白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて(1)~(3)

白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて (1)

 大逆事件/針文字書簡の受取人・杉村楚人冠の足跡を訪ねて
 10月12日(水)、連れ合いといっしょに我孫子市に出かけた。標題に「白樺派文人ゆかりの地」と書いたが、きっかけは大正13(1924)年から亡くなる昭和20(1945)年まで我孫子に在住した杉村楚人冠(本名:広太郎;1872~1945。「縦横」という筆名も使っていた)の足跡を訪ねることだった。では、なぜ楚人冠なのかというと、最近、大逆事件の死刑囚の一人・菅野スガ(須賀子)が獄中から楚人冠に宛てて、幸徳秋水の弁護を求める書簡を送った針文字の書簡が我孫子市の杉村家から発見されたのを知り、楚人冠とはいったいどういう人物だったのか知りたいと思ったからである。
 出かける前に我孫子市の郷土資料を所蔵していると思しきところを調べたら、同市教育委員会文化・スポーツ課が昨年11月に同市にある白樺文学館で大逆事件100年を記念して「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」展を開催していたこと、その時に配布された資料をもとに「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」(我孫子市文化財報告第3集(2011年3月)が刊行されていることがわかった。

 そこで、ひとまず、この資料を手に入れられないかと同市教育委員会文化・スポーツ課に電話をすると、白樺文学館に在庫があるとのこと。すぐに同館に電話して用件を伝え、近くそちらへ出かける予定と告げると、「では、1冊取り置きしておきます」と応答してもらえたのは有難かった。
 というわけで、今月12日に我孫子市にある白樺文学館に出かけることにしたのだが、楚人冠の関係資料が所蔵されている、手賀沼公園のそばにある市民図書館アビスタ本館にも立ち寄ることにした。併せて、下調べのつもりで、同市のホームページを調べてみると、白樺文学館の所在地とあって、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦の邸宅跡のほか、講道館の設立者であり高等師範学校校長といった教育者としての足跡も残した加納治五郎の別荘跡や楚人冠記念公園もあることがわかった。
 あびこ電脳考古博物館:市内の史跡・文化財:作家・文人達の足跡
 http://kouko.bird-mus.abiko.chiba.jp/siseki/bunruifgoto/sakka.html

  天神坂を上って加納治五郎・柳宗悦の邸宅跡へ
 10月12日は晴天に恵まれた10月12日。10時50分ごろ、JR我孫子駅に着く。まずは駅南口を出て左手にあるけやきプラザ1階のインフォメーションセンターに立ち寄り、周辺地図を探す。係員は懇切に当方の用件を聞き取って、たくさんのちらしや地図をもらった。連れ合いはそこに陳列されていた白樺カレーが気に言ったようだったが、帰りにもう一度立ち寄ることにして先を急いだ。駅前ロータリーを抜けて下り坂の公園坂通りを10分ほど歩くと手賀沼公園にぶつかり、そのわきに市民図書館(生涯学習センター・アビスタの1階)があるが、まずは、交差点を左折してすぐのところに点在する白樺派文人らの邸宅跡と白樺文学館に出かけることにした。といっても歩いて5分もしないうちに各邸宅跡を示す案内標識が目に止まった。
  天神坂手前の案内標識

 天神坂と呼ばれる長い石段の坂を上リ切ると(11時25分ごろ)、すぐ右手に加納治五郎(1860~1938)別荘跡があり、道路を隔てた向かい側にあるのが柳宗悦の居宅跡である。加納は明治44(1911)年に我孫子のこの地(緑1丁目)に別荘をもったが、彼が白山1丁目付近(公園坂通りの西側)に所有した後楽農園ではジャムにできる「グズベリー」などさまざまな作物を栽培したという。治五郎の死後、農園は売却され、分譲地となり東京からの移住者が増えて、今日の田園都市的な我孫子市発祥の礎にもなったという。
 ここへ来てわかったことだが、柳宗悦(1889~1961)は加納治五郎の甥で、加納の紹介でこの地に別荘を設けたということだった。柳は東京帝国大学在学中に白樺の同人となり、大正3(1914)年、声楽家・中島兼子と結婚し、兼子の姉・谷口直枝子の別荘地であったこの地に移り住んだというのがいきさつらしい。そして、直枝子がこの地に別荘を購入したのは叔父・加納治五郎が東隣に別荘を設けていたためというから、話はいささか込み入っている。柳の邸宅地は三樹荘と呼ばれているが、その由来は当地の人々が“智・財・寿”を表す樹木として信奉していたシイの古木がこの敷地内に3本あったことにあるといわれている。この地は今が別人の所有になっているが、3本のシイの木は今立派におい茂っていた。

 三樹荘跡地

 楚人冠記念公園から白樺文学館へ
 天神坂を下って、元来た細い道路を東方向へ歩くと、次の案内標識があった。左折する道路の先に「楚人冠記念公園」があるというので歩いてみたが、なかなかそれらしい場所が見当たらない。しばらく周辺をうろうろした後、庭木の手入れをしていた男性に尋ねると、少し引き返した先を右に曲がるとすぐ見えてくるという。確かに、高台の緑地があり、坂を上がると広場に出た。ここが楚人冠記念公園らしいが、辺り一帯雑草がのび、手入れもされていなくて、いささか拍子抜けの感じだった。ただ、広場の北側に、楚人冠とこの地の縁を簡潔に説明した「楚人冠と我孫子」という標題の説明板と次のような句を刻んだ碑があった。
   筑波見ゆ 冬晴れの洪になる空

  楚人冠記念公園の掲示版

 楚人冠記念公園から元来た道に戻って更に東へ歩くと、5分のしない口に白樺文学館ののぼりが見えてきた。12時10分ごろ正面玄関前に着くと思ったよりもこじんまりした建物だった。ここで改めて白樺文学館の沿革をごくかいつまんでいうと、もともとは経済人・佐野力氏によって白樺派文人たちの活動を広く次代に伝えるために私財を投じて2001年1月に開館されたものである。我孫子市在住の武田康弘氏が初代館長に就任して運営にあたったが、2007年11月に佐野氏が我孫子で大きく発展した白樺派文学を次代に伝えてほしいとの思いから、市へ白樺文学館の寄附の意向を示し、市との1年間の共同運営を経て2009年4月1日から我孫子市白樺文学館として管理・運営を開始したものである。詳しくは同館のHPに掲載されている「白樺文学館の沿革」を参照いただきたい。
 http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/21,58361,41,614,html

 入館して受付で名前を告げると、職員の一人がカウンターに取り置いてあった前記の「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」が入った封筒を差し出した。500円を払ったあと、館内の案内パンフを受け取ると、2階建ての館内は、4つの展示室に分かれ、地階は「柳兼子を聴く部屋」と名付けられたオーディオルームに分かれていた。1階の第一展示室では雑誌『白樺』創刊百周年記念特別企画展の一環として「武者小路実篤展」の展示になっていて(12月18日まで)、実篤の生涯を学習院時代、我孫子時代、日向新しき村時代に分けてパネルで展示がされていたほか、実篤の初版本なども展示されていた。2階の第3展示室には実篤の諸作品、写真資料、ロダンの「鼻のつぶれた男」の像、夏目漱石の書簡、有島武郎の書、志賀直哉の「暗夜行路」草稿などが展示されていた。最後の第4展示室は和室で里見弴の色紙、長與善郎の色紙と軸、有島生馬の軸などが展示されている。
 順路に従って展示室を一巡した後、閲覧室を兼ねていた第2展示室に戻り、明治43、44年当時の『白樺』を繰って、大逆事件に触れた作品なり論説なりがないか調べたが、それらしきものはみつからなかった。書架にはゆっくり調べてみたい図書・資料がたくさんあったが、所詮、1時間程度では間に合わないとあきらめ、またの機会とした。

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白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて(2)

 「主人持ちの文学」をめぐって~多喜二宛て志賀直哉の書簡に思うこと~
 白樺文学館の展示のなかで私が引き寄せられたのは小林多喜二宛ての志賀直哉の書簡((1931(昭和6)年8月7日付け))だった。書簡の全文は次のとおりである。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/takizi_ate_naoya_no_shokan.pdf

 志賀と多喜二に親交があったこと、志賀から多喜二に宛てた書簡があり、その中で志賀がプロレタリア文学の党派性について諌める言葉を記していたことは知っていたが、書簡の全文を読むのはこれが初めてだった。多喜二を敬愛する人々は多喜二が志賀を尊敬していたこと、志賀も奈良の自宅を訪ねてきた多喜二を暖かく迎えたこと、多喜二が虐殺された折に志賀は多喜二の母に丁重な弔辞を送ったことなどに注目し、志賀が多喜二の文学と生き方に一目置いていたことを折に触れて紹介している。事実、志賀は小林が拷問死して5日後の1931年2月25日の日記に「「小林多喜二 一二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなりアンタンたる気持になる、不図彼等の意図ものになるべしといふ気する」と記している。
 しかし、そのことを以て、上の書簡の中で志賀が次のように記していたことを閑却すべきではない。

 「私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。」
 「作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角、何かある考へを作品の中で主張する事は芸術としては困難な事で、よくない事だと思ひます。運動の意識から全く独立したプロレタリア芸術が本統のプロレタリア芸術になるものだと思ひます。」
 「それからこれは余計な事かも知れませんが、ある一つの出来事を知らせたい場合は、却って一つの記事として会話などなしに、小説の形をとらずに書かれた方が強くなると思ひました。かういふ事は削除されて或ひは駄目なのかと思ひますが、さういふ性質の材料のものは会話だけで読んでゐてまどろっこしくなります。
 それから「蟹工船」でも「三・一五」でも正視できないやうなザンギャクな事が書いてある、それが資本主義の産物だといへばいへるやうなものの、又さういっただけではかたづかない問題だと思ひました。
作品の運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません。」

 私は文学理論に疎いし、志賀が好んで使う「文学の純粋性」がどういう意味なのかも十分理解できていない。しかし、文学に限らず、社会科学についても政治との関係を否応なしに考えさせられてきた私にとって、「主人持ちの小説はよくない」という志賀の言葉を読み流すことはできない。この点を今詳しく論じると横道にそれるが、私が留意すべきと思うのは志賀が多喜二に向かって政治と縁を切れと言っているのでなければ、政治を小説の題材とすることを戒めたわけでもないということである。むしろ、志賀は「作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角」と記していることからもわかるように、運動のためのという意識が前のめりした生硬な小説ではなく、自分の血肉となった思想が自然に滲み出るような作品こそ、読者の心に響く作品であると言いたかったのだろうと思う。
 こう考えると、「主人持ちの小説」という意味は、一見自己主張と思想を押し立てた小説に見えながら、その実、自分の外にある「主人」の主張・思想に陶酔したり、追従したりする他律的小説という意味であり、そうした作品は、たとえ当の「主人」の主張なり思想なりが正当なものであったとしても、元々の同調者以外の読者の心を打つに如かないということを志賀は言いたかったのだと思う。末尾の「作品の運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません」という言葉はプロレタリア運動それ自体を嫌悪する意思が志賀にあったわけではないことを如実に示しているが、その点だけを強調して、「主人持ちの文学」に対する志賀の苦言を等閑に付すのは偏狭な党派性である。

 志賀文学の展開~敗戦の悲惨な現実を目の当たりにして~
 しかし、話はこれで終わらない。志賀は『文化集団』1935年11月号に掲載された貴司山治との対談「志賀直哉氏の文学縦横談」のなかで、<主人持ちの文学>について次のように語っている。

 「しかし誤解してはいけないよ、主人持ちの文学でさへなければその作品がすぐに傑作だなんていふことを僕は決して言はないのだから・・・」。
 「主人持ちの文学でも人をうつものはあるかも知れない」「要は人をうつ力があるもの、人を一段高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ。さういう作品が現れてくるならば、反対にはっきり主人持ちの文学として現れて来たからといって一向差支へあるまい」。

 小林多喜二宛ての書簡で<主人持ちの小説はよくない>と諌めた志賀直哉がそれから4年後に<主人持ちの文学でもかまわない>と語ったのをどう理解すべきか? 志賀は持論と称してその時々に口から出まかせの論を語ったとは思えない。この点を考える上で、多喜二宛ての書簡の中で志賀が次のようなエピソードを披露しているのが注目される(この点に注意を喚起したのは、下岡友加「志賀直哉のリアリズム――「灰色の月」を中心に」、『国文学攷』(広島大学国語国文学会)172号、2001年12月、である)。

 「里見の「今年竹」といふ小説を見て、ある男がある女の手紙を見て感激する事が書いてあり、私は里見にその部分の不服をいった事がありますが、その女の手紙を見て読者として別に感激させられないのに主人公の男が切に感激するのは馬鹿々々しく、下手な書き方だと思ふといったのです。力を入れるのは女の手紙で、その手紙それ自身が直接読者を感動させれば、男の主人公の感動する事は書かなくていいと思ふと云ったのです。」

 このくだりについて前記・下岡友加氏は「結果(男の感激)よりも原因(女の手紙)に『力を入れる』事を説く・・・方法意識」(9ページ)とみなし、そうした方法において「重要なのは、人物の心意を導く原因としての出来事が、それとして十分に提示される事であって、その結果(人物の心意)を殊更に報告する事ではない」(同上)と述べている。 そして、下岡氏はかくいう志賀自身が、敗戦直後の東京駅から乗り合わせた電車の中で目の当たりにした餓死寸前の少年工の姿を題材にした「灰色の月」(『世界』1946年1月に発表)において、まさにこのような方法を踏襲したこと、それによって、「社会的な問題をストレートに振りかざすのではなく、あくまでも一個人の痛みとしてそれを提示する事で、単純な世相批判に終わらぬリアリティ-を獲得している」(10ページ)と評している。
 そして、下岡氏は志賀がこうした社会問題を題材にした作品を書き上げた原動力は敗戦直後に志賀が『改造』、『展望』、『婦人公論』などに次々と発表した平和論、天皇制論、東条英機論などにみられるリアリズムがあったと指摘している。
 こうした志賀文学の方法は私なりに言いかえれば、作中の人物に思想をむき出しに語らせるのではなく、事実なり体験なりの描写を通して思想を語らしめる方法といえる。とすれば、こうした方法は文学の世界に限られるわけではなく、社会科学の分野にも通じる叙述の方法といって差し支えないだろう。多喜二宛ての志賀直哉の書簡を読み返しながら、こんなことを考えさせられた。
 
 第2展示室で用件を済ませて白樺文学館を後にしたのは13時30分ごろだったが、帰りがけに玄関ホールの壁面に雑誌『白樺』の全160号の表紙が展示されているのを眺めていると、確か副館長というネームプレートを付けたA氏が近付いてきて、「お二人一緒の写真を撮りましょうか?」と声をかけてもらった。連れ合いもこの展示が気に入った様子だったので、言葉に甘えて壁面を背景に撮ってもらった。

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白樺派文人ゆかりの地・我孫子市を訪ねて(3)

 志賀直哉邸跡を訪ねて
 お礼を言って白樺文学館を出ると、A氏も外に出てきて前の道路の前方を指さし、「あそこが志賀直哉の邸宅跡ですよ。よかったら一緒に言って案内しましょうか?」と話しかけてもらった。さほど、忙しそうにもなかった(失礼!)ので、「ではお願いします」ということにした。
 志賀直哉邸跡は白樺文学館から100mもない場所にあった。邸宅跡が石段で形づくられ、別棟として書斎が配置されていた。ただし、住まいも元は緑雁明緑地にあったが、書斎は付近の民家に移築されていたものをこの地に再移築して整備したものである。志賀は1923(大正12)年に京都に移るまでこの地で『和解』、『城崎にて』、『暗夜行路』を次々に発表して充実した作家生活を送った。武者小路宅とは目の前の手賀沼から舟で行き来をしたという。当時、前を通る道路の向こうは手賀沼だったということは以来、ずいぶんと埋め立てをしたものだ。ここでもA氏に詳しい説明を聞いたあと、書斎の濡れ縁にたたずむ格好の写真を撮ってもらった。感謝の至りだった。

 市民図書館で
 志賀直哉邸跡を出て、来た道を引き返し、市民図書館が入っているアビスタに着いたのは14時すぎだった。1階の軽食コーナーでランチを済ませ、図書館に入館すると、平日にしては閲覧室はほぼ満席で、しばらく歩きまわって何とか空席を見つけた。それぞれ自分の興味に従って調べ物をすることにしたが、私の目的は当館に所蔵されている『杉村楚人冠関係資料目録』(杉村松子家所蔵;我孫子市教育委員会編集、平成17年3月)で、例の針文字書簡ほか楚人冠関係の資料を閲覧・調査することだった。幸い、5分冊が我孫子ゆかりの資料コーナーに開架されていたので、「Ⅱ.書簡」を取り出して、ページを繰っていくと、通番0262として「書簡〔大逆事件の精査と幸徳の弁護士斡旋依頼〕という標題が付された書簡が収録されていた。差出人は菅野須賀子で受取人は杉村縦横、差出年月日は明治43年6月9日、受取の住所は京橋区朝日新聞社内と記されていた。ただし、封筒の差出人は匿名と記されている。さらにページを繰っていくと、以下の差出人からの書簡が載っていた。
 夏目金之助(差出年月日:明治43年6月17日、明治44年5月15日、〔18日〕、20日、〔21日〕、  大正4年11月17日)
 堺利彦(同上:大正7年7月4日)
 芥川龍之介(同上:大正9年4月15日)
 平塚明〔雷鳥〕(同上:大正9年4月16日)
 木下利玄(同上:大正9年4月30日)
 安達謙蔵(同上:大正9年6月16日)
楚人冠の交友の広さを伝える資料として興味深い。

 とはいえ、まずは、菅野須賀子からの書簡の原文の写しを見たいと思い、閲覧受付係へ行くと、「現物は当館ではなく、教育委員会は所管しているので問い合わせてみる」とのこと。しばらく開架で別の資料を探していると、担当者がやってきて、「閲覧にあたっては資料名を記入して申請書を所蔵者宛てに提出する必要がある。手続は教育委員会なので出かけもらう必要があるが、どうされますか」とのこと。場所を尋ねると、JRで2つ目の駅まで出かけなければならないそうなので、今日は無理とあきらめた。
 ただし、楚人冠が受けとった菅野須賀子明の針文字の書面は既にいく人かの研究者が入手し、一般に公表されている。たとえば、今年の1月29日の『毎日新聞』夕刊に「針穴でつづった白紙の秘密書簡」と題する記事が掲載され、その中で発見された書簡と封筒、針穴でつづられた文面(全文)の複写が掲載されている。針文字の文面は以下のとおりである。

  京橋区瀧山町
   朝日新聞社
    杉浦縦横様
      菅野須賀子
  爆弾事件ニテ私外三名 
  近日死刑ノ宣告ヲ受ク
  ベシ御精探ヲ乞フ
  尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士
  ノ御世話ヲ切ニ願フ
    六月九日
   彼ハ何ニモ知ラヌノデ

 もっともこの書簡の封筒には「典獄」の印がないことなどから、差出人を菅野須賀子と断定するに足る証拠はこれまでのところ見つかっていない。しかし、前記の「針文字書簡と大逆事件~事件が文学に与えた影響~」は、当時、監獄から秘密裏に書簡が監外に出回る伝達ルートがあったことが少なからぬ事実で裏付けられていること、手紙の内容からして関係者でないと分からない情報が記されていることなどから、この書簡の差出人は菅野須賀子であった可能性を否定できないと記している。また、長く楚人冠の研究に携わってきた我孫子市教育委員会の小林康彦調査員も「私外三名」と表記されていることなどから菅野自身がつづった可能性が高いとみなしている(小林康彦「大逆事件針文字書簡と杉村楚人冠」、『史潮』58号、2005年11月)。
 今後、新資料のさらなる発掘と考証を通じてこの点が解明されるならば、これまでとかく「妖婦」、「テロリスト」のレッテルを貼られがちだった菅野須賀子の実像を浮かび上がらせる資料となる可能性がある。なお、菅野須賀子の歪んだイメージの流布に警告を発した論説として、「大逆事件から100年 人間性豊かだった菅野スガ」、『毎日新聞』2010年2月2日夕刊、がある。と同時に、大逆事件とのかかわりを通して、楚人冠の社会思想と行動の全容がより広範囲に究明されることが期待される。

 夕暮間近のの手賀沼公園へ
 15時40分ごろ、市民図書館を出て夕暮前の手賀沼公園へ入った。すぐ近くにある「平和の記念碑」を見た後、沼の水際へ。水面にはごみが浮遊して美しい沼と形容するには遠い状況だった。そのせいか、授業を終えた高校生の一団が大きなポリ袋を持って水面近くを歩きながら、清掃をしているのに出会った。もう少し、時間があれば公園をゆっくり散策したいところだったが、留守中、一人で過ごしている飼い犬のことが気になり、帰路を急ぐことにした。

初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0652:111018〕