温故知新2

著者: 大野 和美 おおのかずみ : 埼玉大学名誉教授
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温故知新が温故だけになってしまったなあ。戦争中の古い時期から話が出るのは、この時代の東京にいた子供は、米にはほとんど縁がなかったということを知ってもらいたかっただけ。つまりお米のありがたさを知らない。といっても、今の東京都練馬区の住民であった高校時の同期生は、久しぶりに会って、空襲が激しかった話をすると、遠い余所の地域の事とばかりに驚くが…。米もそうなのだろう。練馬では戦争中も米が食えたのかも知れない。当時の東京市芝区では、5月25日の空襲で焼け出されて(通っていた神明小学校の地下壕が轟音とともに停電し、外に逃げろという声に追われて、少し先の芝離宮公園の壕に逃げ込んだが、逃げる途中ではコンクリートの校庭には焼夷弾が林立し火を噴いていた)、翌朝戻った学校の講堂(コンクリートの校舎は残っていたが、可燃のの内装は焼け落ちていた)で一晩過ごし、次に移動を指示されたのは高輪小学校の講堂だった。ここで何日過ごしたか?一日一回割と大きな玄米の握りが出た。すぐシラミがわき、貴重な衣類はどこからかでかい釜?が持ってこられて、そこで湯を炊き消毒していた。そこから、親父の姪が蕨に住んでいてそこへ転がり込んだが米を食べた記憶はない。姪は多分沖電気に勤めていて、社宅だったのであろう。米に執着しない心と体が出来ることを伝えるにはもう少し昔話がしたい。まあ、この頃でも「…植えよ、植えましょ、お国のために」と
か言う歌をお国や軍部が歌わせていたのだが…。