埼玉県立近代美術館での特別展示「瑛九の部屋」は4月14日までの開催であった。春学期が始まろうとしている慌ただしい時期。だがこの特別展示は絶対に見たい。私はそう思った。特別室に展示されている作品は瑛九の代表作である「田園」だけであるのだが、暗室の中で絵に当たっているライトの光度が調整でき、光度の変化に伴い点描によって制作された絵の立体感が変化するという企画は、この絵の持つ様々な側面を浮き彫りにするように感じられたからである。それゆえ私は新学期のための詰まらない準備を一旦完全に放棄して、美術館に向かうことにした。 この特別室の他にも「瑛九と光春―イメージの版/層」という展示室があり、瑛九の油絵、フォット・デッサン、版画が50点弱と彼が雑誌に書いたテクストが展示されていた。瑛九の作品を十分に見られる訳ではなかったが、コンパクトに上手くまとめられている展示であった。だが何と言っても、注目すべきものは特別室にあった「田園」であった。先程も述べたように、この作品は光度を調節しながら鑑賞ができた。この光度の変化と点描された作品の形態の変化は予想していた以上に私の目を引き付けた。「田園」という絵を中心として瑛九について何かを書きたい。その時そう強く思い、このテクストを書くことにした。
瑛九という美術家
瑛九、本名杉田秀夫は1911年4月に現在の宮崎県宮崎市で生まれた。彼は画家としてだけではなく、写真家としても画期的な仕事をしている。それだけでなく、数多くの版画も制作し、詩作も美術評論も行う斬新な感覚を変わらずに持ち続け、時代の最先端の創作を行うマルチアーチストであった。また、日本の美術界の活性化にも貢献。1951年に版画家の泉茂や山中嘉一らと共にデモクラート美術家協会を設立した。この会には後に池田満寿夫や靉嘔など当時の新鋭美術家たちも参加した。だが、1960年49歳になる二月ほど前に、急性心不全のため腎臓病治療のため入院中であった神田淡路町の病院で死去した。
写真家としての瑛九の大きな功績はフォト・デッサンの創始者という点にある。フォト・デッサンとはマン・レイやモホリ=ナジによって編み出されたフォト・グラムの一種である。フォト・グラムはデジタル大泉林の定義によれば、「カメラを使用せず、印画紙などの感光材料の上にさまざまな物を直接置き、上方からの光で感光させて像を得る写真技法」である。フォト・デッサンについては画家の山田光春が『瑛九 «評伝と作品 »』の中で、個展の目録に瑛九が書いたフォト・デッサンに関する説明を「(…)自分が求めているのは二十世紀的な機械の交錯する中に作られるメカニズムの絵画的表現であって、自動車の皮膚の冷ややかな光や、夜の街頭にめまぐるしく交錯する光と影は機械文化の中に咲いた花であり、そうした面を表現する絵画の分野がなければならぬことはいうまでもない。そこで自分は、それを光の原理、光のもつ微妙な秘密をつかむ印画紙に求めたのであって、それは写真の感光材料を媒体とするデッサンであるから「フォト・デッサン」と呼ぶことにしたというのである」と要約している。瑛九のフォト・デッサンには優れたオリジナリティーがあり、彼の生前から海外でも高い評価を受けていた。
しかし、瑛九はやはり卓越した画家であった。それも時代の絵画的潮流を鋭く感じ取ることができるだけではなく、その潮流の中から独自な作品を創造することができた稀有な日本人画家であった。彼の絵画表現方法は印象派的な風景画、フォービズム的作品、キュビズム的絵画へと変遷しながらも、彼特有の絵画創造のエネルギーを常に内包するもであったが、その独自性が結集したものが晩年の点描による抽象絵画であるように私には思われる。今、抽象絵画という曖昧な言葉を使ったが、厳密に言うならば、それはある事象の生成の物語を表現しようとしたものである。つまり、こうした晩年に描かれた細かい点描によって制作された作品である「午後 (虫の不在)」(1958)、「森」(1959)、「田園」(1959)、「つばさ」(1959) などは、堅固な面としての形が崩壊し、点に還元され、それが再び統合されてある形態に向かう手前の生成の物語を表現するという瑛九の創作上の到達境地が明確に示されていると感じられる作品なのである。
以下のセクションではこの最晩年の瑛九の創造性という問題に焦点を当てながら彼の作品の特性について考察していこうと思うが、そのキーワードとなるものは「点描」、「生成」、「近代の超克」である。次のセクションでは先ずは「点描」という問題について検討し、それに続いて「生成」という問題について探究し、さらに「近代の超克」という問題について考えていきたい。
動態的点描
19世紀後半に活躍したジョルジュ・スーラが色彩理論と光学理論の緻密な研究を行った後に確立したと言われている点描法は、絵画史の一ページに大きな足跡を残した。スーラと共に点描法によって多くの絵画を残したポール・シニャックが瑛九に大きな影響を与えているように、点描という技法を瑛九は若い頃から重視していた。しかし、様々な表現方法に異常な程に興味を示した瑛九はフォト・デッサン、ガラス絵、エッチング、リトグラフといった多くの異なる表現方法を究めようとした (もちろんそこには経済的な理由があったことも事実ではあるが)。瑛九はこうして様々な表現方法によって何万という作品を生み出していったが、最後に彼が回帰していった美術様式は絵画であり、それも点描によって表現された作品であった。この瑛九が最後に行きついた点描画に関して、ここではスーラの作品との比較を通して、彼の点描画の特異性を探究していこうと思う。
スーラの創作方法について美術史家の乾由明は『スーラ 新潮美術文庫32』の中で「彼は、印象派のように自然を、光のなかに溶解する流動的な現象としてとらえようとはしなかった。むしろ、その刻々に移りゆく瞬間のヴィジョンに確固とした秩序をあたえ、それを不変のフォルムと構造に還元しようとした」と述べているが、スーラの点描法はこの不変のフォルムを構築するための画期的な表現方法であった。彼の代表作である「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)を見れば、このことがはっきりと理解できる。スーラはミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールやオグデン・ルードなどの科学者によって書かれた色彩理論に関する著作を熟読していた。美術史家のハーヨ・デュヒティングは『ジョルジュ・スーラ』の中で、ルードの研究の「補色同士は、人間の目の中で互いに補い合い、引き立て合い、非常に鮮やかな色彩の効果を生む」(水野順子訳) という結論の画期的な意味を指摘し、このことをスーラがとりわけ重視していたことを強調している。すなわち、彼にとっての問題は対象を如何に不動なフォルムを持ったものとして描くかであって、描かれる一つ一つの点はある対象の小単位としての元素のような存在であって、全体を構成するために置かれる要素にしか過ぎなかったのである。
先程挙げた瑛九の点描画は、スーラのこうした意図の下に描かれた点描画と根本的に異なるものである。瑛九の作品もタイトルを読めば具体的に何を描いているか予想できると思うかもしれないが、「田園」をいくらじっと見ても不動の形というものは現れてこない。無数の点が混じり合い、反発し合いながらフォルムが現出するのではなく、無数の点が何かを生み出そうとして躍動しているのだ。こうしたリズミカルな動態性はデュヒティングが上記した本の中でフリーズを求めたスーラの点描画と述べているものとは対極に位置するものである。瑛九の作品は、形が見えそうでもあってもまだその様相がはっきりとはしていず、点が集まって何ができあがるのかが判らない流動的状態をわれわれの前に提示しているのである。もちろんタイトルによってそこに描かれているものが何かは想像できるだろう。だが、それが如何なる形態で描かれているかということを見ることも、言い表すことも困難である。フリーズしたフォルムとは真逆なダイナミズムが瑛九の後期点描画 (彼の点描画の区分については後述する)には存在するのだ。
スーラの不動性が点描によって生み出されたこと、それは否まれない事実である。しかしながら、瑛九の生成の物語も点描によって生み出されたことも事実である。次のセクションでは点描を巡る瑛九の芸術的志向性について詳しく探究していく。
物語の解体と生成
瑛九が点描による油絵を制作したのは晩年に限ったことではない。それゆえ、彼の点描画を三つの時期に区分しながら考察することによって、彼にとってのこの技法の核心的意味を明確化していこうと思う。最初の時期は戦前の時期で、ここでは前期と呼ぶ。二番目は1950年代の中頃から1958年あたりまでの瑛九が本格的に油絵制作を再開した時期で、点描と言うよりも大きな丸を組み合わせた抽象画という側面が強いものである。ここでは中期と呼ぶ。後期は最晩年に描いた小さな細かい点が集合して何かのフォルムが形成される手前の状態が描かれているものである。
第二次世界大戦中の1943年に描いた「海」においても点描画が用いられている。だが、如何に朦朧として形が掴み辛いものであっても、この絵は海を表しているということは了解できる。それはジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーが1840年から1845年頃に描いたとされる「湖に沈む夕陽」が茫漠とした画面の中にも湖や夕陽をイメージできるのと同様である。つまり、それは現実に存在しているあるオブジェの一つの様相を描写したものである。それに対して中期は大きな点が重なり合うことで抽象的な構図が作り上げられた作品で (それは厳密に言えば点描ではないが、点が組み合わされて構成されていることは疑い得ない事実である)、線による表現も僅かながら残っているものである。1957年に描かれた「空の目」や「赤と線」、1958年に描かれた「流れ」はこの時期の代表作と言ってよいであろう。後期の作品は先程提示した1958年から1959年にかけて制作された絵画である。点描はより微細になり、配置された点は無数と言えるくらいに驚異的な数になっている。それが上述したようにある形になる直前の様態を示す作品となっている。それがある対象に向かって形を整えようとしていることはタイトルによってしか知ることはできない。あるオブジェが生成しようとする直前の瞬間を捉えた絵画。それゆえ、フォルムを形成しようとする各点は全体の確固とした形の構成要素としてではなく、それぞれがある方向を目指して踊るリズムを持った点となっている。
私はこの点描法の変化の中に歴史の持つ物語的変遷が見出されるように思われる。前期において瑛九が目指したものはスーラのようなフリーズしたフォルムであって、そのフォルムを構築するために無数の点が必要であったのだ。それゆえ、それぞれの点は静態的でフォルム全体の構成要素以上の機能を有してはいない。それは大きな物語を作るための下位単位としての働きを持つだけである。それに対して中期の点は各点の独立性と力が表現されてはいるが、前期のものとは異なり、各点が一つになって何かを生み出す方向性を示すものではない。後期になって初めて点は点であることの軽やかさを舞踏しながらも点全体としてある何かを生成しようとするものとなった。それは瑛九自身の創造性の深化というだけではなく、近代から現代へと移り変わろうとしていた時代性を正確に反映しているのではないだろうか。
近代とは大きな物語が作り出された時代であり、その物語は現代の開始によって終焉を迎えたとフランソワ・リオタールは『ポスト・モダンの条件』において語っているが、この終焉によって大きな物語を構成するためだけに存在していた、些末的なものとしか捉えられていなかった小さな物語が軽やかに語り始めたことも忘れてはならない。こうした時代的パラダイムチェンジを社会学者のリアンヌ・モゼールはフェリックス・ガタリの講義論集である『人はなぜ記号に服従するのか:新たな世界の可能性を求めて』の序文で、「自閉的にプログラム化された究極目標にもっとも従属的な装備、制度、集団であっても、欲望の経済への「実践的な開口部」を備えている。そうした開口部をキャッチするには、「歴史の小さな側面」、ディテールをつねに謙虚に監視し、照らし出し、透視するという感性を持たねばならない」(杉村昌昭訳)と述べているが、この時代的感性に通じる小さなものによる新たな地平の開示は、瑛九の後期点描画の創造的精神に完全に通じるものではないだろうか。
近代の超克
久保貞次郎編『瑛九画集』の「瑛九は第三の目を持っていた」というテクストの中で、靉嘔は「水は火炎・心・思慮分別、仏の本質の中にもある、また水の中にも江河がある、一滴の水の中にも無限に広い国が実現するのである……というような東洋のイマジネーションの発想」(原文の「,」を「、」に変えている)について語り、「それは実在から何かを足がかりにしているのではなく、アブストなものからのイメージのつみ重ねによって更に新らしい違うイメージへと到達しているということです」という興味深い指摘を行っている。ここで指摘されている新たなイメージの生成は瑛九の後期点描画の特質を実に見事に言い表したものである。だが注目すべき事柄はそれだけではない。細かい点の連続がフリーズしたオブジェを構成していくのではなく、つまりは不動の体系という大きな物語を築くのではなく、海や森や田園といったもののまったく新たな姿の可能性を現出させていく側面もあることを強調する必要があるのだ。
多くの点を用いることを通して生成される様態は大きな物語を崩壊させる。さらにそれは新たなフォルムの誕生へと導かれる。この生成のドラマはマルチチュードという問題とも深く連関していると私には考えられる。マルチチュード、すなわち、多元的で多様で、多方向に拡散していく多数の画一化されない主体からなる集合体は、現代の社会システムを考える上で極めて重要な概念であり、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは『<帝国>―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 』の中で、「マルチチュードによる生産諸力の再領有が生じる領野は、根源的な変態の領野――つまりデミウルゴス [世界の形成者] の活動の場である。これは何よりもまず、協働する主体性によって生産概念が完全に修正されるということである。つまりそれは、マルチチュードが再領有し、再発見する諸機械と溶け合い、異種混交してしまう活動なのである」(水野一憲他訳)と述べている。だが、マルチチュードという概念は、社会的に構築された共同体システムの様態に対する分析装置としてのみ利用できるものなのではなく、芸術理論の分野でも十分に応用可能なものであると私は考える。マルチチュードという分析装置が近代的システムの超克のための装置と見なされ得るものである以上、そこには現代の持つ特質を的確に捉え得る概念的広がりが存在しているからである。
瑛九の後期点描画は先程も指摘したように、近代的な枠組みで理解することが不可能な作品である。それは近代的絵画を超え、単純な抽象絵画の持つ目新しさや写実以外の形態の持つ奇抜さを超えて、より根源的な生成の物語を創造しようとしている。画面全体に無数に配置されている点は不動の全体像を表すためだけに用いられる構成要素ではなく、一つ一つの点は自由に跳躍している。各点が恣意的に配列されることで動態性が生み出されているように見えながらも、それらの点が集まり何処かに向かおうとする方向性が画面全体に内包されている。確かな形は見えない。だが、そこには原フォルムと呼び得るものの姿が現前している。それはまさにマルチチュード的な集合体による創造ではないだろうか。それこそが近代を超克し、現代の新たな道を切り開くキーとなり得るものではないだろうか。私にはそう思われるのである。
暗幕で覆われた「瑛九の部屋」に私は入った。その部屋には誰もいず、私の正面に「田園」が飾られていた。最初、この絵には薄暗いライトが当たっていた。そのライトの光度の調整方法はすぐに了解できた。私は回転式のつまみを回して徐々にライトの光度を上げていった。青黒い点が深い陰影を刻んでいるような印象を受けた画面に、次第に明るい黄色やオレンジの点で塗られた部分が浮かび上がっていった。いや、明るい点が軽やかに、次々に踊り出していったのだ。描かれた何千もの点は、それが組み合わされて全体となるような完成態にとっての部品といったものなどではない。一つ一つの点にダイナミズムが存在し、それでいながら各点は何処かに向かって収斂しようとする手前の様相を呈している。
この特別展のフライヤーには「通常の展示でも、<田園>を長く見ていると、筆触や色彩の変化を感じ、音楽や映画のように絵を体験することができます。今回の展示では、暗い部屋の中で光の強さをコントロールすることによって、<田園>の魅力を、皆さんがひきだすことができます」と書かれているが、この展示方法によってこの絵の持つ躍動的なリズム性がより一層明確に感じることができるのである。ライトの光度の変化に伴い生成の物語の深遠さは強調され、それぞれの点が軽快に踊り出すのだ。
私はライトの光度を変えながら、「田園」の移り変わりゆくイマージュを長い間見つめた。光の強さの違いによって点の表す様々なフォルムが画面上を横断していく。多様な形を光度の変化と共に表現可能な瑛九のこの点描画は、横断性とマルチチュードが結合した創造作品である。それは近代を乗り越え、現代が新たな方向に進みゆくための、まだその形がはっきりと決定されてはいないが、ぼんやりとそのシルエットを感じることができる自由に飛翔する点の集合が、ある方向に向かって収斂しようとする物語である。それゆえ、それぞれの点は生きている。あるフォルムを形成する手前の希望の光として輝いている。それは未来へと通じる道ではないだろうか。瑛九はマルチチュードの世界の可能性を確実に創造したのである。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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