異論なマルクス 資本論はかく語りき

内田さんから私の価値形態論の対称的構造に関する一文に寄せて、新たな論考が投稿されているが、内田さんがご持論を縷々説けば説くほど、私の疑問と戸惑いは深まるばかりでそれはどうやらもちろん私の能力の乏しさが第一の原因ではあるのだが、もう一つ資本論の第一次的な理解に越えがたいとも思える懸隔が両者の間にあることではないかと思い至るようになった。以下私の論調の原点である価値形態論の対称的構成に関する地点に焦点を絞ってそのことを示してみたい。内田さんの論考は価値形態論にとどまることなく見た通り第3巻競争論領域にまでわたる内容となっているが、その辺含めては近々お顔合わせする機会もあると思われるので、その際に背景のニュアンス含めてご教示願えればと望んでいる。当拙文がその際のとっかかりになれば幸いである。

 

廣松さんの「対称性」理解を批判した部分は目を通しておりますが、廣松さんの場合は周知の通りご自身の「四肢構造」を単純な価値形態から読み込もうとされている。したがって例えば相対的価値形態にある商品所有者も等価形態の商品所有者の観点にたつことが出来かつ、同一の価値方程式にお互いの商品が置かれていることを認識する、という意味での対称性を言わんとしていたのではないですか。であればその「対称性」とは相対的価値形態と等価形態を入れ替えて成り立つということではなく、「入れ替えるまでもなく対称」であるという意味でしょう。資本論の所論とはいささか異なっている。それを内田さんが批判して「asymmetrical」であると言われても、内田さんご自身の独自の見解であるのか、資本論そのものの叙述なのか判然としなかった。しかし今回の投稿を拝読すると資本論そのものが「非可逆性」を宣言しているとされている。しかしそうであるならいよいよもって内田さんと私とでは全く異なる見解にある。

非可逆性の言明??

次の引用は、その資本論の単純な価値形態からのものですが。「非可逆性」を言明しているのでしょうか?私には一つの商品は同時に相対的価値形態と等価形態の位置を占めることは出来ないが、それを入れ替えれば逆の関係成り立つと言っているようにしか読めません。

(引用)

むろん、リンネル20エレ=上衣1着、または20エレのリンネルは一着の上衣に値するという表現は、上衣1着=リンネル20エレまたは一着の上衣は20エレのリンネルに値するという逆関係をも含んではいる。しかしながら、上衣も価値を相対的に表現するためには、方程式を逆にしなければならぬ。そして私がこれを逆にしてしまうやいなや、リンネルは上衣のかわりに等価となる。

(引用終わり)

内田さんはマルクスは第2形態から第3形態の移行において、「前言を翻して」とされているが上の引用箇所からすれば「前言を翻して」は全くおらず単純な価値形態で示した逆転関係をそのまま維持しているのではないだろうか。

実際第2形態から第3形態の移行は資本論では

 (引用)

「B 総体的または拡大せる価値形態終端部分より」

かくて、もしわれわれが、リンネル20エレ=上衣1着または=茶10ポンド=またはその他というような序列を逆にするならば、すなわち、われわれが、実際には既に序列の中に含まれていた逆関係を表現するならば、次のようになる。

C 一般的価値形態

・・・・・・

(引用終わり)

となっていわゆる価値方程式の逆転の論理が使われているのではないのか。

私は別に「内在派」ではないが「内在」して読むならばどう読んでも以上のようになる。内田さんは違った論理を説かれている個所を見つけられているのかもしれないが、そうであればそれを示していただけないだろうか。

逆転の論理の無理

仮に逆転の論理が使われているとするならば、一般的価値形態が成立するためには

「n種の拡大された価値形態のうちどれかとは決められないがただ一つの商品の拡大された価値形態が逆転する」

という命題が必然的に成り立たたねばならないが、その証明は資本論では一切与えられていない。拡大された価値形態のそれぞれは他に対して特権的な位置を占めてはおらず、完全に同等であるのだから、1つも逆転しないかもしれないし、2つ逆転するかもしれないし、3つかもしれないし、いっそ全部ひっくり返るかもしれない。である限り第3形態=一般的価値形態への移行は必然的なものとして「理論的」にすら説けないのではないか。資本論では単にただ一つの商品が排他的に一般的等価形態の位置を占めるとだけ何らの論証もなく天下り的に断定され、こうした難問(初版では明示的に扱われたにもかかわらず)に一切言及しないことで回避しているように見える。

私がなぜ価値形態論の解析に拘泥するかということは他の機会にも繰り返し述べているが、すでに現代資本主義は1971年のドルの金兌換停止を持って金本位制を最終的に廃棄し、スミソニアン体制を経過して変動相場制が40年続いているにもかかわらず、価値形態論の説くように商品の価値表現の中から一般的等価形態が発生し、それが金商品に固定するという必然的な過程を経験することがなく過ぎて来ている。これは資本論価値形態論に対する資本主義の現実からの厳粛な反証が下されたと見るべきではないのか、そうであれば資本論価値形態論にどこか欠陥があるのではないのか、その検討作業を通じて現代資本主義分析に有効な貨幣論を模索してみようという目論見からなのである。なにも資本論を否定することを自己目的化しているわけでもないし、近親憎悪イデオロギーからする排撃を目指しているのでもない。一部からはそうした誤解も口にされているようなのでその点だけは改めておくべきと考える。

こうした現代資本主義分析に対する資本論の位置づけについても、内田さんのお考えをぜひともお伺いしたいところでもある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study670:151104〕