筆者は折に触れて、いかに資本論体系が形而上学的思考法に貫かれているかを訴求しているのだが、いかんせん批判対象がこうした形而上学=神学的体系である限りなかなか信者諸氏には受け入れられてもらえぬ残念な状況が続いている。
が、こうした知性のみで捉えられた真実在の世界=形而上界を疑わぬ精神の持ち主がまかり間違って政治権力を奪取した暁には、必ず人間の自由な思考を圧殺する、人間性否定の極みのような社会が現出するのは、悲しいかな酷薄な歴史の教えるところである。よって筆者としても、資本論についてのかなり手厳しい評価とその訴求の努力を細々とでも続けざるを得ないという次第ではある。
以下、とりわけその価値実体論にはこうした形而上学的思考が極端に現れているから、資本論への「内在」(藁を指向しつつ、出来る限りテクストにそって表題の意図するところを明らかにしていきたい。
1.冒頭商品の性格
周知のように資本論の冒頭は商品の考察を持って開始される。
資本主義的生産様式(1)の支配的である社会の富は、「膨大な商品集積」として現れ、個々の商品はその「原基形態(elemental form)」として現れる。したがってわれわれの研究は商品の分析をもって開始される。
(1) 経済学批判では「ブルジョア社会」となっていて、資本論に至る研究の深化により、より歴史的に正確で絞り込んだ規定になっているのは注目される。
この冒頭の文章を読む限りは、端緒商品はどう見ても資本主義的商品にしか読めないのだが、後段の価値実体論にはいると、「独立した私的分業の生産物」が交換によって商品になる云々と言う文言も出て来て、よく知られた論争が惹起された。
この論争もつまらぬことこの上ないわけで、資本主義的生産過程が開示される前に、単なる等号で結合される商品交換関係から、価値実体を商品を生産した人間労働に還元しようとするから、冒頭文言にもかかわらず自立性という意味での歴史的実在性を欠いた私的分業による商品というような解釈が出てくるのはある意味避けられないし、
マルクス自身も第3巻で生産価格の成立にともなって等労働交換が修正される段階において冒頭商品の歴史的性格を資本主義的生産関係に先行する段階とされる私的分業生産によるものと規定し直していることから、この解釈が一定の力を持ってきているのも確かなところではある。
要は、マルクス自身の方法的混乱に起因した解釈論争に過ぎないのだが、グル=マルクスにそんな混乱はあり得ないという信者間ならではの内ゲバの域を出ていないのであって、そんな不毛な会話に付き合う必要はもちろんない。
資本主義的生産様式を分析しようというのに、その生産様式が全く開示されようもない冒頭領域で生産によって価値実体を説こうというのだから、資本主義の具体的な個別資本間の利潤率をめぐる競争関係によってそれが修正されてしまうのも論理的な帰結ではある。先に見たようないわゆる歴史論理説的な解釈では先行する私的分業社会の自立性が疑問であり、そうした自立性を欠いた疑似社会において労働によって価値規定を充当しようとするのは、その必然的な貫徹を証明できない欠陥を伴ってしまうのである。すなわち価値規定の前提をなす社会的労働配分の均衡編成を、自立性を欠いた私的分業体制では果しえないからなのである。
2.富と経済的細胞形態 につづく
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study662:151012〕