過日とある研究会で参加者のかたから、おおむね以下のような提起がされた。
相対的剰余価値の生産は、生産力=技術進歩によるのだが、マクロ経済学では、技術進歩に資本財と労働双方に進歩を見るヒックス中立的、資本財のミニ進歩を見るソロー中立的、労働のみに認めるハロッド中立的技術進歩を想定し、100余年の経済数量分析の結果、ハロッド中立性のみを実証している、個々具体的技術の形は、資本装置の具体性に表現されるとは言え、その総体系は労働力能の全面的向上に表現される。これは、マルクス労働価値論の実証であると読めないか?
というようなものであった。
その場では特に結論めいたものには至らなかったが、なかなか面白い論点ではないかとおもったものだ。
そのあと少し自分なりに考えてみたが、まず百数十年にわたる期間を取って技術進歩を論ずる場合、この間に起きた著しい技術革新をどう取り込めるのか、という点がまず問題にはなりはしまいか。たとえて言えば航空機のプロペラ機からジェット機への転換、そもそも機関の初期にはほとんど実用化されていない、またコンピュータに至ってはそろばんとの比較になってそんなことに意味があるのだろうか、と疑問が次々にわいてくる。
百数十年間でほとんど変わらないのは、人間の労働能力だけで、もちろん生産手段との組み合わせでそれは発現するのだが、この間の主要な人間労働というのは、だれでも持っているようないわゆる単純労働で、百数十年前の労働者でも多少の訓練を経れば現代的な労働に適応できる、そういう風に見ると人間労働だけが一定の能力を備えているといえないだろうか。つまり一切の技術進歩を単位労働当たりの産出高に集約還元して評価するより手立てがないという、言ってみれば評価技術上の制約がまず考えられはしないだろうか。
長期にわたる技術進歩の評価基準の観点とは別に、資本論でも詳細に述べられている分業や協業による労働生産性の向上というのがあって、これは生産手段そのものへの大きな投資なしに、労働の編成様式の変更で実現できる面がかなり強い。それゆえに百数十年間の間の労働生産性の向上の基本様式としてあまねく採用されてきた、そういうことの結果ではないか。
もう一つ思いつくのは、この百数十年間というのは、大量生産の時代であったこと。一基10トンの溶鉱炉を100基ならべて1000トン算出するより、1000トンの大規模炉に替えた方が、ずっと生産性が上がる。なぜだろうか?へたをすると1000トンの炉のコストは10トン炉の100倍になりそうではないか。仮にそうだとしても、1基の炉にかかる労働者数は10人なら10人というように固定的になる傾向があるとすれば、1トン当たりの設備償却費は同じでも、固定的人件費は100分の1に激減するわけだ。多分このような生産の大規模化というのが、分業・協業と並んで大いに進められたのではないか。
最後にもう一度技術革新の取り扱いに戻って、百数十年の長いスパンではなく、例えば直近30年間のコンピューターの処理能力の向上は、100倍などというレベルではなく、100万倍にも達している。一方コンピューターの単価はむしろ漸減しているほどなのだが、この場合どのような比較をすべきなのか?ヘドニックス処理というのがあって、コンピューターのような標準化した性能比較ができる場合、現時点価値を30年前の同等の性能のコンピューターの価値とみなすというような取り扱いがある。こうしてみると、コンピューター自身の性能向上は減殺されて、再び人間労働当たりのデーター処理量が100万倍になったとみなされてしまう。
大体こんな風に考えてみたのだが、労働価値説の一端である強められた労働が百数十年間の技術進歩の過程で間接的に論証されたのかどうか、むしろ労働は強められないで、一定であっても労働者あたりの産出高が飛躍的に増大した、そのことに限定されるのではないだろうか。
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〔study1244:230116〕