中野@貴州でございます。
「疎外はすばらしい」―「なんちゅうヘンテコリンな題名か」と思われた方が多いでしょう。そこでまず弁明を。
1、「疎外」という言葉を使ったのは、ワタクシメが、別にアルチュセール-廣松説に猛烈に反対しているからではありません。早い話がこの言葉が便利だからです。「人が物や組織やルールに支配されている」程度の意味、チャップリンの『モダンタイムス』程度の意味でご解釈願いたいのです。
2、「すばらしい」というのは、日本での話ではございません。某大国の現状についての話なのです。
で、本題。
いま張一兵『フーコーへ帰れ』の『監獄の誕生』解読の部分を翻訳しております。「規律-訓練」(discipline)社会論 の部分ですね。
そこで、こんな張一兵氏の解釈を発見しました。
私は、これは、ちょうどウェーバーやファヨールが、テイラーの流れ作業理論の下で生み出した肯定的な科学的管理の政治学への批判的な翻訳だと感じる。これは、おそらくレーニンがテイラーの作業分節化計算を肯定的に記述した時には、思いつかなかった、情況構築の反転という事件かもしれない(原著370頁。張さんは、レーニンの「ソヴィエト権力の当面の任務」を引用しています)。
フーコーも張さんも、もちろんこの「規律-訓練」社会を批判的に見ている―哲学者にわかる言葉で言えば、そこに「疎外」を見ているということになりましょう。
そして、フーコーは(そして張さんも)、この「疎外」は、直接的な外部的強制の結果ではなく、「自発的に」ルールに従うような「疎外」であり、規律-訓練によって、そう仕向けるのがブルジョア社会の支配のミソだと見ているのです。日本人が「1日お風呂入らないと気分が悪くなる」のと同様な程度にルールを「身体化」させる、「ルールどおりにしないと気分が悪い」というところまでに仕向けるのが支配のミソだというわけですね。
はい。ここから本題の中の本題。
もちろん、ワタクシメも、張さんと同様に、フーコーのこうした分析の鋭さには賛同します。だが、「この疎外を消滅すべきものとして見るべき」というのは、先進国での話。前近代社会から脱け出したばかりの国では、むしろこの「疎外」を積極的に肯定するべきじゃないかと、ワタクシメは思うのです。
ロシアの遅れを痛感していたレーニンは、「ソヴィエト権力の当面の任務」の中で、テイラーシステムは、(ブルジョア階級による)一連のもっとも豊富な成功である」と評価し、ロシアにおいても研究を進めるべしと言っています(大月版『レーニン全集』第27巻)。
テイラーシステムは、まだ労働者を機械扱いにしている発想が残っていますが、現代の人事管理論では、労働者の「主体的な仕事への取組み」という「自発的意識」を引き出すことに重点が置かれています。それは、確かに一種の「疎外」、「当人の気が付かない、いなむしろ積極的に肯定している疎外」でしょう。だが、「遅れた」社会では、この種の「自発的意識」こそが、こうした「疎外」こそが、そして、それを身体化させるための「規律-訓練」こそが必須のものだと、ワタクシメは思うのです。
某大国では、「時間厳守」「納期厳守」「無駄を省く」「お客様の立場を考える」などの「規律-訓練」がまったく不足しています。要するに大学・企業・街の食堂に到るまで「プロ意識」が欠落しているのです。
こうした現状を見るにつけ、ワタクシメは「疎外はすばらしい」と叫びたくなってしまうのです。