珈琲ブレイク(4)——世界はいたるところに穴ぼこが空いているのか——村上春樹と反時代的考察

著者: 木村洋平 きむらようへい : アイデア・ライター
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現実世界に空いた穴ぼこ

  『ねじまき鳥クロニクル』という小説で、村上春樹は、自分の小説のもっとも根底にある思想を、典型的なシチュエーションで表現している。それは、主人公が、井戸の底に降りたところ、上からはしごを外されて、蓋を閉められるという状況である。真っ暗な穴の底で、彼は閉じ込められる。  

  井戸の底。それは、ふだんの世界と切り離された、深い暗がりであり、出口がなく、そこにいることは、楽しくもなければ、悲惨というほどでもない。あえて言えば、存在することの虚無をひしひしと感じる、奇妙な経験である。そして、いつ出られるか、自分では検討もつかない。

  ここで、もっと抽象的に考えることができるなら、この「現実世界」には、沢山の精神的な「落とし穴」が空いていて、そこにふっと落ち込むと、人は、ちょうどあの主人公のように「井戸の底」に落ち込んだ心理状態になるのだ、と言えないだろうか。

  それは、おそらく、「孤独」とか、「さみしさ」、「かなしみ」、「生の無意味」、「実存の危機」などとも、名付けることができるだろうが、そのどれとも、微妙にニュアンスがちがう、特異な体験である。村上春樹の小説には、異世界がよく出てくるが、まさに、現実世界を超えてファンタジーへと飛翔したくなるような、現実世界の外にはみ出してしまった、と言いたくなる体験である。

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 ニーチェの「反時代的」態度

  哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、24歳の若さで、バーゼル大学の教授になる、という異例の抜擢をされた。古典文献学の教授であった。ところが、その2年後、処女作『悲劇の誕生』を執筆すると、学者たちから大きな非難を浴びて、あっという間に学界の日陰者になってしまう。彼は、文献学において、きっちりと仕事ができたにもかかわらず、「アポロン的」「ディオニュソス的」という、思想史に残る概念を発明した、革命的な本を出版したために、「全然、アカデミックじゃない!」と、当時の学界から拒絶反応を受けたのである。(たしかに、この本の主題が、ギリシャ悲劇なのか、哲学なのか、音楽なのか、一見、よくわからない。だが、少なくとも、文献学の本ではなさそうである。)このとき、彼を批判した人物には、「ルネサンス」研究の先駆者・第一人者であった、ヤーコプ・ブルクハルトも含まれる。

  その後のニーチェは、身体の調子を崩しながら、一人きりで、スイスやイタリア、フランスをあてどもなく旅して、哲学的な考察を書き留める、そんな放浪の哲学者となる。

 『反時代的考察』は、ニーチェの第二の著作である。さきの処女作で、学界から追放されるような結果を呼んだ彼は、その後の人生と著作の方向性を、すでに予感していたかのように、次の本を『反時代的考察』と名付けた。これは、素晴らしい命名であると思う。

  少なくとも僕にとっては、面白いことに、この本は、ダーヴィト・シュトラウスという、当時は有名だったが、後世にはとくに名前を残していない作家と、その著作への激しい批判から始まる。(第一章。)その後、哲学者のショーペンハウエルや、音楽家のリヒャルト・ヴァーグナーについても論じるのだが、読み終えてみると、結局、どこが「反時代的」なのか、明示されていないことに気がつく。そもそも、「反時代的」という耳慣れない言葉を(おそらくニーチェの造語で)使っておきながら、それがどういう意味なのか、説明されていない。

  ところが、ニーチェは、その人生を瞥見してもわかるように、学界とか論壇とか、権威とか組織とか、そういったものと決別して、思想家の人生をスタートさせた人である。注意深く見ると、まさにニーチェの生き様そのものが、「反時代的」とはなにか、を告げていた。

   時代は、いつも何人かの寵児を生み出しながら、その人々を先端として波打ち、あらゆるものを押し流そうとする。それは、ことに無意識に共有される思想において、そうである。ニーチェが、非難した、なんとかシュトラウスは、いっときの有名人にすぎなかったかもしれないが、ニーチェの論説の矛先は、彼にというより、彼を筆頭とする時代の流れ、思想の風潮、巨大な潮そのものに向けられていたことは、まちがいがない。

  人は、時代の潮流を注意深く読み解きながら、工夫して、それに逆らわなければならない。そこで、無意識に共有されてゆく思想に。それが、「反時代的」という態度である。けれども、なぜ、「反時代的」でなければならないのか?——ニーチェなら、こんな風に答えるだろう、あの独特のアフォリズムで。

 「われわれは反時代的でなければならない。なぜか? 否。むしろ、どのようにして。」 (ドイツ語を知っている人は、試みに独訳してみてほしい(笑)。ぎゅっと引き締まった文体で、明快に断言する、あの独特の口調を再現できないだろうか。日本語だと、少し間が抜ける。)

  おそらく、「反時代的」というのは、思想家の気質みたいなものなのだ。「時代に乗せられる」ことに抵抗がない人を、彼は、あえて説得しようとはしないだろう。むしろ、懐疑的な同志に向かって、檄を飛ばすにちがいない。「なぜか」は問題ではない、「どのようにして」反時代的であるかを考えよ!と。

 そして、かくして私は、ニーチェの「反時代的」態度に倣って、現代のダーヴィト・シュトラウスである(?)村上春樹を扱うことにする。

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 世界はいたるところに穴ぼこが空いているのか。

 「世界はいたるところに穴ぼこが空いている。」——そんな風に、村上春樹の主要な思想を一つ、翻訳することができるだろう。

  僕らは、日々、ありきたりの、平凡な、なんの変哲もない、日常を送っている。それは、退屈で、ときに苦痛で、わりと凡庸で、没個性的でさえ、ある。けれども、人は、その平板な地面に、ぼこぼこと空いている穴に、ふとしたはずみで落っこちる。そうすると、日常世界から遮断され、空虚さを抱えた自分と向き合い、なすすべもなく、ブラックホールのような暗闇に包まれる。その暗闇の正体は、死かもしれず、心の傷かもしれず、人生の虚無かもしれず、歴史の暗部かもしれない。

  ここまでのところを、村上春樹は、ある程度、意識的に書いているだろう。時代を先取りする鋭敏な感性で、多くの人たちが、心の底でぼんやりと思っていることを捉えて、小説という形にする。彼は、時代の波頭に立っている。けれども、そこから先のことに関して、村上春樹は、たぶん気づいていない。自分が、まさに時代の潮流に乗っかることで人気を博しているだけで、それをよりビッグウエーブにする一装置として働いているにすぎないことを。そこには、まったく、一人の作家として立ち上がり、時代に抗うという「反時代的」な観点が欠けているということを。その点では、村上春樹ほど没個性の作家はおらず、彼に小説を「書かせて」、それを「売り上げて」いるのは、無名の巨大な波としての、時代そのものである、ということを。

  ついでに、彼が小説の中で「穴ぼこ」を表現する手段、すなわち、抽象的な「穴ぼこ」を表現するための、具体的なシチュエーションを考察すると、上記の点は、いっそう明白になる。彼が用いるシチュエーションは、もっぱら「性」と「暴力(残酷)」である。性には、秘密がある。暴力には、果てしないところがある。こんな文学史上のステレオタイプの安直な転用によって、彼は、「現実世界」を超えた穴ぼこを表現するわけである。この紋切り型は、初期(最初期を除く)から後期の1Q84に至るまで、変わらない。

  村上春樹の読者は、こうした「性と暴力のファンタジー」作品群に触れることで、「穴ぼこ」を疑似体験する。そうして、ふつうに「孤独」とか「さみしさ」と言うだけでは、表現し切れない、と思う、虚無とか、救いようのない孤立、感情の混沌、心の暗部を、村上春樹の作品に見出す。だから、本が売れる。

  こうして、世界に「穴ぼこ」が増えていく「悪循環」を前にするとき、反時代的な思想家たちにできることは、新しいモデルを提示することである。もう「世界はいたるところに穴ぼこが空いている」と言わないこと。そして、村上春樹という表象を越えて、時代そのものの潮流に立ち向かって、思考すること。「世界は、起伏のある連続した平面である」と。

  実際に、社会の具体的な問題においても、日常のさまざまな場面においても、「穴ぼこ」に落ちた、と思い込みたくなる人を助けるのは、「人間の陥る状況は、それぞれだが、どこかでつながってもいる」、「あなたと私はちがっても、そこに断絶があるわけではない」、「ある個人の性格や考え方に、異常や奇妙さがあるとしても、それはグラデーションをなしているのだ」といった「連続」の思想である。

  それに対して、人と人との間に不連続を持ち込む思想は、「精神的な、あるいは神経的な障害を抱える人は、健常人とはまったくべつである」、「社会や共同体に馴染めない人間は、「おかしい」人たちである」、「人に言い難い考えや感情を抱いてしまう自分は、異常な人間である」といった、断言や、レッテル貼りや、人間の分類を始める。(なお、1990年代以降、流行っている「(臨床)心理学」は、この潮流を代表する、もう一つの動きである。)

  どちらの思想を選ぶのか。どちらが倫理的によりすぐれているのか。その問いかけには、具体的な生き方を通してのみ、答えられる。僕ら一人一人は、大作家ではなくとも、小さな思想家でありうるのだから。

  こうしていま、反時代的であることを志向する人たちは、「世界はいたるところに穴ぼこが空いている」と言おうとする人たちに抗って、「世界は、起伏のある連続した平面である」ことを、日常生活の一つ一つの言葉で、周りの人に対する態度で、伝えて、表現することを止めない。

 初出:ブログ【珈琲ブレイク】より許可を得て転載(http://idea-writer.blogspot.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0711:111204〕