大分、長い無沙汰をしてしまった。伝えたいことは今回分を含めて終わりにしましょう。東京で戦争期を過ごした者として、変わらないものはこの世に一切無いという感想と、「お国」を持ち出し奴はヤバイということは身に染みている。変わらないものは無いというのは、戦争期だけでなく戦後の全ての時期に通じる。小学校5年から大学を卒業するまで、同じ住所で親と一緒に暮らすという恩恵に浴したが、小学校はもちろん中学校の同窓会も最初の一回以後は出たことはないし、案内もない。多くの同期生は次第に散りじりにどこかへ移っていったようだ。卒業後、親しく付き合った友人は一人だけいたが、もう交信はない。高校も卒業後53年は出なかった。高校所在地は練馬区だったが、そこ以外からの来た連中と付き合った。北海道、福岡、長野、それに中野区。それが
戦後の僕ら世代の生き方と思いこんでいた。戦争への思いも似たようなものと思っていた。それが全くの思い違いであったことは、次第に判ってきた。馬鹿で間抜けでおっちょこちょいだなあ。
1945年3月10日、凄まじい響きが空から覆い被さってきて、2階の物干し台から見上げると
無数と見えるB29がすぐ頭の上の空を折り重なるようにまるで止っているかのように飛んでいて
日本軍の探照灯がジュラルミンの胴体を青白く照らしていた。それが去ると、当時の住所の旧芝区
の東北東?方向が視野の端から端まで、多少の凹凸を伴って赤々と燃えていた。それから8週間ほど後に、芝区周辺も空襲を受け、家の前の土壕みたいな防空壕から小学校の防空壕への退避命令を
受け、その立派な壕で安心していると、重いもの
が多数、いっぺんに落下したような轟音がして、停電し、直ちにこの壕から逃れよとの命で廊下に上がって校門へ駆けると、コンクリートの校庭にはあの六角形の太い焼夷弾が無数に突き刺さって
炎上していた。もう、逃避場所の指示は無く、母とこども3人は、浜松町駅の裏手の浜離宮公園の
小さな土豪に逃げ込む。幸い、その間に上空から爆弾や焼夷弾が落ちてくることはなかった。その壕でなんと将棋相手の友人と出会うが、以後はそれっきりだ。しばらくして壕をでると、駅の反対側のバス車庫?でドラム缶とおぼしき爆発音が断続し、その向かいの4階建てのビルは炎が出ていた。その先の我が家の方や学校はすでに暗かったが、その道路の突き当たりはやはり一緒に遊んだ友人の家辺りで、建物が炎を上げて燃えさかっていた。子供の頃にこんな体験をした人物は、この世で変わらないものなど無いと思いこんでも可笑しくなかろう?その後の日本社会、経済の変動は
生活の変動を伴い、思いこみを助長した。お国も
大変様変わり。「もえよ一億火の玉だ!」、「撃ちてし止まん」、「ぜいたくは敵だ!」といったお国が掲げる叱咤激励が街中に張り巡らされ、「あの旗を撃て」、「轟沈」などという映画しか見なかった子供が
、国破れ、大人は打ちひしがれ、責任者が責任をとらないで済ます事態に直面して、お国への不信感が根付くのは当然と思っていた。それも僕の全くの思い違いだったのだなあ。妙に長生きしてしまったか?!