異論なマルクス   マルクス・スラッファ・客観価値説~小幡道昭氏最終講義に寄せて

去る3月19日東大経済学部にて、原理論研究の第一人者である小幡道昭氏の、「マルクス経済学を組み立てる」と題する、最終講義が持たれ、私も聴講者の列に加わった。小幡氏は東アジアでの新興資本主義国の台頭を、資本主義の新段階を画す「地殻変動」ととらえ、狭く原理論の領域にとどまらず、マルクス経済学の理論全般にわたる、抜本的な再構成を、近年精力的に進めてきたことは、周知のところであるが、この最終講義は、集大成というよりは、むしろ、そうした一連の作業の、中間報告の位置づけとのことだった。

私自身は、いまや、マルクス経済学のアウトサイダーでしかなく、小幡氏による再構成の、マルクス経済学そのものに対する意義について、云々する立場にないが、講義の中で取り上げられた、再構成の軸となり、マルクス経済学が最小限踏むべき、4条件1)のうちの2番目である、客観価値説について、アウトサイダーなりの感想めいたものを、以下簡略に述べたい。というのも、私が、「足抜け」し、アウトサイダーとなったきっかけの一つが、労働価値説を手掛かりとして始められた、客観価値説に関する、自分なりの評価作業の行きついた先だったからだ。(もう一つは、変動相場制移行をきっかけとする、価値形態論への根源的な疑問)(以下、敬称略)

 

1)Ⅰ貨幣の実在する市場(商品貨幣説)Ⅱ客観価値説(労働価値説)Ⅲ余剰の理論(搾取論) Ⅳ産業予備軍の存在する労働市場(相対的過剰人口の累積論) 〔(  )内は対応をつけるための資本論での説き方。〕の4つ。

それぞれ、今般の再構成により、資本論とは、説き方を相当変えている。特にⅡ→Ⅲは、労働価値説を客観価値説のサブセットとして捉える立場から、労働時間のタームを表面的には採っていない。なおⅠについて、特に貨幣生成論については、論じられなかったので、本稿でも触れていない。

なお、講義稿は以下URLで見ることが出来る。

http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/dp/2016/2016cj273.pdf

 

さて、上記引用のⅡ 客観価値説だが、講義稿の5ページから6ページにかけて、おなじみの、スラッファ物量体系による定式化2)に全面的に依拠し、このとき供給の条件だけで価格決定でき、この「ラインまで撤退すれば、マルクス経済学は確かな価格の決定論を用意することが出来る。」とパラフレーズしている。

2)P.スラッファ『商品による商品の生産』(1978、菱山・山下訳 有斐閣)第一部単一生産物産業と流動資本
第二章 剰余を含む生産

 

ここで、単一生産物言い換えると結合生産物の存在しない範囲での、スラッファシステムが、なぜ供給の条件だけで、つまり需要の契機を捨象して、価格が決定できるのかというと、下記のような、教科書に必ずのっている、需給曲線のグラフで示すならば、スラッファ型の供給曲線は、一次方程式によって一意に決定される、価格pの水平線となり、右肩下がりの需要曲線が、どのようにシフトしようとも、一定の価格pでもって、需要を満たすことが示されるからだ。つまり、方程式で決まる価格pのもとで、いくらでも追加供給できる、という事態を表現している。

これを、通常経済学では、規模に対して収穫一定、と表現している。

 

もちろん、現実の世界では、スラッファ型だけでなく、収穫逓増、収穫逓減、それらの混合、などなど千差万別だから、水平の供給曲線とは限らないのが、一般的なのである。その場合は、需要曲線がシフトすると、供給曲線上で、均衡価格も移動していくことになる。つまり、価格は需要の契機によって影響されることになるわけだ。上図で右肩上がりの供給曲線の例を示したが、均衡点の価格は、それぞれ異なるのが、見て取れるだろう。(3つの点線と縦軸Pの交点の移動)逆にいえば、スラッファ型は一般的な形の特殊例とも、考えられる。3)

3)このあたりの議論については、私の「暗黒面の力」(スターウォーズ)の師、竹内靖雄の「マルクス価格理論の再検討」(玉野井芳郎編著1962 青木書店)所収論文、お
よび、竹内「マルクスの経済学」(日本評論社1972)の53ページから59ページ参照のこと。

 

私自身は、もちろんアウトサイダーだから、一般的な形で均衡価格を、つまり需要の契機を入れて、考える方を採るが、小幡はこのスラッファ型こそが、マルクス経済学の必須条件の一つであるとしていることになる。私はそのことを論評しているのではなく、単に需要供給説からみると、マルクス経済学(とスラッファシステム)はこう見えるといっているだけで、そこから見たとき、特殊例であることが、マルクス経済学のアイデンティティなのだ、といわれれば、それまでのことであるのはいうまでもない。よくよく考えてみれば、スラッファの世界では、資本は自らの供給条件のみで、価格、利潤を決定でき、いかなる需要をも満たすことが出来るのだから、それはそれで、資本にとってのパラダイスともいえるのだ。

 

ちょっと具体的に、一般的なスラッファ型でない例を、探してみると、たとえばある種の化学産業の工程のように、基材の反応を促進する触媒は、産出量を倍にしようとしたとき、基材の方は倍投入する必要あるが、触媒の方は一定の量で変わらない(連鎖反応が加速度的に進行するので、触媒を倍投入しても、反応時間は変わらないようなケースを想定している)ものや、石油精製業のように、同一工程から重油、軽油、ガソリン、タールなど複数の生産物が、しかも固定した比率で、産出される場合になると、いつもその固定比率で、需要のほうもあるわけでは決してないから、いつもこうした産業部面では、過不足が生じることになり、一体安定した価格決定が、ありうるのかどうかすら、あやしい類の生産技術まで、ありえるのだ。(結合生産物の難問)

 

もちろん、マルクス経済学の原理論というのは、そういう、厄介な現実をいきなり抽象するのではなく、それとは独立して、思考(抽象力)の、純粋な発動によって、構成される性質のものなのかもしれないし、そうであれば、特段の問題ではないのかもしれない。アウトサイダーから見ると、ずいぶん窮屈な条件を、自らに課しているのではないのかという、マルクス派にとってはいらぬ感想を、つい持ってしまうだけのことなのだろう。

 

余計ついでといっては何だが、小幡は、労働時間のタームを、第一次的にはなぜ取らないかについて、投下労働時間は物財ではなく、補填云々のコンテキストにはなじまない、としているように読める。しかし、労働時間も思考実験的には、とりわけ単純労働に一元化すれば、計測可能物理量であり、そう邪険にしなくてもよいように思う。もちろん、労働時間を表舞台から撤去してしまえば、複雑労働、異種労働、ひいてはデザイン労働などの、面倒な問題をその根っこから、除去してしまえるので、それはそれで、すわりがよいのかもしれない。

 

ところで、単純きわまりない一次方程式群で表現されるスラッファモデルなのだが、実のところ、中々に含蓄のあるものなのではないか。そのことを、前掲書にある数値例で、すこしく触れてみたい。前掲書10ページに、

 

小麦生産部門 280クォーターの小麦+12トンの鉄→575クォーターの小麦

鉄生産部門  120クォーターの小麦+8トンの鉄→20トンの鉄

 

とあり、鉄生産部門の20トンの産出は、小麦生産部門の12トンと鉄生産部門自身の8トンのそれぞれの投入を補填して完全にリサイクルするが、575クォーターの小麦の方は、両部門あわせて400クォーターの投入を補填した上で、175クォーターの余剰が生じ、それが両部門間に均等利潤率に応じて、分配される例になっている。そのこと自体は一目瞭然なのだが、鉄生産部門の方を、よくよく見ると、何で小麦120クォーターと8トンの鉄を投入して、20トンの鉄が産出されるのか、実に不可思議に思えてこないだろうか。なにか、無から有が生じているような、あるいはカルト的物質変換技術ごときが、暗示されているかのような、妙な気になってこないだろうか。そう思って、小麦生産部門のほうも、改めて眺めてみると、280クォーターの小麦が、12トンの鉄と合体して、575クォーターに増加するのも、妙といえば妙ではないか。小麦の場合は植物だから、栽培によって当然増殖するのだという、理屈もありうるが、答えとしては半ばにも届いていない。土地の養分と、空気中の二酸化炭素の太陽光を利用しての、炭酸同化作用によるものなのである。

では、鉄の方は、管見の限りでは、これまでのところ、そうした植物的な過程は発見されていないようだが、一体どうして、投入を超える産出が可能なのか、これは中々に興味津々の問題で、生産的な技術とは何なのか、自然の搾取があるのではないのかとか、意想外に深い話になって来そうに思えないだろうか。

 

さて、サイトに載せるには、ちょうどよい頃合になった。小幡氏の最終講義の射程は、もちろん本稿の扱った領域を、遥かに超え、それだけにマルクス経済学サイドでの受け止めは、議論百出となるにちがいない。すでに労働価値説の、表面的な撤回については、会場のパネラーからも、鋭い疑問が提示されていた。今後、どのような落としどころがありうるのか、アウトサイダーながら、目の離せない波紋が、広がっていっているように感じられるし、余計かもしれないが、また何らかのお節介入が出来る機会が訪れるのを、ひそかに楽しみにしている次第ではある。

 

以上

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study716:160323〕