現代商品章(マルクスくん大喜びの巻)(えらいぞ、マルクスくん!の巻)(イメージとしてのカムイ伝分析)からの (7)その2 『資本論』以前としての《知の共産化》土壌の開陳。

では、まだまだ草稿段階ではありますが、わかりづらい論理展開ではないと思いますので、少しづつ分けて投稿を試みてみます。

 

①現代資本論体系化の前に、資本論要約的抜粋としての商品章

 

第一版序文

 

何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。

第一章、とくに商品の分析を含んでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。そこで価値実体と価値の大いさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。

したがって、価値形態にかんする節を除けば、この書には、難解だという非難を受けるようなところがあるとは思えない。私はむろん、何か新しいことを学び、したがってまた、自分で考えようと志す読者を想定しているのである。

 

第二版の後書(マルクスくん大喜びの巻)

 

『資本論』が急速に広い範囲のドイツ労働者階級の中に理解を得たことは、私の仕事にたいする最良の酬(むくい)である。

『資本論』の立派なロシア語訳は、一八七二年春ペーテルスブルクで刊行された。

三○○○部刷ったものが、いまではすでにほとんど品切れとなっている。

(三千部ってどの位凄かったのかな?)

 

第一巻  資本の生産過程

第一篇   商品と貨幣

第一章   商品

 

第一節  商品の二要素  使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)

いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。

「われわれは、いまや価値の実体を知った。それは労働である。われわれは価値の大いさの尺度を知った。それは労働時間である。」(えらいぞ、マルクスくん!)

 

第二節  商品に表された労働の二重性

第三節  価値形態または交換価値

第四節  商品の物神的性格とその秘密

 

②イメージとしての『資本論』アンチョコとしての『カムイ伝』考察

《商品・貨幣・労働》

資本論以前としての《知の共産化》考察

カムイ伝的イメージによる誕生の周辺の封建制と江戸商品社会性の分析から。

カムイが求めた力とは何か?

正助が求めた知とは何か?

夢屋が求めた金とは何か?

武士が百姓から手に入れる年貢とは、今日の税の事であるのか?

武士の持つ統治、政治権力こそが、カムイが敵としながら対抗したいとする自ら手に入れたいとしていた〈力〉であっただろう。

更に、抜けていたが、既に、武士階級であった竜乃進が、求めたのは、〈義〉であったのだろう。

その意味では、正助の求めていた〈知〉こそが、最初の〈共産化〉として、『資本論』以前、〈商品〉以前のものとして、僕が、問いたい最初の主題である。

 

士農工商、夢屋の金は、後に逆転されたとしてもここでは、まだ、政治の下にあった。

明治維新、映画「るろうに剣心」鑑賞されたい。(只今金曜日テレビにて放映中)

金が力を持ち始めている様がエンターテーメントとして描かれていた。

 

③商品以前としての《知の共産化》の土壌について

生理学的人間の生涯と英才教育論

創造的労働の基礎としてのモーツァルトを生み出す土壌とは。子は、親の脛を嚙り生活をしている。つまり、商品世界、資本論の世界ではない以前の世界にいるのだ。

親が、財力を持つか、または、矢吹丈の様に、孤児院にて育つのか?

貧困家庭にて育つのかの相違によって、変わる故に、世襲継承としてモーツァルトの場があり、中流家庭としてのマルクスの場もあったと言う事である。

歌舞伎の世界の伝承された家系図はわかりやすいだろう。

しかし、その環境、ゾラのルーゴンマッカール叢書、バルザックの人間喜劇の系列以前の『人間の条件』をアレントは言い当てていただろうか?

その人間の条件とは、到達される最低限度としての条件ではないのだろうか?

ボーヴォワールの第二の性、または、花崎皋平氏のピープルになるとは、「立ち戻る」回帰として見出されているものであるのかも知れない。

 

その問い直しこそが、《知の共産化》としての土壌に他ならない。

それは、どの様なものとしてあるのか?

それともないとするのか?

その問いに他ならない。

全てが、経験によるものではない。

全てが、理性と言う観念論、デカルト、ライプニッツ、そして、カントによって最終的に完成されたわけではないのは、

0円商品を受け取っているこの様な子供の場、更には、人間の生理的育成としての社会学的見地への透視性を持っていなかった批判こそが、《知の共産化》としての土壌の開陳に他ならない。

革命は、どこから来るのか?

共産主義的人間とは如何にして到達されるのか?

その分析が、この先験的分析の場として問題にされねばならないと言う主張を展開する。

《知の共産》ではなく、《化》であるのは、まだ、日本の社会が到達していないとする意味である。

(7)その3   《知の共産化》私有財産、競争原理、死の人間学に続く