さて、どうして論理の矛盾やルールの変更が生じてしまっているのか。
資本論価値形態論(価値形態または交換価値)の導入部分を見てみると次のような記述に行き当たる。
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諸商品は、ただそれが人間労働という同じ社会的な単位の諸表現であるかぎりでのみ価値対象性を持っているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であることを思い出すならば、価値対象性は純粋に社会的であることを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現れえないということもおのずから明らかである。・・・・いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない。
Unquote
ここでは「人間労働という同じ社会的単位」を有していてその限りで同格な諸商品相互の「社会的な関係」にその「価値対象性」が現象するのだとされている。つまり商品相互が現象させるであろう論理や投票のルールは、同格な商品相互の社会的関係を展開するとされている。
しかしわれわれがこれまでに見てきたように、その論理やルールは突然商品相互の関係性とは断絶した形で生じていたのだった。それはなぜか?簡単であって、商品相互の関係だけから生じる論理やルールでは、価値表現を独占する特権的な在る商品、すなわち一般的価値形態が生成してこないので、舞台回しを司っているマルクス自身が介入してそうした論理やルールの変更を外在的に行ってしまっているからにほかならない。
最初に掲げた冒頭の記述に続けて資本論は価値形態論の課題として次のように語る。
Quote
諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をそのもっとも単純な最も目立たないに姿から光まばゆい貨幣形態に至るまで追跡することである。
Unquote
とあたかも商品自身の価値表現の運動を追跡すればおのずと貨幣形態にまで行きつくかのように語っているのだが、事実は全くマルクスの恣意的とでも言ってよい介入によってのみそれが果たされているのである。
実際資本論初版の価値形態論本文では、形態四ですべての商品の拡大された価値形態の転倒によって、すべての商品についての一般的価値形態が並列されて、特権的な商品の導出に至ることは断念されていたのだった。
宇野構造は、社会的単位をこの次元で提示することはできないとしたのだったが、純粋に形態的に価値を「商品相互の同質で量的にのみ比較しうる性質」として、その性質の商品相互の価値表現の展開の極点に一般的価値形態を説こうとしている限りは、資本論と同様の難問を胚胎することに変わりはないのだ。
商品の中から商品自身の相互関係を通じて必然的に貨幣形態が生じるとする価値形態論は、これまでに見てきたように理論的に支持しがたいうえに、すでに変動相場制に移行して40年余が経過しているという歴史的現実によっても反証されているにもかかわらず、依然としてそれに対する深刻な反省が見られないのはいったいいかなる所作なのだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study972 :180512 〕