温故知新4

著者: 大野 和美 おおのかずみ : 埼玉大学名誉教授
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 先ず訂正。温故知新2の高輪小学校は愛宕小学校の誤記。高輪小は4年になって仮に使わせてもらった学校で、後記する。富津は漁港のはずだが、それらしい雰囲気は全くなかった。働ける漁師がいなかったのだろう。1回だけ、若いお兄さんが誘ってくれて、小舟に乗って鰺釣りを見学?した。敗戦後、中学生になった頃にこのことを不思議に思った。
 学校の教室の記憶がほとんどない。毎日のように松原に出掛けて松の根を掘った。それから採取される油が戦争遂行のために不可欠と教えられた。「にがりの一滴、血の一滴」というかけ声も覚えている。
 艦載機は時々低空飛行でやってきた。グラマンF4FかF6Fだったか、もはや記憶にない。ロッキードの双胴機も悠々と飛んでいた。小5の「お兄ちゃん」は、あれは日本の飛行機だ!と興奮していたが、軽蔑した。この一年前から東京はもちろん千葉でも日本の飛行機を見たことはない。
 ご飯は食べた。サツマイモの陰にわずかにあった。味噌汁の実は毎日冬瓜だった。砂のおおい浜よりの平地はほとんどがサツマイモ畑でその内側に冬瓜畑が広がっていた。今になっても冬瓜とサツマイモとカボチャは食べられない。
 8月15日の昼に、近所の人も含めて天皇のラヂオ放送を直立して聴いた。ラヂオの音と話す人物の言葉の難解?さでさっぱり判らなかった。ただ、おじいさんがちぇっ、負けやがってとつぶやいてすぐ網の繕い作業に戻った事は今でも鮮明に覚えている。他方で、負けた以上は死ぬのだなという覚悟もあった。日本の国土に上陸してくる米軍が人々を殺し続ける光景をイメージしてしまった。
 その晩、なぜかお祝いのように大きなワタリガニが何倍も茹でられ、おばさんが「どんどん食べな」と言ってくれ、死ぬ身だとばかりに遠慮なくたべてしまった。