異相の世界資本主義論、その今日的展開~4月25日世界資本主義フォーラム報告レジュメ

純粋資本主義とニュートン力学へのアナロジー

1867年(明治直前年!)、「経済学批判」刊行から8年の歳月を経てようやく世に問うことの出来た「資本」第1部初版のそのまた序文、この部分は余り関説されることもなく例えば理論的立場のまるきり逆の伊藤誠「資本論を読む」と熊野純彦「マルクス 資本論の思考」、両者とも完璧に無視しているが、なかなかに含蓄に富み、読む者の思考力を試すマルクスの方法論的基礎をつぶさに物語るものとなっていることに、少しでもまともな知性の持ち主なら一読して直ちに気づくだろう。

そこでは、価値論および価値形態論の困難さに、当時最新鋭の生物学的知見である細胞形態に比喩を求めつつ触れたのに続けて、自らの考察の対象について、今度は物理学の方法に準えつつ論じている。

すなわち、その当時ではマルクスの言う物理学とはニュートン力学にほかならないが、それが過程の撹乱されることがない、実験室的状態を理想とするような純粋な対象を設定することで成り立っていることを引き合いに出して、経済学の場合ではその典型的な場所がイギリスでありそれだからこそそれを例解にして自らの「ブルジョア社会の解剖」作業を推し進めるのだと言明している。ここに宇野弘蔵の三段階論に頻繁に現出する「純粋」と「典型」が既にワンセットのキーワードとして提示されているのは実に興味深く、もちろん宇野はこの一節を一つの論拠として「純粋資本主義」の対象設定を主張するのだが、マルクスも宇野もまったく物理学的世界観の特異性を理解せずにそれを無批判に経済学の対象設定方法に持ち込んでしまうという隘路に迷い込んでしまっている。

物理学的世界観の特異性とは、世界の一切を質点と相互の力の関係に還元し尽くして考察するというもので、そこには不純な要素はそもそもの理論的考究の初発から存在していないのである。確かにマルクスの言及するように物理学は撹乱要因を出来るだけ排除して過程の純粋な進行を確保して観察を進めるが、排除された撹乱要因の方もまったく同一の物理学法則に服している、すなわち質点と力の関係の下にあるものとして扱えるのであって、撹乱要因の方もある純粋化の操作のもとでその物理的な法則の具体的な定式化を行い、最初の法則との合成をおこなうことが可能であると、そのように世界をみなしているのである。例えば真空中での物体の落下を観察して万有引力を導出するとして、空気中の物体の挙措を流体力学によって定式化し、双方を同一のニュートン力学場の下に重ね合わせ合成する事で、空気中での物体の落体運動を記述することが可能になるのとするのである。

ところで商品経済や資本主義を記述するのにそのような抽象化操作が適切だろうか?

そもそも資本主義を構成する基本関係である商品流通界とは、それぞれ相互に異質な諸社会が外面的に接する空隙に、それらを連接する無政府的関係性として生成し、労働力商品化を介して生産過程を商品流通の形式で編成したとしても、その本来的に外面的な性質を脱するものではなく、社会的生産の一部をあくまでも無政府的個別的な流通範式G-W-G’のうちに補足するに過ぎないのだから、常にその外部に商品流通の形式を超えてそれとは異質な共同体的な社会や生産諸形態を前提して存立するに過ぎない。である限り物理学形式の要請する純粋性を、見かけだけ模倣してもまったく対象の特異性にそぐわない接近法となってしまうことが歴然とするだろう。純粋な関係性をたとえ資本主義の歴史的発展の延長線上に見出したとしても、撹乱性として現れる不純な要因を単に捨象するような手続きでは、不純な要因を商品流通を介して周辺に配置して運動する現実の資本主義を分析しようとした場合、不純な要因をいったいどのように理論的に処理するのか、その処理方法そのものに理論的な裏付けを付与できなくなる。そうした要素との交互作用に関する理論は純粋化の操作によって最初から原理論内部で見ることの不可能な空白となってしまう。

 

宇野はその空白を典型国論として段階論をもって埋めようとしたのだが、典型そのものの抽出方法自体にこれまた理論的な根拠を欠くとともに、そうして得られた典型と再びまた典型に収まりきらぬ非典型的要因による撹乱という厄介な困難が立ち現れてくることになる。要は問題を先送りにするだけの話なので、無数の様態で存在する非典型要因からの撹乱の発現を無限退行に陥らずに処理することが不可能となっているのである。だから実際のところ例えば帝国主義段階の典型国とされるドイツと諸相であるイギリス、アメリカのそれぞれの資本主義国をもう一方の典型像として昇華できたとしても、ではたとえば日本資本主義は一体ドイツとイギリスとアメリカと日本の特殊性の合成物として描くことが可能なのだろうか。日本資本主義分析をそのような手続きに則って推し進めた奇特な例をただの一度として目にしたことはない。

原理的にこうした外部性の必然的な介在による撹乱とは、直接にはそれらと接する際の形態的機構である商品流通界の構造的な変動として受け止められるほかはないのであって、それらは言ってみれば、貨幣の価値尺度機能を媒介に形成される商品流通並びに貨幣通流速度・それらの量規定、価格変動にいったんは表現される。しかもこうした商品流通界は商品経済の無政府的分裂性を反映して、複数の商品流通界として設定され、それらの間の差異を利得したり商品の命がけの飛躍を引き受けることで、対価を獲得する形で価値増殖する資本形式の利潤率の差異や変動として集約されるのであり、こうした変動を含みつつ階層的に構造化される商品流通界の全体的編成論が要請されることは言うまでもない。

 

そもそも資本主義の純粋化は現実的過程であったのか

マルクスの場合、資本についてその使用価値的な制約性を積極的に考慮することはなく、労働力商品を使用して価値増殖する自己運動体と一面的に捉えられ、自然科学を応用する工学的な威力への無媒介の信仰に支えられて、資本主義的生産のあらゆる部面への浸透は当然のものとされてみなされていたから、資本主義化についての先進後進の時間的な差異がそこにはあるにせよ、あらゆる地域や国家の差異は時を経ずして解消するものと安易に想定していた。各国ごとの特性が生じるという歴史の実態の分析という課題に関し、修正主義論争や日本資本主義論争の経緯をたどることで、宇野は却ってそれゆえに分析の基準となる原理をイギリス資本主義の純粋化傾向に即して構想したのだったが、本当にそのような純粋化傾向を検出することが可能なのだろうか。まずイギリス内部に視野を限定しても農業の資本主義化の付いては大きな限界が画され、むしろ中小の小商品生産的経営が広範に残存したうえに基幹産業の綿工業原料である綿花はアメリカの奴隷制生産やインドカースト共同体の伝統的生産関係に、労働者の食糧農産物はドイツユンカー経営に決定的に依拠せざるを得なかったのだから、世界体制的な視点から見れば綿工業を基軸とした産業的蓄積の進展と非資本主義的、半商品経済的な「不純な要素」とは相携えていたとみるのが妥当であろう。(1)たとえばアメリカ奴隷制は南北戦争の結果として廃絶され、近代的労働市場が成立したのでないかという反論もありうるが、むしろそれはイギリス綿工業の発展に限界が画されつつあった19世紀中葉において生じた事態であって、宇野的に表現すれば純粋化の停滞と相即して生起しえたのだと見るべきだろう。アメリカやドイツの産業的発展も同じ事態の裏面であって、イギリス産業蓄積の鈍化と対外投資の拡大の生じたことによって初めて可能になったのである。恣意的に一国の国境の内部だけに資本主義の発展傾向を探ろうとする視角の致命的な狭隘さを知るべきなのである。1873年恐慌後の大不況期に入って初めて純粋化の逆転傾向が生じたかのように見るのは、単なる思い込み以上の何物でもない。

(1)  L.アルチュセール 『マルクスのために』に極めて示唆的な記述があることに注目してよい。1960年代初頭の初期マルクス研究の活発化という事態を前にして、そこに顕著に表れた、初期マルクスにおける観念論的残滓と唯物論的傾向という二要素論的理解を批判して、そのまさに二つが分かちがたく結合して若きマルクスの思想的発展がありえたというそのことに対する概念的把握がそこで構造的に断念されざるを得なくなってしまっていると指摘している。

 

原理論内部における「不純性」

世界資本主義論の提唱者である、鈴木鴻一郎にしても岩田弘にしても原理論の内部構成論として「あたかも」純粋資本主義を想定した「かのように」などと腰の引けたことを口にするものだから、そこに純粋資本主義派の非難論難が集中したのだったが、出来あいの原理論の内部にも資本主義の外部性・世界性がすでに道具立てとしては埋め込まれているのである。

最初に述べたようにいわゆる流通形態論を商品流通世界論として読みなおせば、原初的な世界性が含意されていることが理解されようが、資本にとってよしんば労働力商品を使用することで、生産過程を自らの形式に取り込んだとしても、その限界がどうしても付きまとうことつまり資本主義的生産の部分性が原理論の内部でもってすでにして説かれているのである。それこそが資本の生産過程の主体的前提である労働力商品そのものと客体的前提の一つである土地に代表される自然力の商品形態なのである。この二つのいわば単純商品の処理に関して、既成の原理論は労働力商品の価値規定=再生産費と地代論という異なった論理をもってするという不統一に陥っていて、それは需給論的に決着をつけるべきではあるが、これらの処理に外部世界からの商品供給に対するのと同一の原理を見出すことが出来よう。純粋資本主義派は最初から原理論の内部に「不純性」が潜伏しているのを見ることが出来なかったのだし、世界資本主義論もその点では選ぶところがない。

需給論的に決着という意味は、労働力商品の「価値規定」なるものでは需給関係によって労賃が変動することと整合性がどうしても取れず、突き詰めていくと相対的過剰労働人口も常に資本によって再生産されているという度し難い予定調和説に陥ってしまうこと、また地代論について言えば生産性の格差によって差額地代を説く論理には傾聴すべき論点も含まれているかもしれない、絶対地代がなぜ生じるのか差額地代論から整合的に論拠を引き出すことは出来ない。たんに資本にとっては外部的に土地が商品として現れそれに対しては貨幣所有者として対峙するほかないという事態を受け入れるかどうかの問題なのである。それを資本にとって土地所有も従属的関係におけるのだなどと主張しようとするからおかしくなる。土地バブルなどどうして起きるのか、既存地代論では決して踏み込む事の出来ない問題領域となっていること一つとっても、その限界は明らかである。

ではマルクス経済学も需給説に屈服せざるを得ないのか。その通りであると同時にその通りではない。資本は商品世界の全体を労働力商品化によっても、自らの内部で作り出すことに限界があることよって、需給関係を完全に内部化することは不可能な部分的生産にとどまるが、しかし必然的にとは言えないが商品世界のある部分に需要の価格弾力性と生産技術の組み合わせにおいて比較的安定的に利潤の獲得できる可能性を見出せばその部分に限定的に資本関係が成立するとすることは出来るだろう。労働価値説なるものも、その内部での再生産構造を労働時間の投入と回収の関係を特権化して記述する限りにおいて仮想的に成立するに過ぎないのである。

もう一つここで触れておきたいのは、地域や国によってそれぞれ独自の発展をする資本主義を原理論の内部でどのように説くかである。岩田弘は鈴木編原理論序文でも、自著の「マルクス経済学(上)」でも、原理論を対称的に各国資本主義に適用できるかのように主張しているところがあるが、たとえば手形流通を基底とする銀行信用体系を大陸がたの産業金融中心の銀行形態にそのまま見出すことは極めて困難なわけであって、このこと一つとっても、論理的展開と空間性の関連については大きな課題が依然として残されているのだろう。もちろんそうした特異性をすべて段階論の課題として丸投げするのも一手だろうが、そこには最初に述べたような無概念的な経験論への退行という危険が待ち受けていることは指摘しておかなければならない。

 

論理と歴史

空間的な議論をすれば、19世紀資本主義の世界体制一つとっても、イギリスを中心に様々な生産関係が編成され、かつそのなかから鉄道業や鉄鋼業の地域偏差を伴った発展がみられたわけだが、それを原理論の景気循環論の延長線上で必然性をもって説くことが出来るという(当初の?)世界資本主義論の主張は全くの妄想に過ぎないだろう。段階的推移について上部構造の介入が必要だからだとか言う論点からなされてきている純粋資本主義派からのそれは、当たり前すぎて取上げるに値しない。

世界資本主義論の内在的批判を試みるとすれば、そうした新興産業の蓄積を可能にする株式資本形式を説くにあたり、固定資本の制約による利潤率の不均等を株式の利回りの均等化によって擬制的に止揚するのだという言い分が見られるが、これは資本とは前貸しの大きさと期間に比例して無差別に価値増殖するのだという、「理念」の自立化という観念論的操作のなせる技にほかならない。もう一つ景気循環を通して生産力の増進が継続的に生じた果てに固定資本の巨大が現れるが、そうなると恐慌―不況過程をつうじての旧固定資本の廃棄更新に耐えられなくなり、反対にそれを温存するための資本の合併統合手段として株式会社形式が要請されるのだという、先の形態的要請とは別の実体的要請というもの語られているが、一体巨大化とは何に対してのことなのか、これが分からないし、株式資本形式が普及してきたのは、既に急性的恐慌―不況といういわゆる自由主義段階的な景気循環が消滅した時期であることとまったく整合のとれない説明になっていること、このことを指摘すれば、それが余りに付会した言い分であることが明白になるだろう。固定資本が巨額になったのだから株式を発行して社会的な遊休資金を動員するのだから、そこに何か新たな制約が生じるのだと、必ずしも言えないのではないか。どうもこれはヒルファーディング的な偏向のように思われる。

現代的な産業形態を見れば、例えばマイクロソフトのように固定資本が必ずしも巨大ではないような部面で市場価値評価が巨大化するような資本も数多登場してきているのだから、伊藤誠の主張する「逆流仮説」にまで至ると行き過ぎだが、この固定資本の巨大化を絶対的なものとして安易に受容することは避けなければならないといえよう。

そもそも原理論の内部では、前の論理段階の矛盾や制約を突破する新たな形態が必然的に生じるのだという推論形式が多用されているのだが、これ自体がまったく成立しがたいのではないか。価値形態論しかり、貨幣の資本への転化しかり。その上に資本主義の現実の歴史的転化を必然性をもって説こうというのは、残念ながらドンキホーテ的企て以外の何物でもないのである。

 

中国資本主義について

今日の中国をもって資本主義なのかどうかという論争もありうるが、余り頭を悩ます必要はない。最初から述べているように、そもそも資本主義的生産というのは部分てなそれでしかなく、労働市場をはじめとする商品市場、貨幣市場、資本市場などが部分的にせよ成立すればそこに成立しうるのであった、なにも政治的上部構造がブルジョア権力であることを直ちに要請するものでは決してないことを正確に認識すれば済むことなのである。社会主義なのか、共産主義なのか、それとも修正資本主義なのか、それに思い悩むのは「歴史主義」の罠にはまりこみ、未だモダンが生き続けていると錯覚する者たちだけだろう。

 

エピゴーネン、その「諸相」~現実逃避のイタさ

どういうものか、廣松渉の場合(1)もそうなのだが偉大な開祖の継承者に限って愚昧、尊大、唯心論的のぼせ上り等々、要はエピゴーネンの度を救いがたく深めて行くのが世の習いとなってしまっているのだが、悲しいかな宇野弘蔵にあってもご多分にもれず、宇野自身は余りにもよく知られているように主観的恣意的な理論操作に頼ると小商品生産者の社会のような機械的抽象に陥ることを厳にいさめて、それゆえにイギリス資本主義の19世紀中期までの純粋化傾向に沿ってそれの極限を想定して原理論を構成すべきであるとしているにもかかわらず、エピゴーネン諸君は、当の純粋化傾向を口にすると今触れて来たように、実際の歴史過程にその実証的根拠を求められない弱点を突かれるものだから、それをおくびにも出さず師とは真逆の独我論的方法を公然と唱えるようになっていった。その隊列をここで一瞥するなら「カント的定言命題」(渡辺昭)(2)、「修正されることのない絶対的成果」(柴垣和夫~降旗節雄(3))、「経済人の利益最大化行動論」(山口重克(4))、「抽象力の駆使による演繹体系構制」(小幡道昭)(5)などなど、よくぞ言ったり、呆れ果てるどころではない。それを遥かに通り越して呆けた笑いがこみ上げてくるのを禁じ得ないが、どんなに一見したところの論理的厳密性を偏愛しようとも、そこからは「実証」という言葉だけは間違っても聞こえてこない。だからドルの金兌換停止により金本位制が最終的に廃棄されて、すでに40年以上が経過しているにもかかわらず、未だに価値形態論やそれのクラッシュ形式にしがみついて商品から貨幣が生じるのだとうわ言のように繰り返すしか術がなくなってしまった。これは余りと言えばあまりのイタ痛しさではあろう。

 

(1)  枚挙にいとまないが、ここでは二人だけ上げれば必要にして十分だろう。

まず一人目は熊野純彦。その著作の前掲「マルクス、資本論の思考」、ここで熊野はなんと永山則夫を冥界から召喚してお涙頂戴のダシに使い倒すという、悪辣にして軽薄この上ない霊媒師の役回りを演じている。あまつさえ同書はお約束のレヴィナスという名のエクトプラズムが随所に立ち込めていることも論をまたない。その意味では近年まれにみるオカルト的怪著。因みに私はその余りの禍々しさに怖気をふるって、書棚の一角に結界を作りそこに護符とともに押し頂いている次第。

もう一人は商品からの貨幣の生成(価値形態論)と貨幣の商品化(利子論)というベクトルが文字通り真逆で次元も異なる二つの理論領域の区別と連関が全く付けられず、後者の事例をもって前者の有効性が論証できるなどという「迷珍説」を傲然と嘯く、自称「マルクス経済学者」、その実の正体は超絶的でんぐり返り名人の吉田憲夫(情況2014年9月・10月合併号所収 『廣松渉氏の「貨幣生成論」について』)。

いやはや廣松“シューレ”も負けず劣らず侮れんぞ。

(2)  資本論と帝国主義論(上)所収 「経済学における論理と歴史」

(3)  柴垣和夫;社会科学の論理、降旗節雄;資本論体系の研究

(4)  山口重克;経済原論講義

(5)  小幡道昭;価値論の展開

 

◇日時 2015年4月25日(土)午後2時~5時
◇会場 立正大学品川(大崎)キャンパス 5号館2階 524教室
大崎駅、五反田駅から徒歩5分
〒141-8602 東京都品川区大崎4-2-16   TEL:03-3492-2681

http://www.ris.ac.jp/access/shinagawa/index.html

http://www.ris.ac.jp/introduction/outline_of_university/introduction/shinagawa_campus.html

◇報告
(1)青山雫、異相の世界資本主義論 その今日的展開
(2)五味久壽、「ソ連社会主義の現実」――同時代の研究を振り返って

◇参加費無料。どなたでも参加できます。
◇ 問合せ・連絡先
矢沢 yazawa@msg.biglobe.ne.jp 090-6035-4686

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

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