異論なマルクス 搾取理論は格差・貧困問題を解明できるか?

マルクス経済学サイドからのピケティ批判

ピケティ『21世紀の資本』の刊行を契機に同書の所論の批判検討の作業も行われつつあって。3月16日には国学院大学で宇野理論を継承する研究者による報告会も持たれた。これはちきゅう座でも開催案内が出ていた。

 

筆者はマルクス経済学サイドがその剰余価値論や搾取理論に基づいてどのように格差や貧困の問題にアプローチするのかについて兼ねてから非常な興味を抱いていたから、その点この報告会でどのように言及されるのかという点を念頭に参加した。

 

基調報告をした伊藤誠*とコメンテーター全員から、ないものねだりではあるがピケティの議論には剰余価値論が欠落しており、これはピケティがマルクス経済学に依拠しないと宣言しているから当たり前で彼は現代主流派経済学者なのだ、したがって格差拡大が労働者の搾取強化と裏腹の関係、富裕層に集中する富の源泉が搾取にあり労働者の貧困と表裏一体にあることが明らかにされない、と一様に剰余価値論の有効性とピケティの限界を指摘していた。つまりピケティの言う資本から得られる諸収入(株式配当、利子、地代etc)は労働者の搾取から得られる剰余価値を唯一の源泉とした物神化諸形態であることが根本的に見逃されていると、批判しているのである。その上で労働者からの搾取の強化とその成果がこうした物神化諸形態の量的拡大につながっているのだと。

 

*ちきゅう座 スタディルームにレジュメ掲載されている。

伊藤誠 「21世紀の資本」論~格差拡大の政治経済学~(報告要旨)

 

格差・貧困の問題こそマルクス経済学の本領が発揮されるフィールドであり、その分析の基本ツールこそ剰余価値説に基づく搾取理論であると強調しているのである。

 

こうした宇野派陣営からの剰余価値論に基づくピケティへの批評はある意味マルクス経済学内部の学派の対立を超えた標準的な視角からのものと言ってよいが、筆者自身も宇野理論の枠組みで孤立した地点ではあるが長く思考を進めて来て、結局そこからは距離を置くこととなった契機が、労働価値説の決定的な欠陥及び価値形態論=貨幣論の矛盾であったこともあり、マルクス経済学からのこうした搾取論に基づくアプローチには大いなる疑問を呈さざるを得ない。

 

異種労働の存在という難問

元々宇野弘蔵は冒頭商品論での労働実体への還元を拒否しそれを資本の労働生産過程で行うべきことを始めて唱導したのだが、その論脈をすべてたどって労働価値説~剰余価値論の構成を明らかにして論を進めるのは、この種の議論になじみのない読者には迂遠なだけであるので、以下は極めて簡単なケースを取り上げそれに基づいて搾取理論の根本欠陥を示しておきたい。

 

一昔前、一時小麦と鉄の経済学というのが流行ったが、ここではもっと簡単にコメの経済学としようか。

 

ここに、米を生産する農業資本があって、米の栽培に従事する農業労働者が10名、1人当たりの年間賃金がコメ50Kg、年初に100Kgの籾が撒かれて秋には1100Kgのコメが収穫されるとしよう**。この時1,100Kgの収穫からまず最初の籾の100Kgが翌年の生産のための原資として控除して、残りの1000Kgが分配のファンドとなる。で農業労働者に一人当たり50Kgが賃金として支払われ都合500Kgが農業労働者階級に賃金が引き渡され、これを消費して翌年一年間生活を営むことになる。残った500Kgが資本家の収得するところとなるが、これがマルクス経済学では搾取であるというのである。これを労働時間で表現すると、年初にあった100Kgの籾を控除した1000Kgが1年間の生きた労働の生産物であるから、これの価値実体は1年間の労働時間になるので、年初の100Kgは遡及的に10分の1年間分の労働時間が対象化されている。またそれぞれ500Kgずつの賃金と資本家の収入は2分の1年間の労働時間が対象化されていることになり、剰余価値率=搾取率は資本化の収入÷賃金だからちょうど100%ということになるのだろう。

 

**この一見無から有が生じるような説明はここでの発明品ではなく数理マルクス経済学の中では広く採用されたモデルに汎通的だが、極めてカルト的なものであることすら気付かれてきていない。ここには自然に対する「搾取」という視点が全く欠けているのだ。

 

この単純極まりない経済では労働者と資本家の関係は手に取るように明快ではあるが、ここに直接農耕労働に従事しないで、耕作方法や肥料、耕地改良、品種改良に従事する1人の間接労働者が実はいたとしよう。これを便宜的にここでは農業技術者としておこう。実はこの技術者がいて上に描いたような農業経営の現実が成り立っているのである。この技術者の労働は言ってみれば知識労働で、直接の農業労働とは異質で転換不可能であるとしよう。しかもこの技術者は1年間ずっと技術者としての活動に拘束されているのではなく、どうみても3カ月位なもので、あとは釣りをしたり山登りをしたり遊んで暮らしているようにも見える。

ではこの技術者の労働時間をどう算定すべきなのか、そうしてこの人物が名目上一年分の賃金として、実は100Kg得ていて資本家の取り分は400Kgであったとき、この技術者は直接労働者を搾取しているのかどうか、これにマルクス経済学は答えることが出来るのだろうか。搾取しているのだという答えは、単に直接労働者の労働だけが価値を生むのだという証明なき命題を無前提においているだけなのである。この場合は再び経済は単純極まりない姿に見え、技術者は100Kg=10分の1年間分の直接労働者の生きた労働を搾取しているということが言えるが、本当にそんなことでよいのだろうか。この技術者の研究活動がなければ直接的な労働生産過程が存立しないのだから、それを搾取であるといって済ませることが出来るのだろうか。マルクス経済学はこれに対するストレートな答えを持ち合わせず、いわく中間階級であるとか、段階論・現状分析的に考究すべきであるとか言を左右してこの問題から逃避しているのである。

こうも言えるのである、つまり直接的労働をなす労働者の生きた労働でなく、研究活動を行う技術者の生きた労働だけが価値を創出すると「定義」すれば、研究技術者1人の1年間の労働によって、1000Kgのコメが新たに算出され、この研究労働者に10分の1年分の自らの労働時間の体化された年間賃金100Kgが引き渡され、残り900Kgのうち10人の農業労働者が2分の1年間の研究労働者の労働時間の体化された計500Kg を搾取し、残り10分の4年の研究労働時間の体化された400Kgを資本家が「搾取」すると言い換えることも可能なのである。この時は研究労働者だけが搾取され、農業労働者と資本家は搾取する側にあることになるわけである。

 

要は社会のどの部分かの構成員である特定の「労働者」が価値を生み搾取されるのかというのは純粋に定義の問題であって、資本家の労働をそのような位置におけば資本家が被搾取階級という言い方も許されるのである。

 

もちろん、資本論でも経済原論でも何でもよいがどこかで直接労働者だけが価値を生み出し搾取されるのだということが証明されていればめでたしめでたしであるが、残念ながらそのような記述に管見の限りではお目に掛かった試しがない。資本の生産過程で協業・分業・機械制大工業と生産方法の高度化に従って抽象的人間労働の単純労働への具体化が描写されているのだが、では資本のもとに包摂された労働がそのような機械制大工業によるものだけであるとは到底言えないし、今日的な様相はさらにそこからかい離しているのではないか。サービス労働、情報労働、販売労働、商業労働、設計労働、研究開発労働などなど労働形態の分化は著しく、19世紀中葉的な産業資本における機械の体系に従属した労働形態とは明らかに様相が異なっているし、それらの間で流動的に労働人口の移動が機能しているとも言い切れない。それなりに専門性も高く容易にそのための知識や実行能力が獲得できるものではなくなっているからだ。マルクス経済学の労働価値説そのものが、すべての労働が人間労働として同一であるという、証明なき仮説の上に主張されていることは、誰もが知っているところであるが、異種労働の普遍化という現実を前にして一体それにどれだけの有効性を期待することが出来るというのか。

 

取り分けてイノベーションによる新事業分野創出とそこからの先行利得が特質となっている現代資本主義経済の分析において、このイノベーションの核をなす研究開発活動についての価値創造性を扱う理論的枠組みを欠いていては、致命的ともいえる欠陥に付きまとわれているといわざるを得ないだろう。ピケティは余りそのことを強調していないが、こうしたイノベーション企業の経営者の収得する労働所得が極めて膨大なものになっている今日においてはなおさらそうであると審判を下されても致し方なしではないか。

単に直接労働者の生きた労働だけが価値とそこからの賃金部分を控除した剰余価値を生み出し、それ以外の資本家含めた非労働者は搾取をしているだけだなどという平板かつイデオロギー的な説明に終始していては現代資本主義の活力とその反面としての労働所得の格差拡大という二面の統一的把握に後れをとることになるだろう。

 

 

搾取理論を認めたとしても、

マルクス経済学サイドからは、労働者の搾取強化による貧困化によって上位富裕者がその部分を取得して一層の富裕化が進む、すなわち貧困化と格差拡大は一体の事象であるが、搾取論を欠いたピケティはそのような把握が不可能となっていると批判が提示されているが、そのような主張をする前に、自らの理論を実証してから掛かるべきではないか。つまり、どの部分の労働者をとるのかというのも実のところ極めて困難ではあるが、仮にそれが出来たとして、労働者の貧困化、これもどのような指標に基づいてなのかという深刻な問題が胚胎しているが、それの定量的な測定を対象となる労働者全体にわたって行い、その総量と、富裕層、これも同様な問題が付いて回るが、の富裕化の総量との比較がなされて初めて経験科学としての実証云々が言えるのであって、それ抜きにただ「原理的」な批判を浴びせるだけでは、説得力に欠けること夥しいだろう。

しかも、いわゆる再生産費説によって労働力を維持するに足る生活資料を「買い戻す」賃金を労働者は与えられなければならないというのが、マルクス経済学の賃金規定なのだから、なぜ搾取の強化によって貧困化が生じるのか、そのことと賃金論との懸隔についても落とし前をまずつけるというのが筋ではないか。再生産費自体が柔軟性をもっていて云々という弁護論が必ず反論として出されるのも承知はしているが、それでは結局賃金は需給関係や労使の力関係で決まるのだと言っているに等しいし、そもそも失業者は失業保険による以外の収入はゼロなのだから、再生産費説は失業の説明にも失敗している。これも家族共同体に養われるのだとか、原理的にはなんとも規定しがたい内容に後退することになっているし、そのような説明は、資本は相対的過剰人口そのものを常に再生産しているのだという極めて予定調和説的な傾きに行き着いてしまうのではないか。

 

何が起きているのか

要は第二次世界大戦後の主要資本主義国の高度成長を支えた巨大独占体の高蓄積とその元の労働組合の交渉力をつうじての高賃金水準の確保という、フォーディズム的な構図が決定的な転換点を迎え、それらの停滞と雇用創出効果の極めて乏しいIT、ファイナンスなどの新興「産業」の著しい台頭による産業構造の大変動に伴って、格差の拡大は例えばデジタルデバイドというような労働者間の差別化も生みながら進展しているのではないか。だからそのような産業構造の大変動がまだそれほど進んでいない日本と、それについてかなり徹底的に現実化したアメリカとで格差拡大について著しい対極が生じることとなっている。

ピケティにはそのような視点が余りはっきりしておらず、平板極まりないr>gでの説明でお茶を濁している面が極めて強いから、第二次世界大戦を経過しての格差のいったん縮小とそれの70年代までに至る持続、そのごの各国間での差異の発生と言った一連の長期的な動態を一貫した論理で説得的に分析することに失敗しているのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

〔study639:150429]