温故知新3

著者: 大野 和美 おおのかずみ : 埼玉大学名誉教授
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年寄りは昔話が好きだ。蕨では、梅雨時で小川があふれ、大量の鮒が陸に放り出された。アメリカザリガニもたくさんいた。夜は遠くで食用蛙の野太い声が響いた。東京からきた僕には全て初見参。鮒やザリガニは家人は食べたが僕は食べられなかった。食用蛙は捕獲不可だった。東京のような空襲はなく平穏だったが、艦載機の機銃掃射の危険は時々あった。外出した母が経験したし、死者がでたという噂も伝わってきた。家にいて警報が鳴ると安普請の押し入れに隠れた?撃たれたら銃弾は貫通したであろう。初夏の蕨の生活が何日であったか、記憶はない。次は、親父が生まれ育った千葉県の佐貫町の農家に一泊し、峠を越えて
遠い親戚と思われる富津へ移って配線までお世話になる。としごの弟は佐貫の農家に止まった。母親と下の弟は蕨でお世話になり続けた。
 富津では、おじいさんとおばさんと小五のお兄ちゃんがいた。漁船すら見あたらない漁港だったが、砂浜の内陸部分はサツマイモ畑が一面に広がり、その奥は冬瓜畑であった。食事はご飯があったがサツマイモの大群に隠れていた。味噌汁は毎日冬瓜が実だった。冬瓜とサツマイモはカボチャ
とともに今でも食べる気になれない。「お国のため」に植えられた早苗は毎年実っていたであろうが
あくまでお国のために消費されて、国民の口には
ほとんど届かなかったわけだ。後になって、お国が国民のためにお米を作るわけはないと悟るが…。