本日、服務事故再発防止研修受講を強制されている都立高校教員Yさんに代わって、弁護士の澤藤から、東京都教員研修センターにご意見と要望を申しあげる。
私が申しあげたいことは、何よりも東京都教育行政の異常ということだ。本日の再発防止研修は、今年(2016年)3月の卒業式での国歌斉唱時の不起立を理由とする懲戒処分(戒告処分)にともなうものだ。全教職員に対する卒業式での起立・斉唱を強制する職務命令が異常であり、その違反への懲戒処分が異常であり、さらに服務事故再発防止研修の強制が異常なのだ。この異常に慣れてしまって、異常を異常と感じない感覚もも、これまた異常といわざるを得ない。
戦後の教育は戦前教育の反省から出発した。戦前の、天皇の権威を道具として、国家主義や軍国主義のイデオロギーを注入する教育が否定され、教育が公権力の統制から自由でなくてはならない、という原則が確認された。個人の尊厳は国家に優越する価値であって、国家によって侵害されてはならないという、18世紀市民社会の常識としての個人主義・自由主義が、ようやく20世紀中葉になって我が国の憲法が採用されるところとなり、1947年教育基本法が、教育の国家統制からの自由を宣言した。
こうして、生き生きとした戦後民主主義教育が発展した。その中心をなすものは、子どもの人格の尊重であり、これに寄り添う教師の専門職としての自由の尊重である。憲法と教育基本法がもっとも深い関心を寄せ、あってはならないとするものが、国家の教育支配であり、教育現場への権力の介入である。
国旗国歌こそは権力を担う国家の象徴として、その教育現場での取り扱い如何は、教育が国家からの自由を勝ち得ているか否かのバロメーターであると言わなければならない。
かつて、都立高校は「都立の自由」を誇りにした。誇るべき「自由」の場には国旗も国歌も存在しなかった。国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」という国家象徴の存在を許容することは、「都立の自由」にとっての恥辱以外のなにものでもなかったのだ。
事情が変わってくるのは、1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定からだ。1999年国旗国歌法制定によってさらに事態はおかしくなった。都立高校にも広く国旗国歌が跋扈する事態となった。それでもさすがに強制はなかった。校長や副校長が、式の参列者に「起立・斉唱は強制されるものではない」という、「内心の自由の告知」も行われた。教育現場にいささかの良心の存在が許容されていたと言えよう。
この教育現場の良心を抹殺したのが、2003年石原慎太郎都政2期目のことである。悪名高い10・23通達が国旗国歌への敬意表明を強制し、違反者には容赦ない懲戒処分を濫発した。この異常事態をもたらしたのは、極右の政治家石原慎太郎と、その腹心として東京都の教育委員となった米長邦雄(棋士)、鳥海巌(丸紅出身)、内舘牧子(脚本家)、横山洋吉(都官僚)らの異常な教育委員人事である。
処分は当初から累積加重が予定され、教員の思想や良心を徹底して弾圧するものとして仕組まれていた。多くの教員が、やむを得ず強制に服しているが、明らかに教育の場に面従腹背の異常な事態が継続しているのだ。
さらに、「服務事故再発防止研修」の異常が強調されなければならない。面従腹背を潔しとせず、自己の教員としての良心の命ずるところに従った尊敬すべき教員に、いったい何を反省せよというのか。
思い起こしていただきたい。10・23通達の異常は、異常な都知事の異常な人事がもたらしたものだ。今、この異常を糺すべく都知事選が行われている。その有力候補者の中の一人が、「人権・平和・憲法を守る東京を」という公約を掲げている。この候補者は「憲法を生かした『平和都市』東京を実現します。」と訴えている。かなり高い確率で、この候補者の当選が見込まれる。憲法の光の当たらない暗い都政と教育行政に、明るい光が射し込もうとしている。異常事態是正の希望が湧きつつある。
状況が劇的に変化しうる事態に、相変わらずの今日の異常な研修なのである。運用に宜しきを得るよう、こころしていただきたい。
異常はいつまでもは続かない。いずれ、知事も教育委員も教育長も変わる。センターの職員諸君に申しあげたい。現在の教育委員会に過度の忠誠を示すリスクについて、よくお考えいただきたい。そして、本日研修を受けるYさんに、敬意をもって接していただくようお願いする。
(2016年7月19日)
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「服務事故再発防止研修」に抗議する声明
本日(7月19日)、東京都教育委員会(都教委)は、3月の卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を理由として懲戒処分(戒告処分)を受けた都立高校教員に対する「服務事故再発防止研修」を強行した。
この「研修」は、自己の「思想・良心」や、教師としての「教育的信念」に基づく行為故に不当にも処分された教職員に対して、セクハラや体罰などと同様の「服務事故者」というレッテルを貼り、精神的・物理的圧迫により、執拗に追い詰め「思想転向」を迫るものである。私たちは、このような憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじる「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議するものである。
都教委は、「服務事故再発防止研修」と称して2012年度より、センター研修2回(各210分)と長期にわたる所属校研修を被処分者(受講者)に課している。しかも該当者(受講者)は、既に、4月5日に卒業式処分を理由にした「再発防止研修」を都教職員研修センターで受講させられており、今回で2回目となる。またこの期間に、所属校研修と称して、月1回の所属校への指導主事訪問による研修の受講も強制させられている。
これは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」と判示した東京地裁民事19部決定(2004年7月23日)に反することは明らかである。
また、教育環境の悪化を危惧して、「自由で闊達な教育が実施されていくことが切に望まれるところであり・・そのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要がある」という最高裁判決の補足意見(櫻井龍子裁判官 2012年1月16日最高裁判決)、「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべき」と述べ、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めている補足意見(2013年9月6日最高裁判決 鬼丸かおる裁判官)などの司法の判断に背く許されない行為である。
受講対象者は、東京「君が代」裁判第四次訴訟原告であり、都人事委員会の処分取消請求事件の請求人でもある。係争中の事案について「服務事故」と決めつけ、命令で「研修」を課すことは、「研修」という名を借りた実質的な二重の処分行為であり、被処分者に対する「懲罰」「イジメ(精神的・物理的脅迫)」にほかならない。
更に重大なのは、教員を本来の職場である学校から引きはがし、「不要不急」の研修を課し、午前中の学校での勤務、特に授業や生徒への指導を不可能とすることによって、生徒の授業を受ける権利を侵害し、かつ「教諭は児童の教育をつかさどる」とする学校教育法や「教員は、授業に支障のない限り…勤務場所を離れて研修を行うことが出来る」とする教育公務員特例法に明白に反していることである。
このように都教委が、教育活動よりも違憲・違法な研修を優先していることは教育条件の整備に責任を持つ教育委員会として断じて許されるものではなく、教育行政に対する都民の期待に背くものである。
私たちは、決して都教委の「懲罰・弾圧」に屈しない。東京の異常な教育行政を告発し続け、生徒が主人公の学校を取り戻すため、広範な人々と手を携えて、自由で民主的な教育を守り抜く決意である。「日の丸・君が代」強制を断じて許さず、「再発防止研修」強行に抗議し、不当処分撤回まで闘い抜くものである。
2016年7月19日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.07.19より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=7197
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://wwwchikyuza.net/
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