今日、濱田さんの訃報を受け取った。その葉書には、「昨年より、日吉の自宅を引き払い、武蔵小杉の老人ホームに身をよせておりましたが、三月十八日に儚くなりました」とあった。私は慌てて手帳をひろげ、三月十八日にいったい私は何をしていたかを考えた。虫の知らせはなかったのか。私はこの訃報に狼狽した。なぜ会いに行かなかったのか。なぜ手紙を書かなかったのかと自分を責めた。いつでも慌てふためくのは生き残った側であるのだろう。恐らく彼女は静かに向こう側に逝ってしまったのだ。
濱田さんは一歳年上であるが、大学に入ったのは同年である。学部時代それぞれの径路を辿って再び彼女と会ったのは、倫理学の研究室においてである。私が学生運動の挫折者として大学に入り直し、倫理学科に席を置いたのは60年の安保の時期であった。その時濱田さんはすでに大学院生であった。50年代から東大の倫理学はハイデッガーやヤスパースなどの実存主義研究の牙城のようであった。その中に濱田さんもまたいた。
濱田さんは大学院ではキエルケゴールを専門にしていた。私は大学院では国学思想ことに本居宣長をテーマにしていった。西洋と日本と専門を異にした私たちは親しく話し合うようなこともなかった。その私たちが本当の友人のようになったのは随分後になってからである。70年代の初めに私たちはドイツで再会した。濱田さんはフンボルトの奨学金をえてチュービンゲン大学のボルノーの下に来ていた。私もまたフンボルト奨学金をえてミュンヘン大学の日本学研究室にいた。72年の初夏のころ、ボンでフンボルト奨学生の総会があった。その総会の会場であるベートーヴェン・ハレに濱田さんの運転する車で向かった。その時、渡っては会場に行けないライン河の橋を何度も渡ってしまった。その時。「あらーまた橋に出てしまったわ」と大どかにいう濱田さんの言葉を聞いて、この人は本当にいい人だと思った。濱田さんと親しくなったのはそれ以来である。ちなみに濱田さんの名著『入門 近代日本思想史』(ちくま学芸文庫)の原本である独文『近代日本哲学史』執筆の要請を彼女に取り次いだのは私である。
70歳をすぎるころから私たちは同窓会のようなおしゃべりの会を年に一度はもつようになった。話の主題は自ずから病気や老後の問題になった。その都度私たち男どもは彼女の当たり前のように淡々として己れの身体とともにその周辺の処理に当たる様子に驚いた。あなたは怖くないのかと聞いたこともある。歌舞伎の愛好者でもあり研究者でもあった濱田さんはいった。「歌舞伎を見ながら事切れたら、それが本望なの」と。
彼女は二月末に『歌舞伎勝手三昧』(未知谷)という著書を送ってきた。これが遺著なり、遺言なり、最後のお別れであるとは今日になって私は知ることだ。何でこれをもって直ぐにでも彼女のところへ飛んで行かなかったのか。私がいま慌てふためく有様を彼女はとっくに知っていたのかもしれない。濱田さん、あなたはあまりにも見事すぎるよ。私はただあなたの死を聞いて慌てふためくしかない。どこに向けていいか分からない涙を流すしかない。合掌。(2017年4月4日)
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/70319870.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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