異論なマルクス 世界資本主義論への基礎視角 岩田弘遺稿集(五味久壽編、批評社)刊行に寄せて

私は世界資本主義論的アプローチに対しては基本的に断固たる支持者だが、世界資本主義論を岩田から直接にせよ間接にせよ学んだといえるかどうかわからない、というのも私は鈴木鴻一郎編『経済学原理論』から原理論について考えを巡らすようになったからなのだ。それにしても世界資本主義論の説くところの資本主義の世界性、部分性、分裂性については深く示唆・触発されるものがあったのは確かで、学生時代以来40年余孤立した地点で妄念めいた思考をこねくり回してきた。以下はそこからの提起である。

資本主義と情報処理

資本主義を構成する基本関係である商品流通は商品・貨幣・資本という流通形態からなる一種の構造体であり、それは共同体社会の外部、それらが外的に出会う空間を生息圏として発達してきたのだが、単に共同体という自足的な人間の物質代謝にたいしての外部的な関係にとどまらず、その内部にも物質代謝を媒介する情報回路にその伝達を促進・拡張する機能を発揮することで浸透していく。これはいわゆる商人資本形式G-W-G’において安く買って高く売ることで差額を利得するだけでなく、ある商品の使用価値を使用価値として知らしめ狭義の生産過程そのものでは果たしえなかったそれに対する需要を積極的に形成する行為によってまた高く売ることが可能となりそこで利得するという形によって一見同一の共同体内の売買関係でありながら、流通を通じて利得する形式でもあり得るということ、そのことなのである。つまりこのことは原初的に資本関係とは情報的な処理、もう一歩踏み込んでいってみれば情報的な生産をその流通運動そのものに包含しているともいえるのであって、何も改めてコンピューター情報革命で情報がクローズアップされるということではないだろう。確かにそれを通じて情報処理の速度や広がりが飛躍的に向上したことは認められるにしても、情報そのものがそれまでの資本主義の中で扱われてこなかったなどということではまったくなく、むしろ資本関係の原初的な場面が情報的生産そのものの原場面であったのであり、情報革命と名指されている事態についてもう少し角度を変えて評価すべきであろう。

いったいではそれは何なのか。気を利かせてパーソナルレベルでの情報のデジタル処理なのだという風に振りなおしてみたところで、汎用機はすでに数十年も前から実用に供されている上にそれですらデジタル処理なのだから、そんな程度のいい繕いではまるでなっていないので、どうしたらよいのか戸惑うことになる。では分散やら並列やらネットワークやらバズワードを並べ立てたところでなんになるというのか、それですら汎用機のタイムシェアリングで技術的には実現可能なので、単に端末にも処理機能を持たせたのはそのほうが集中処理よりも効率的だからに過ぎない。岩田の説くところのように、サーバークライアントになってユーザー相互の主体的でコンカレントな作業が可能になったかのように賞賛するのは贔屓の引き倒しであって、何を持って主体的といえるのか理論的な規定など何もできない。現にそこには単に言葉が空虚に踊っているだけで、ディスプレーに向かって進められる作業がどうして目的意識的で主体的な労働行為と決め付けることが出来るのかそれがまったく掴みどころがなく、当惑するほかない。いったい汎用機中心システムとサーバークライアントとの決定的な違いは何なのか、後者なら人間主体で目的意識的な本来的な知的情報的な労働が共同作業としてはじめて可能になるというならそれはまったくの思い違いだろう。汎用機のシステムというのは基幹システムという別の呼称からも明らかなように、絶対に破壊されたりダウンしてはならない企業経営の根幹情報処理機構であって、ユーザーが恣意的に動作内容を変更したり、ユーザーの個別的使用目的に合わせてカスタマイズが出来ない、そのような不確定要因を完全に排除したところで稼動させるシステムなのであって、プログラムの変更やデータの不定形な処理というのはまったくユーザーには許可されていない。それこそが基幹システムの役割なのであって、それに対してパーソナルコンピューティングという領域ではアプリケーションソフトウェアの上ではユーザーは自由にそれを用いて作業が出来るのだが、そこで投入されるデータはユーザー自身が収集したものでもよいし基幹システムのデータをある一定の手続きでパーソナル領域にダウンロードして二次加工することもありえるが、それを基幹システムにアップロードすることは通常許可されていない。つまりそこには基幹システムとユーザーシステムとの棲み分けがあるのであって、何も基幹システムがオールド産業、重厚長大産業のアーキテクチャでクライアントサーバーがシリコンバレー企業型だということがありえないのであって、シリコンバレーのヴェンチャーだからといって基幹システムを導入していないのかというと絶対にそういうことではない。ハードウェア的にはサーバークライアントであっても、ユーザーのいじれない領域は厳然として設けられている、それはたとえば給与計算であったり、在庫、販売データなどの第一次的データの処理領域であって、それに対する二次三次的な加工をユーザーレベルで行うことはいくらでも許されているのである。要は汎用機中心の基幹システムと一見個々のユーザーが自由に操ることの出来るサーバー・クライアントシステムとはそれぞれの相異なる目的と役割が当てられて企業内での情報処理を階層的に実行している、というのが現実であることを銘記すべきだろう。

もし岩田の主張するようにクライアント・サーバーシステムが生命体の情報処理に近づいているから、古典力学・機械力学的な産業革命に対して新たな段階を画する新産業革命が起きつつあるのだというなら、生命体の自立的活動は常に生命界を有機的に自己組織化するだけでなく、それこそ突然変異的に生成してくるウィルスによるパンデミックではないが、時として他の生命体を侵食したり攻撃破壊したりするのだから、そういう脅威についても目配りを欠いてはならなかったのではないか。この点では岩田はある種の生産力史観に陥っている。コンピュータシステムの制御不能な暴走の危険は多くの論者によって指摘されており、そこまで大規模でなくてもデジタル・デバイドという一種の格差を生み出す原因ともなっている。この点われわれは楽観的ではいられないのではないのか。

資本主義の多様性

原理論では資本主義は労働生産過程の一部、さまざまな生産部門の一部を捉えて成立するとされているが、それは大工業でありしかも景気循環論での固定資本の更新の様態までを考慮するとそれは綿工業に代表されるような、固定資本規模の比較的小さく個別資本的蓄積の範囲で廃棄更新できるものとされているが、しかし流通形態に出自を持ちG-W-G’という商人資本形式、安く買って高く売ることで利得を得る形式、を一般的定式としている限り、労働力商品化を介するにしても依然として、商品世界の価格関係を外的に前提し、生産過程に投入する労働力という主体的要素をも含めた生産手段の総額と、生産された商品の市場での販売価格の総額との差額を利得する形式であることに商人資本形式と本質的な差異は存在しない。であるとするならば商品世界のそのものの本来的な分裂性とあわせてみるならば、必ずしも資本主義的生産の成立は綿工業のごとき軽工業に限定されることなく、固定資本の規模や投下される生産部門も商品世界の地方的圏域でそれぞれ個性的に異なってくると考えてよいのではないだろうか。すなわち固定資本の更新の形もそれに伴い個別資本的に廃棄更新されたり、あるいは個別資本の蓄積を超えてある程度の社会的な資金を動員、その様式にも株式市場を介して行われたり、株式を発行しながらも限定された参加者の間での共同出資の範囲を超えないものあり、様々でありうる。もちろん産業部面自体の使用価値的な相違も生じてこよう。これはたとえば耐久消費財のような場合、いったん購入されてしまうと長期にわたって保有され、新たな購入に向かいがたいような使用価値に対しても生産的に資本が投下されてくることも想定され、そのことによって景気循環に著しい変容がもたらされても来よう。

要は商人資本形式の個別分裂性を見逃さないならば、その発展形式として産業資本形式を導出する限り、そこからは様々な異質性多様性が派生してくると展開できるのではないか。産業資本形式は商人資本形式の商品流通界に対する外面性を止揚して、商品流通界全体そのものを内的に産出する形式にはついに到達し得ない。簡単に言えば儲かるかどうかを判定基準にして産業資本にある部分は転化するがそうなくあくまで流通部面の活動にとどまる部分も残される。岩田は産業資本形式の必然性、資本による生産過程の包摂の必然性を、流通形態にとどまる資本である限り商品流通界の価格関係の差異を外的に前提し従ってその差異を外的に利得する形式である限り利潤率の不均等が解消されえず、そうした事態が前貸し資本の大きさと期間に比例して利潤が生じるという資本の理念を実現できていないことを暴露しているから、そうした制限を商品世界の全体を自己の内的な産出とししたがってそこにおける価格関係も内的に決定しうる形式、すなわち労働力商品による流通形態的な生産過程の全面的包摂が要請されるのだとしているのだが、しかしどこまで言っても個別的な流通形式に過ぎない資本形式がいったいどうやってそうした商品世界の全体を産出する全的統体へと転化する契機を自己の個別的な流通運動の過程で見出しえるのか、そこが大いなる疑問とされよう。岩田は商品流通界が生産基軸を求める内的な必然性がたまたまイギリスにおいて実現されたのだと主張するだが、それではイギリス以外での資本主義的生産の発生・成長は必然的でもなんでもなかったのか。もともと個別的流通形式にしか過ぎない資本が生産過程をその流通形式のうちに包含するかどうかはあくまでもその個別的な動機によるものでしかないし、そこへの客観的条件が商品世界のどこにおいても等しく賦存しているのでもなく、このことはなにも労働力商品を見出しうるかどうかということに限ったことではない。こうした分散性は国民国家単位で見出しうるものとも限らず、商品世界の根源的分裂性、不均等性に淵源しているのであってそうであるならば、商品世界のいたるところで個別的にその客観的条件に制約を受けつつさまざまな固定資本規模、生産手段の使用価値的特異性、労働力商品の地域的特性など備えた様々な産業企業が派生してくると見るべきではあろう。岩田はもちろん一方では、資本主義的生産の部分性ということを強調するのだが、異質性多様性についてはほとんど言及されることなく、中心国と周辺国で原理的にはまったく同質に扱えるとする一種の純粋化論を説くに止まっている。

確かに19世紀中葉の世界資本主義体制はイギリスを産業的・金融的中心としそれ以外の国民国家はその周辺に半資本主義的、商品経済的に配置される、岩田好みのネットワークトポロジーに比喩を求めればスタートポロジーを形作っていたといえるかもしれないが、それもドイツ.アメリカという後進資本主義国が製鉄鉄道業中心に発展してくることで次第に変質して行くこととなる。それは岩田の理論的枠組みでは世界的に展開する資本主義的システムの本来的な有様からは著しく偏倚したものとして見られてしまうことになる。実際イギリスを中心として周期的な景気循環を繰り返し自己を再生産している自由主義段階のみが安定的な原理的に捉えられる資本主義の段階として、以降についての原理的把握を放棄されてしまった。

岩田経済学原理論はいまだイギリス中心の一国主義的枠組みにとらわれており、宇野原理論の枠組みを超えたとはいえないところで立ち止まってしまった。あくまで19世紀中葉のイギリス資本主義の内的把握以上のものではない。後進資本主義国であるドイツやアメリカについて積極的に規定できるまで突き進むことが出来るかどうかは俄かには判定しがたいが、しかしイギリス資本主義以外の資本主義の可能性を原理的に説き得ない形になってしまっているのは、資本主義の世界性をそのものとして取り出そうという趣旨からは著しく逸脱しているといわざるを得ない。

さらに、岩田は農業が人間生活にとって根源的な基礎生産部面であり資本にとっては農業という自然条件に決定的に依存している生産部門には参入しがたいことを持って資本主義の部分性が人間生活と基本的な領域で重合しあわないとしてその限界性としているが、これも単に技術的・生産力的な限界を指摘しているに過ぎないこともここで言っておかなければならないだろう。ここには二つの問題点を指摘することが出来る。農業が人間生存にとって基礎的であると岩田が見なしているがまず一つ。農業にまったく依拠しないコミュニティーが地上にはいくらでもあるのであった。モンゴル平原の遊牧民や、北極圏で生活を営むイヌイットなどが代表例だろう。一帯に岩田は一種の農本主義あるいは重農主義に陥っているのであって、農業を営むためだけにすら様々な工業部門が連関しているのを指摘するまでもないだろう。それらの関連部門なしには農業生産そのものも維持できないのであって、そうしてみた時にいったいどの生産部門が基礎的なのか、論者の主観的な価値判断でいくらでも変わってしまうのではないだろうか。工業部門との投入産出関係を経済表によりつつ明らかにしたケネーが依然として農業だけが生産的部門とした誤りを繰り返しているのではないか。もう一つ農業部門への参入の困難性を極めて重く見て、資本にとって打ち破りがたい外部性として固定的に規定してしまっている点。それはあくまでも相対的なものでしかないのである。今日では未だ部分的とはいえ、LEDなどの人工照明を用いて天候などの自然要因の影響を排除する栽培方法が浸透しつつあり、農業の企業経営化はもう目前に来ているのである。ましてや農業共同体=コンミューンが資本主義の分解作用に対して反乱するところにコンミューンによる革命の原点を見出そうという岩田の主張は、空間的にも時間的にも説得的な革命論として広範な支持を得られるものなのか、大いに疑問とせざるを得ない。

いささか否定的なトーンが支配的な妄想的走り書きは大体これくらいにしておきたいが、いずれにしてもここで述べた諸点については是非この遺稿集を手にされてそれぞれに論点を確認しつつ考えを巡らせて頂ければ、私としても大いに幸いであるし、出来うれば先行著作である「世界資本主義Ⅰ」にもお目通しいただければなお一層、中国革命=農民コンミューン革命論や上で述べた生命体生産力による新産業革命論、そこからするサブプライム恐慌の独特の把握など、岩田の晩年期における思索の歩みの全体像が見えやすくなるものと思われる。

最後にもう一つ申し添えたいのは、当遺稿集には岩田と40年以上の時間を学問上の後輩として、立正大学での同僚として、そうしてある時からは同じ団地に住むお隣さん同士として過ごされた編者である五味氏の手になる回想録が収められているが、ある意味この部分がリアル岩田を垣間見ることの出来る本書の白眉なのかもしれない、ということである。五味氏の筆致は充分抑制を効かせながらも愛惜のこもったもので、岩田の階級闘争革命論からコンミューン革命論への転進など貴重な証言だろう。私としてはもう一歩踏み込んで、その抑制を取っ払ったところでの岩田論を酒宴の席にでも聞かせていただくのを今後の楽しみとしてとっておきたいところではある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study695:160115〕