ事件に対する対応だったことがわかる。

筆者は以前、「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構の一つ」と「尾崎秀実は日本共産党員だった」を小冊子にして発表し、頒布したが、当時は誰も見向きもしなかった。反応は全くなかった。通説は尾崎秀実の逮捕は10月15日で、これが「特高月報」に書かれており、通説となっていた。

ところが昨年、孫崎享著『日米開戦のスパイ』が出版された。孫崎さんは筆者に直接こう言った。「あなたのあの論文を見て“これだ”と思った。私の著作は貴方の論文がなかったら書けなかった」と。孫崎さんは筆者の論文を「きちゅう座」のモデムで見たそうです。

またもう一つの論文「尾崎秀実は日本共産党員だった」についても、尾崎秀実は日本共産党など相手にせず、直接コミンテルンに登録されていたなどというのが通説でした。コミンテルンは個人の入党などは受け付ける組織形態を知らない者の主張です。

これも当時、検察側は何回も共産党組織の手入れの度に共産党潰滅を誇らかに宣告してきました。ところが総理大臣の顧問が共産党員だったとは、現在の国会討論のように総理大臣の妻の関与は言えないように、「もっと高いところに登録されていた」と内務官僚は言い逃れていました。

だから筆者の「尾崎秀実は日本共産党員だった」などは見向きもされなかった。当時の記録によると、その根拠は何か、としきりに、執拗に問われました。論文にはその根拠も書いてあるにも関わらずにです。

ところが3~4年前に当時の近衛内閣の書記官長風見章の日記が出版されました。そこには筆者の指摘する通り次のように書かれています。

「近衛公曰く、尾崎秀実の公判には20名ほどの特別傍聴人在りたるが、その中の一人より富田前内閣書記官長が伝聞したりとて語れるところによれば、尾崎は頗る冷静なる態度にて裁判長の訊問に答え、且つ率直に共産党員たるを自認したる由なりと。」(200頁)

筆者はこれまで当局が発表する内務省史料は裏付けのない限り信用するな、と主張し、自分でも必ず大事なことは裏付けをとってきました。これは会報の終巻に当たって、今後の研究者に伝えておきたいことの一つです。筆者のゾルゲ事件との格闘は将にこの点にあったのです。

松本三益は日本共産党の顧問ですから、この筆者の調査報告は日本共産党の然るべきところに(6部)事前に送って、共産党内の自浄努力を期待したいと思っている。

しかしこれは当然マスコミには流れるし、週刊誌も採り上げるでしょう。この講演録は小冊子にして頒布することにしているが、総頁A4版で140頁になる大冊です。裏付けのためにスキャンして史料を沢山入れました。会員各位の講演会へのご来場と、筆者の最後となるかも知れない渾身の力作をどうかご覧いただきたい。

最後の会報に私的な情報で恐縮していますが、長いことお付き合いとご鞭撻有り難うございました。感謝します。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion7511:180327〕