マルクスのヘーゲル弁証法への言及を、経済学批判から資本論にかけて、思い浮かぶ範囲で拾い上げて、少しその「転倒」、マルクスの批判的摂取について考察してみよう。そうすることで、マルクス以後に現れた、例えばロシアマルクス主義の素朴実在論的偏向や、そのでんぐり返し版生成の潜在的可能性を測定することがかなうのだろうと言う予想の下に。
経済学批判序説 経済学の方法から
例の具体的なものから、下向過程を通って抽象的規定へ分析的に達し、そこから上向過程を通って、抽象的規定諸要素からなる、具体的なものを再生産する、という「唯一の科学的に正しい方法」を論述した後に続けて、
―――― 具体的な総体が、思考された総体として、一つの思考された具体物として、in fact《事実上》思考の、概念作用の産物であるかぎりでは正しい、しかしそれは、決して直感と表象とのそとで、あるいはまたそれらをこえて思考して自分自身をうみだす概念の産物ではなくて、直観と表象とを概念へと加工することの産物なのである。―――――
現実の主体は、いままでどおりあたまのそとがわに、その自立性をたもちつつ存在しつづける。つまり、あたまがただ思弁的にだけ、、ただ理論的にだけふるまうかぎり、そうなるのである。だから理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない。1)
資本論の方法への論評
初版(1867年)刊行以来のさまざまな論評が出てきた。
相互に矛盾した批評の様相
形而上学的にして現象論的!?
分析的・演繹的!
ペテルブルグでの批評(I.I.カウフマン)
私(マルクス)の研究方法は厳密に実在論的であるが叙述方法は不幸にもドイツ的弁証法的である、ということを見出している。
「叙述の外形から判断すれば、一見マルクスは最大の観念論者であり、しかも、この語のドイツ的な意味で、つまり悪い意味で、そうなのである。しかし、実際には、彼は、経済学的批判の仕事での、彼のすべての先行者に比べて無限により実在論的である。・・・・彼を観念論者と呼ぶことはどうしてもできない。」
「・・・このような研究の科学的価値は、ある一つの与えられた社会的有機体の発生、存在、発展、死滅を規制し、また他のより高い有機体とそれとの交替を規定する
特殊な諸法則を解明することにある。そして、そのような価値を、マルクスの著作
は実際に持っているのである。」(カウフマンの批評からの長い引用の最後の部分)
この筆者は、彼が私[マルクス]の現実的方法と呼ぶものを、このように的確に、そして私個人によるこの方法の適用に関するかぎりでは、このように好意的に、述べているのであるが、これによって彼が述べたのは、弁証法的方法以外のなんであろうか。
・・・叙述の仕方は、形式上、研究の仕方とは区別されなければならない。研究は、素材を細部にわたってわがものとし、素材のいろいろな発展形態を分析し、これらの発展形態の内的な紐帯を探り出さなければならない。この仕事をすっかりすませてから、はじめて現実の運動をそれに応じて叙述することができるのである。これはうまくいって、素材の生命が観念的に反映することになれば、まるで先験的な[a prioi]構成がなされているかのように見えるかもしれないのである。
私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のものとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭の中で転倒され翻訳されたものにほかならないのである。
・・それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえしたのである。弁証法がヘーゲルの手の中で受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態を
はじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならないのである。
・ ・・その神秘化された形態では、弁証法はドイツのはやりものになった。・・・それは、現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含み、一切の生成した形態を運動の流れのなかでとらえ、従ってまたその過ぎ去る面からとらえ、何者にも動かされることなく、その本質上批判的でありまた革命的であるからである。2)
(上記引用文中、強調太字部分は引用者による)
なるほど、マルクスは初版に対する、世上の「観念論」「弁証法的」などという批判に対して、居直り的にヘーゲルへの沈潜を口にすることで、反論しているわけだ。初版序文では、生物学や物理学との比喩を盛んに用いながら、そうした自然科学と並ぶ科学性を「資本論」が十全に備えていることを誇示していたのとは、対極的な表出ではある。
初版序文では、経済的細胞形態の顕微解剖に相当する分析を担うのは、「抽象力」によるものであり、物理学者が観察をおこなう際の、撹乱要因を排除した対象設定あるいは実験室的な純粋化の手法と対比させて、近代社会の経済的運動法則をそれの典型的な場所としてのイギリス社会を観察することで達成しようとしていた。そこで得られた法則は、自然法則的な必然性、「鉄の法則」として国と時代を超えて貫徹すると主張したのである。マルクスはまったきの自信を持って、資本論の、自然科学に比肩する、近代社会の客観的な経済法則性の証明を世に問うたつもりだったのだ。
そうであるからこそ、世上のそうした「観念論」「ヘーゲル弁証法的」云々の批判に対しては、憤然とせざるを得なかったし、真っ向から反論せずにはいられなかった。こうした批判は寄せられることを想定していなかったにちがいない。
先のカウフマンの批評の引用と、それに対するマルクスのコメントのところに帰ってみるならば、どうだろうか、それこそが自分の弁証法的方法なのだといっている部分と、カウフマンが「ヘーゲル弁証法的]」「悪しき意味でのドイツ観念論的」と断じている部分とは少し異なっていて、「悪しき」の方はどうだろうか、冒頭価値実体論、これはまるで弁証法的とは評し難いが、むしろ分析的というか、言葉の韜晦ばかりが目立つ部分だが、そことそれに後続する、価値形態論、これは確かにそうだろうし、価値の実体が人間労働という社会的実体だから、商品の社会的関係性に現象形態を展開する必然性があると説く、価値形態論の導入部分の文言からしてもそうであり、こうした価値実体の還元から価値形態論にかけてを、「ヘーゲル弁証法的」「悪しき意味でのドイツ観念論的」と評したのだろう。
だから、カウフマンがいわば有機的体制の生成論と転化論という大域的構成方法を「実在論的」としている側面と、価値論で見られる局所的な論理を「弁証法的」としているのだが、それに対してはマルクスは双方ともに「弁証法的」として、とくに価値論のほうを、「ヘーゲルに媚を呈した」としているのだ。
しかしその弁証的方法のヘーゲルとの差異はどこにあるのかというと、上に引用した、二つ目のパラグラフでマルクス自身の敷衍がしめされているのだが、しかし、世間のマイナスの評価を払拭したいがために、やや性急で機械的論述になっているのは否めないのではないか。「正反対」とか、「思考」対「物質」を語ることによって確かに読むものには、その対比が強く印象付けられかつ簡明なものになっているのだろうが、実際の資本論の叙述を見ると、そう単純にはなっていない。この物質的過程の思考への反映なる命題は、エンゲルスはかなり語句どおりに捉えていて、マルクスの歴史的社会体制の弁証法を補完するかのように、後年「自然弁証法」を著すにいたるのだ。さらにそこからは、直ちにロシアマルクス主義への道につながったのではないか。しかしながら、資本論は自然科学的な対象としての物質過程を直接対象にしているのではないことは当然であって、初版序文にあるように「近代社会の運動法則の全面的な叙述」にあるので、物質としての物質の運動が問題にされているのではない。この思考過程から物質過程の頭脳への反映が、頭で立っている「ヘーゲル弁証」をひっくり返すことであり、神秘的な外皮から、合理的核心を取り出す方法だと言うのだから、この文言だけをそのまま直截受け入れてしまえば、思考から物質へという「唯物論的転倒」が直ちに姿を現してくることになる。ここにこそレーニンを含めたロシアマルクス主義の悲喜劇の淵源があるのだろう。
思考から物質へというシェマと、神秘的な面と合理的核心が双対になっているのだから、人々は余計に、物質過程の方が合理的法則性だと思い込んでしまうし、それの頭脳への反映こそが客観的事実の歪曲なき認識をもたらすものと、理解するのもある意味当然なのだ。しかし、弁証法の合理的核心とはなんなのか、これが解っていないからこうなってしまうのだ。例えばこの合理を、大陸合理論の系譜で捉えると、何か演繹的な体系叙述のことかと思われてしまいがちだが、もちろんその意味でマルクスはこの語を用いているのではない。
先のカウフマンに評論の引用とマルクスのコメントを見ればある程度察しがつくのだが、ようは有機的な全体をなすシステムのその内的な統一的にして単一の原基形態からの一貫した展開に基づく転変の法則の記述、それをヘーゲルは思考過程にそくしてではあるが、はじめて包括的に叙述したと言うことなのだ。たとえばそれは、商品の等値関係から価値実体を導出し、それが現象形態を必然的に展開すること、貨幣形態が商品の価値表現の関係から生成してきて、貨幣の運動が商品流通を形成し、資本形式がそこから発生し云々という発生論を想起させる体系記述方だと思えばよくわかるのではないだろうか。引用文中強調箇所の「発展形態の内的紐帯」、「先験的な[a priori]構成」という表現は、実に見事に構造的な種差性を描写した、味わい深いパッセージではないか。
合理的な核心というのは、こうした弁証法的方法そのものの純粋な発露をさしているのであって、いわゆる合理主義的な方法論やあるいは実証的な自然科学方法論とは一線を画しているのである。人々は合理的という言表から、単純素朴にこうした想定をしてしまいがちで、そこに物質が一次的実体としておかれれば、直ちに、弁証法的方法とは、対極にある物理学的世界観に染め上げられてしまうのである。ここで物理学的世界観をそのものとして否定するのはおかしなことになるのだが、そういうことではなく、資本主義的生産という人間社会の特殊的な歴史段階を理論的に把握するうえで、どのような弁証法が適用されているのか、あるいはその特殊性からいかなる弁証法が導かれ、かつそれ自身の先に見たような、有機体の生成転化法則が叙述されうるのか、それを問わなくてはならないのではないか。
では、思考過程に対して単純に自然科学的ではない、社会的物質的過程が対象としておかれていたのかどうか、それを資本論の叙述にそくして検出してみよう。そこでの過程の主体は物質としての物質だろうか、それを検証してみたいところである。
だがその前に、大体にして、物質的な過程の頭脳への反映とは、どのようにして可能なのだろうか。確かに物質というか客観的外界は、人間の頭脳に対して独立の存在であるのは、第一義的には認められるとしても、それを頭脳に反映するとは??頭脳が鏡のように外界に対して置かれているならば、文字通り鏡的な像として頭脳に反映するのだが、それは馬鹿馬鹿しいかぎりの、虚構でしかない。この命題自体が問題含みであることを、人はこれまで認識してきただろうか。資本論にそのような「方法」が本当に示されているのだろうか?いかにも、「物質過程の頭脳への反映」というと、かく乱要因のない純粋の客観的認識のように聞こえるが、そんなことが果たして可能なのだろうか。こういうあやしげな認識論を語ってしまうから、それを真に受けた粗忽ものどもが、とんでもない方向へ突き進んで、人々を迷妄のわなに引き入れることになる。資本論で実際に使われている論理を追跡しないで、形だけ受け取って、一心不乱に奇妙奇天烈な哲学モドキを作り上げる、この滑稽さをよく噛み締めるべきだろう。それをさらに救いがたく仕上げたのが、レーニン「哲学ノート」であり、それを真に受けた、ゴリ・スタ主義者どもによるヘーゲル論理学と「資本論」の対比という絶望的な試みなのである。
初版序文を見よ。商品形態という、経済的細胞形態の分析には、顕微鏡の代りに「抽象力」を用いるというのだが、それは、実際上はマルクスの頭脳のなかでの過程でしかあるまい。それで物質的過程の反映とどうしていえるのか、実に不可解ではある。3)
実際のところ、冒頭で商品の使用価値を異質化要因として、捨象したうえで、同質性を労働生産物とそれを生産する労働一般を導出して、それを価値実体とする領域では、マルクス自身の分析思考過程が記述されているに過ぎない。それを受けて、価値実体が人間労働という社会的実体であるので、商品の社会的関係に、現象形態を必然的に求められる、としてここでは実体-現象形態という論理がもちいられているのだが、これが一種のヘーゲル的な弁証法的論理と言えばそうなのだろう。
嫌味を言い立てるのをこの辺でいったん控えるならば、資本論の文脈に則してみるならば、明らかに単なる物質過程を思考過程に反映しているのではなく、そこでの客観的過程の主体は、価値実体の抽出そのものはマルクスの頭の中の過程でしかないが、いったん人間労働としての価値実体が抽出されて以降の論理的展開は、かかる人間労働という「純粋に社会的な実体」が主体の位置にすえられていると見るべきではないだろうか。ただ、いかんせん、商品の交換関係だけから導かれる「社会」なる代物は、単純商品生産者からなる仮想的社会以上のものではなく、歴史的な伝統的な共同体の周辺に、補完的な位置を占めたに過ぎない生産であって、それをもって、「社会的な実体」の根拠とするには機械的抽象のそしりをまぬかれない。資本論冒頭でもって「社会的実体」を論じることの限界は、宇野弘蔵の指摘が完全に妥当するだろう。それを、一応脇におけば、マルクスの言っている物質的過程とは、少なくとも商品論での論脈にそくして取り出してみるならば、物理学の対象となるような、物質としての物質とは一線を画した、社会的実体をなす人間労働であること、このことを確認しておくべきだろう。最初にあげた、「経済学批判」序説、経済学の方法からの引用でも、「主体」=「社会」がいつも前提として表彰に浮かべられていなければならないとしていることからも、それは補強されるのではないだろうか。
この観点からすれば、レーニンをはじめとする公式ロシアマルクス主義とは、物理主義的「唯物論」であり、しかもそれゆえそこでの弁証法的法則とはニュートン力学的物理法則に歴史主義を押し着せたものになっていることが、照明されてくる。さらにそれを批判的に超克したとされる、「主体的」唯物論とは、物質それ自体が弁証法的主体であり、それの運動が逆に自然法則や歴史社会的法則を、展開するのだという形の上では、確かに完全に「頭で立っている」のを「ひっくり返した」構図にはなっているが、これもまたマルクスが資本論で示した弁証法とは、縁もゆかりもないものであることは言うまでもないだろう。
ついでながら、廣松物象化論とは、宇野の指摘する機械的抽象に過ぎない商品論での「社会的実体」に無反省に依拠したものであり、そのかぎりではマルクスの方法の理解としては基本的には妥当ではあるにしても、致命的な欠陥をまぬかれていないし、廣松自身の唱えるところの、「実体論の超克」には内実として遠く及ばない地点で終わっているとして批判し去るのが、適切この上ない処置ではあるまいか。
マルクスによる、ヘーゲル弁証法の転倒とは、大体上述の通りではあり、思考にたいして物質というような「無概念」な代物でないことは、明らかにはなったと思うが、依然として「社会的実体」が「現象」するなどという、カルト的な世界観のもとにあることも、また明るみに晒されたのではないだろうか。
以上
1)K.マルクス「経済学批判」岩波文庫 P311-314
2)K..マルクス「資本論」国民文庫①第二版後記 P36-41
3) 同上 P21-23
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study734:160428〕