田中美津と私——田中美津の『書評』を頼まれて

手元に、田中美津の『何処にいようと、りぶりあん』の本がある。昨年8月7日に亡くなった田中美津さん追悼の再販本である。出版社はインパクト出版会、発行は2025年1月20日、この本の最初の発行は、1983年、社会評論社である。
 実は、今年の1月末だったかちきゅう座の石川愛子さんから、松田健二さん(社会評論社社長)と深田卓さん(元インパクト出版会社長)との間で、田中美津の再販本の書評を「池田さんに頼む」ということになった、と伝えられた。しかし、それとなく待っていたが、当の書物は一向に届かない。その後、5月になって、偶然深田卓さんにお会いし、その旨を伝えたら、転居前の私の住所に送って戻ってしまったということで、その後漸くその本が届いた、という訳である。
 何となくアバウトな頼まれ方になってしまった上に、すでに、『現代思想』2024年12月号に特集「田中美津とウーマンリブの時代」なども発刊済みである。その特集では、米津知子、信田さよ子、鶴田桃エ、脇坂真弥、上野千鶴子、江原由美子、海妻径子、水無田気流、菊池夏野、鈴木彩加、森岡正博、etc.・・・田中美津さんに関わりのある大方の人たちが、追悼かたがた執筆している。
 また、他方で、社会臨床研究会(代表、井上芳保)というこじんまりとした研究会では、昨年11月3日、「田中美津とリブの時代を振り返る」というタイトルの例会が開かれている。そこでは、田中美津と同じ鍼灸師であり、彼女から「まったさん」と呼ばれていたという松田博公さん(鍼灸ジャーナリスト、元共同通信記者)の熱のこもったレポートが発表された。その際に、いま一つの「話題提供」として、私もまた「田中美津と私」という短い報告を行った。
 そのような事情もあって(「遅れ」ついでに甘えて)、田中美津さんの『何処にいようと、りぶりあん』の書評は、来月に回してもらおうと思っている。その代わり、というのも変だが、今回は、先の社会臨床研究会での「田中美津と私」の報告を、幾分でも補足しておこうと思う。

田中美津の登場
 1970年10月21日、国際反戦デーの日、初めて「おんな解放」を旗印に「女だけのデモ」が組織され、その場で、「ぐるーぷ・闘う女」の名で書かれた「便所からの解放」と題するビラが撒かれた、という。その日をもって、「日本のリブの誕生日」とも言われる(上野千鶴子)。
 しかし、私が「便所からの解放」という一枚のビラを受け取ったのは、日比谷の会場ではなかった。何をするために、何処に行こうとしていたのか、今となれば定かではないが、私はともかく、地下鉄丸ノ内線の「御茶の水」駅を降りて、階段を上って、JR「御茶の水」駅に向かおうとしていた。地上に出た所で、一人の女性がビラを撒いていた。それは、田中美津本人ではなかったと思う。一枚もらって、歩きながら読んだのか、立ち止まって読んだのか・・・ともかく、目に飛び込んできた言葉が強烈!だったことは覚えている。(以下は、そのビラ「便所からの解放」からの抜書きである。)

 「男にとって女とは母性のやさしさ=母か、性欲処理機=便所か、という二つのイメージに分かれる存在としてある。」(太字は池田)
 「男の母か、便所かという意識は、現実には結婚の対象か遊びの対象か、という風に表われる。結婚の対象として見られ、選択されるべくSEXに対し、見ざる、聞かざる、言わざるの、清純な?カワイコちゃんとして、女は、やさしさと自然な性欲を一体としてもつ自らを裏切り抑圧していく。」

 この「ビラ」は、その後単行本として出版された田中美津の最初の著書、『いのちの女たちへ―取り乱しウーマン・リブ論―』(1972、田畑書店)の中に所収されている。
 また、当人(田中美津)自身、このビラを書き上げた時の事を次のように語っている。
― 人間って不思議だね。それまで女性解放の本一冊読んだことがないのに、ある日突然、しかも一気に書き上げたのがこれ、「便所からの解放」です。当時、ウーマンリブなんてことばもまだ知らなかった。・・・あたしの場合大抵いつもボーッとしていて、まったくムダに生きてるんだけど、実はボーッとしてる時に、〝無意識の把握”をしていて、「その時」が来るとソレを意識化して一気に出す、みたいなところがあるみたい。・・・

 とまれ、集会で「便所からの解放」を配った時、ビンビンとすごい手ごたえで、なんやわからんけど「時代をつかんだ!」って思ったね。(田中美津『何処にいようと、りぶりあん』インパクト出版会、2025年1月20日、p.244)  
 まさに、「忽然と!」現われたかのような田中美津の存在と言葉!それについて上野千鶴子は、次のように「解説」している。
「東大周辺の本郷に住まいのあった田中の家には、活動家の学生が出入りしていたが、彼らの議論に彼女が加わることはなく、ただ彼らの話すことに聞き耳を立てていた田中は、彼らの空疎な大言壮語に、活動家学生たちがたいした生きものではないことを見抜いてしまう。高学歴女も、彼女には同類に見えたことだろう。(田中の学歴は高卒)」(「リブかフェミニズムか?」『現代思想』2024.⒓)
 確かに、大学闘争に関わる新左翼諸派の男性の演説は、多くは、マイクを通した途切れ途切れの言葉が続く・・・「われわれは~~日本帝国主義の~~このような裏切りを~~断固として~~許すわけにはいかない~~」

 同様に、彼らの配るビラの言葉も、文字も!言ってしまえば、独りよがりの「アジ」(アジテーション=扇動)だったのだろう。
 その「言葉」ということでは、私自身今でも、居心地の悪い「思い出」がある。
 それは、大学闘争も終末近くだったか、偶々、民青の居城だった教育学部の前で、私たち「東大全共闘・院生会議」の面々が陣取った日のこと、誰かが「池田さんにマイク!」と私を名指しし、止む無く前に出た私だったが・・・喋ろうとして「言葉」が出て来なかった・・・。「語りかけるための言葉がない・・・!」
 しばし、みっともない「沈黙」が続いた時、後ろの方に取り囲んでいた民青から、「なんだよ~、何か言ってみろ~」と野次が飛び、それに「なんだと~~」と飛びかかった全共闘派の学生、たちまちに乱闘の場になってしまった・・・
 私もまた、気づかない内に、「生身の言葉」を見失っていたのだと思う。その意味で、田中美津の「言葉」が、ともかくも「ぐいぐいと沁み込んできた」のだろうとは思う。

 田中美津と私
 しかし、だからといって、私は田中美津らの「リブ」に参加したわけではない。
 1971年8月の長野県飯田市での「第一回リブ合宿」に参加したわけでも、1972年5月の「第1回リブ大会」にも参加しなかった。
 後々、田中美津の生年月日を知って、何と、私と同じ生年!と驚いた。しかし、よくよく見ると、田中美津は、1943年5月24日生まれ、私は、1943年3月21日生まれ。
 私の方が、いわゆる「早生まれ」で、学年が1年上である。しかも、東京育ちの田中美津に対して、私は北九州小倉生まれの小倉育ち。高校3年が終わって、一人で東京に出てきた(大学進学)。
 しかも、1970年3月末には初めての子を出産し、1972年6月には次男を出産している。

 田中美津の叫ぶ、「男にとって、女は『母(やさしさ)』か『便所(性欲処理機)』か」の言葉を丸ごと越えて、現実に「男と生活を共にし」「子どもを一人、そしてもう一人」と産んでいたのである。
 しかも、その頃は、職場に「育児休暇」制度があるわけでもなく、「0歳児保育」は無認可の「託児所」を探し歩かなければならない。したがって、まずは、「0歳児」の託児所を探し、「1歳児」から通える公立の保育所を探した上で、アパートを探す。これは死活問題だった。
 それからもう一つ。私の場合は、その頃はまだ、夫との間に「革命」への幻想が共有されていた。夫に転がり込んできた「下町の労働組合の専従」という仕事に、当人はもとより、私自身も歓迎したのだった。しかし、「全国一般労組」という個人加盟も可、という労組の専従の仕事は、「オルグ、ビラ撒き、団体交渉」etc.・・・長時間労働というより、「深夜も早朝も仕事!」という職場だった。したがって、その頃の私は、田中美津の「言葉」に激しく揺さぶられながらも、もっと複雑に入り組む「男と女と子の現実」に右往左往していたのだった。(続く)                2025.7.7

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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