中国内モンゴル自治区のフフホト市に住むわたしは今年7月、8年ぶりに故郷、内モンゴル東部の半農半牧地帯のアル・ホルチンに帰った。故郷は大興安嶺南部の広大な凹地にある。我々の祖先は、もともと北部のフルン・ブイルで遊牧していたが、清朝皇帝ホンタイジの勅令で1636年現在の場所にやって来たのである。
現在、アル・ホルチンは日本の大きな県程度の行政区域で人口は約30万、その中、モンゴル人は約10万人である。漢人は1949年の革命前から入植していたが、革命後も開墾は制限なしだったから移住者はますます増え、現在では先住モンゴル人の2倍となった。
砂嵐の発生源
1990年代北京など中国東部がたびたび「沙塵暴(砂嵐)」に見舞われた。政府は内モンゴルの家畜の過剰放牧が原因だとした。過剰放牧というのは、牛羊の頭数が牧草の生育量を超過し、草地が退化してゴビ(砂漠)化することである。そこで政府は、牛羊頭数の制限を始めた。
しかし、過剰放牧だけが砂嵐の原因ではない。漢人入植者による良好な草地開墾がある。年間降水量350㎜程度の土地だから、開墾地は、3~5年程度で土壌水分が失われ、作物の収量が減少する。そうすると農家はその畑を放棄して、別な草地を耕す。遊牧ならぬ「遊耕」である。放棄された畑は水分がないから牧草の生えない裸地になる。ゴビ化である。
牛羊を減らせ
2021年に「内モンゴル自治区の牧野と家畜のバランスを取るため放牧を禁止し再生させてから放牧する法律」が出されてから、放牧の制限はより厳重になった。
私の村では3月1日から6月15日まで放牧禁止となり、24時間馬、牛、ラクダ、ラバ、羊、山羊は柵内に入れておかなければならない。違反すると「禁牧隊」がやって来て高額の罰金を取る。罰金を払えないと、牛や羊をトラックで運んで行く。そこで牧民は夜に放牧することもあった。
この春の3ヶ月半は放牧ができない。しかたなく、小さな畑でトウモロコシを栽培し、1メートルぐらいの穴に刻んだトウモロコシの茎を入れ、乳酸発酵させたもの(サイレージ)を家畜にやるのである。もちろんこれだけでは飼料は不足するので、遠くフルン・ボイルから干草を調達し、トウモロコシなどを購入する。牧民は、「羊は子羊を食べ、牛は子牛を食べて終わる」という。それは、飼料の価格が今年に生まれた子羊・子牛を出荷した収入に等しいと言う意味だ。
放牧禁止と飼料の購入費の増加によって、家畜頭数は減少した。現在、わが村の牧民家族は、平均すれば牛20頭くらい、羊100頭余りといったところである。牛が多い家は羊が少ない。その逆もある。
だれのための品種改良
日本が中国東北を占領した1930年代に、アル・ホルチンは日本の傀儡国家「満洲国」の領域に繰り込まれた。家畜改良は「満洲国」時代から始まった。当時は日本の機関が内モンゴルで牧場を営み、牧民に改良種をモデルとして見せていた。いまおもえば、これは「満洲国」の文化工作を担った善隣協会の羊種改良事業であった。ところが牧民は円盤型の尻尾を持つ在来種への執着が強く、これを持たない改良種の子羊が生まれると真っ先に食ったので品種改良は進まなかった。
1958年「人民公社」ができた時期から、人民政府が主導して羊の改良をやり始めた。この事業のためにどのくらい人力と資金を投入したか計り知れない。1980~1990年に何回もの品種改良の試行段階を経て、現在はとうとう元に戻り、伝統的な黒頭の「ウジュムチン羊」に代表される羊が主流になった。
しかし、モンゴル牛はモンゴル羊ほど幸福ではなかった。1980年代までは、在来種は自然交配で繁殖していた。1980~2000年に政府の指導で、在来種は絶滅してしまった。
在来種のモンゴル牛は肉とミルクの両用であった。そこホルスタイン種乳牛が導入された。ホルスタインは体ばかり大きくて病気になりがちだった。
現在、故郷の牛は肉専門のシメンタルになった。自家用にミルクを絞れば、子牛のミルクが減るから成長に影響し、秋10~11月に出荷するとき値段が落ちるというので、牛の乳搾りはなくなった。
かくしてアル・ホルチンの女性たちは、二千年の伝統ある乳搾りの労働から解放された。常食の乳製品は、街で買い入れる。だからヨーロッパの乳加工体系とならぶモンゴルの複雑豊富な乳加工技術は、牧畜家庭から消えてしまった。
いま、牛皮のほかは、羊皮や羊毛の価格は安くて売れないから、捨てて埋めるしかない。昔、羊や山羊の毛皮はデールという牧民の防寒服に利用されたが、いま羽毛服に変わりデールは着ないから、羊皮を加工する伝統の技術も忘れられる。このごろは羊肉、牛肉の値段も落ちたから、牧民の収入は市場の動向に翻弄されている。
市場経済の浸透と人情の変化
伝統的には、牧民はそれぞれ何百メートルときには何キロも離れて住んでいた。伝統的な放牧にはそれが便利だった。日本の漁師たちの漁場が共有であるように、昔からモンゴルの牧野は村ごとの共同所有であり、共同で管理していた。1958年の人民公社以来、政府の指導でわが村も家を集中して住むようになった。
住居が集中する村‐―筆者撮影
1984年中央政府は農業請負制を実施し、個人経営を認めた。牧畜地帯では家畜が牧民各家に分けられた。のちに牧野も1990年代から各家に分割された。とは言っても、「私有化」ではなく、「使用権」だけを30年間牧民に与えたものだ。牧野には針金で囲った草地が生まれ、共同管理は消えた。いま家は隣り合わせだが、互いに助け合い協力することが少なくなった。それどころか、友人知人同士の茶飲み話の機会もなくなってしまった。
市場経済の浸透とともに、牧畜は自給から商品生産に重点が移動した。牧民は家畜を太らせ、少しでも高く売りたい。自分の草地に侵入する他人の家畜は憎らしい。それで牧民はお互いの仲が悪くなる。兄弟でも草地の境界を争うことがある。これはモンゴルの歴史上かつてなかったことで、牧民の生活は「大変革」されたといえる。
牧野が開墾されて放牧地が狭くなったうえに、放牧期間が制限されると、家畜頭数はますます少なくなる。家畜が少なかったら牧畜ではやってゆけない。若者はこのままでは豊かな生活は望めないと考え、村を出てゆく。それは独身者とは限らない。カネが第一の価値観が浸透したからか、家庭の主婦が町の生活を望んで家出をすることもある。
がんばる老人たち
村は年寄りが多く子供は少ない。少子高齢化は漢人地域より目立つ。いま、牧畜を支えているのは年寄りである。彼らは牧畜にこだわり、さまざまな制約があるなか、牛と羊の飼育に執念を持って頑固に生きている。だが、彼ら世代が働けなくなった時、民族産業ともいうべき牧畜の運命はどうなるか、それはもう決まっている。
というわけで、21世起の「内蒙古自治区」の一地域において、さまざまな制約の中、牧畜が存在している。この故郷の現実がわたしにとっては不思議でもあり、奇跡だと思うのである。 (2023・08・11、フホホトにて)
<テクスバヤル>
1954年生。文化大革命の激動時代は牧民。中学卒業後数年牧畜生産大隊の会計係となる。文革後の第一回大学入試に合格し内モンゴル大学モンゴル語学科に入学。1983年大阪外国語大学に留学、同大学修士。内モンゴル大学博士。モンゴル口承文学専攻。
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