『資本論』冒頭商品章第4節で、商品の物神性とその秘密について考察されているのはよく知られ、またあまたの研究も積み重ねられてきているのも周知の事実であるけれども、これらの研究はいずれもマルクスの所説はすべて正しい、そこに問題や矛盾があるように解釈してしまうのは、マルクスの深遠な思考過程を理解できていないからだという、マルクスの絶対視に囚われていて、到底受け入れ難い上、決して現代資本主義に立ち向かううえでマルクスの理論的営為を批判的に発展させるというような方向付けが出来ないような構えとなってしまっている。こうした制約のもとにある先行諸研究は、マルクスのジャーゴンが描く世界(マルクス言説物神!)に自己閉塞し、かつ自足することに終始し、決して資本主義の現実認識にかかわる次元で、物神性論の理論的な妥当性を評価しようという地点には足を踏みいれようとはしない。
まずここでは資本主義とそれを構成する基本形態である商品・貨幣・資本からなる商品世界の特性から照らした時に、物神性論とはいかに評価されるべきかを、その方法的接近のアウトラインをきわめて簡潔にではあるが素描する。
「商品の呪物的性格とその秘密」(国民文庫版)ないし「商品の物神性的性格とその秘密」(岩波文庫版)と題された節は、資本論冒頭での商品の価値実体論と貨幣の必然性を説く価値形態論を受けて、いわば体系劈頭の商品章を締めくくる位置に置かれている。そこではそれまでの論考の歩みを振り返りつつ、商品を生産する人間労働の抽象的人間労働としての同質性が商品の価値対象性として、その量的側面が商品の価値の大きさに、さらに人間労働の社会的性格が貨幣形態を極点とする商品相互の社会的関係である価値形態に現れるという商品の神秘的性格を、商品形態それ自体によって発現するものとしていた。この商品形態そのものは、相互に独立した私的生産者からなる分業として社会的な性格を与えられた人間労働の関係性の労働生産物が必然的に取る特殊な形態であると説かれている。
まずここでは、私的商品生産者が相互に分業を営み生産物を交換し合うという商品形態とそれに必然的に付随する物神性の生成してくるとされる、原初的社会的関係性それ自体の抽象度のレベルで議論することはいったん保留し、前述の通りその全面的な発展形態である資本主義的生産関係に定位して、物神性論の評価を進める。
商品形態および貨幣・資本といういわゆる流通形態に依拠した立体的な構造体である商品経済的関係性は、様々な生産関係の剰余生産物に外形的に付着する特性を備えており、その特性ゆえにある特定の生産関係の全体を解体し尽くし商品経済的に徹底的に再編成することは原理的にあり得ず、これはいわゆる労働力の商品化による生産過程の商品形態による包摂、商品による商品の生産としての資本主義的生産関係にあっても妥当する規定性であって、現実の資本主義的生産関係は、世界市場の一部分に成立することから出発しその周辺に非資本主義的で半商品経済的生産を配置する体制としてのみ存立してきたのであって、そのことは今日に至るまで一貫して妥当する事態なのであることは、資本主義転変の歴史過程をつぶさに見れば明瞭に見て取ることが出来よう。
であるがゆえに、資本主義的生産関係を含む商品流通の構成する商品世界に現れる商品について見るならば、様々な生産関係のもとに生産されたものがその出自を問われることなく一様に商品として登場するのであって、そうである限りその生産に支出された労働に関しても、相互にその質を比較して同質性を取り出しうる内実を備えていることは決してあり得えず、その延長としてその量的大きさを比較計量できることにも当然なりえない。
労働力商品によって生産過程を商品による商品の生産として編成する資本主義的生産関係といえども、商品世界の全体をその過程によって包摂し尽くしそれ自身によって生産-再生産する、完全に自立的な生産関係とはなりえず、常にその外部に非資本主義的、半商品経済的な生産関係を残し、それとの相互作用によって運動するほかはないのである。そもそも、資本主義的生産関係の内部に視野を転じても、労働力商品それ自体がすでにして労働生産物ですらあり得ず、労働生産過程の存立基盤である土地に代表される種々の自然の用益も同様に労働生産物とは言えないにもかかわらず商品形態をとって資本主義的商品市場に現れている。要は労働力の対象化としての同質性を云々することのできないものにも商品形態は付着するのであり、かつそれが資本主義的生産関係の基底的過程において必然的な位置を占めているのである。
これをマルクスの眼前に広がっていた、19世紀中葉のイギリスを中心とする世界資本主義の全体像に引き付けて敷衍するならば、労働力と土地の商品化に基づいて資本主義的生産関係はイギリス綿工業とその周辺の機械工業部面に成立し、その原材料である綿花はアメリカ奴隷制農業とインドカースト共同体農業の生産物であり、労働力商品の生活手段である食糧農産物は、イギリス内国の半商品経済的農業並びにプロシャのユンカー経営の生産物を輸入する事で成り立っていたのであって、一瞥しただけでも、現実の資本主義的生産関係を中心とする世界市場、それこそが資本主義生産関係の生存環境そのものなのだが、同質の労働が量的に比較しうるような実体過程はどこにも存在しなかったのである。
こうした基本構図は現代資本主義にあっても、資本主義的生産関係は地球上のさまざまな地域に展開する形こそなれ、いずれをとってもその周辺に一次産品をはじめとする異質な生産関係を従属させているという点において何ら変わらない。それだけではない。サブプライムローンに端的に表れたように、信用関係における回収リスクという、労働生産物とは全く無縁の対象にすら商品形態が付着し、それがいわゆる実体経済をはるかに上回る規模に膨張し威圧する様相は、一層商品世界の表層性・外部性を極限化した姿とも言えるだろう。
要約すれば、資本主義は商品―貨幣―資本からなる流通形態を原初的関係性として、内部の生産過程を編成しかつ周辺の外部とも関連を持つのだから、その体系的な理論上の再構成もそうした流通形態が形作る構造体の考察から開始されるべきだろう。その時その原初の関係性は等質な人間労働に実体づけられた価値関係の物神性を示すのではなく、むしろ全く異質で相互に無関心に存立する様々な生産関係や労働力、土地などを外部的に連関させるところにこそその本態があるとすべきではないだろうか。
こうしてみると資本主義の理論的解明を目指すうえで、資本論商品章の描く、私的商品生産者が相互に同質な労働を商品形態において交換し合うという限りでの商品世界に依拠し、そこから思考を開始させるなどいう所作が、現実の資本主義に内在する対応物を欠いた、いかに不適合な志向性であることは改めて指摘するまでもないだろう。物神性論もこうしたいわば思弁の中の虚構の世界に依拠している以上、それに自己閉塞することはよく言って現実逃避であり、突き詰めれば理論的な反動と紙一重のところに行き着きかねないのではないか。
(つづく)
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