矢沢国光氏の青才高志氏-「株式資本論」に期待することを拝読しました。そこで、少々コメントを。
まず、三つの概念をはっきりさせましょう。「資本の物神性」、「資本の商品化」、「株式資本」の三つです。
第1。「資本の物神性」。「資本の物神性」とは、「資本がその運動によって利潤を生みだす」ことと一般的には思われていますが、マルクスの本意は実にそこになく、「資本がそれ自身で利子を生み出す」ところにあると思われます。三位一体定式は、資本‐利子、土地‐地代、労働‐賃金であって、「資本‐利潤」ではありませんね。「資本がその運動によって利潤を生みだす」のはそう神秘的なことではないでしょう。ところが、「資本が自動的に利子を生みだす」というのは、少なくても私にとっては、神秘的なものと感じられます。では、なぜこんな神秘が発生するのでしょうか? マルクスの論理に従うとこうなります―資本が定期的に利潤を生みだすようになると、その利潤は「資本の運動」の結果ではなく、「資本自身の持つ(神秘的な―主流派経済学ではまったく当たり前のことと見なされているようですが―)力」のゆえだという逆転された観念が発生する。以上のように、資本はまさに神様のように無から有を生み出す力を持っている―このようなものだったはずです。それが、「利子」と見なされる以上、その元本がなければなりません。では、それはどうして計算されるのでしょうか? そこで、第2のキーワード「資本の商品化」が関連してくるはずです。
第2。「資本の商品化」。ある人がある企業を買収しようとすると仮定しましょう。その時、その企業のBSの左側、すなわち資産の総額がその企業の「価格」になるでしょうか?違います。そうした価格はその企業が「定期的に利潤を生みだす能力」という本質的なものを無視しています。その「能力」は、前の段落で述べたように、「利子」と見なされますから、その利子を生み出すと見なされる架空の元本を逆計算して求められます。いわゆる「資本還元」ですね。この元本の価格こそが「その企業=資本の価格」になるわけです。企業買収というのは個人企業の時代でも当たり前だったでしょう。株式資本とは直接は関係がありません。
ここまでの話でおわかりでしょう。私の立場は「原理論でも『資本の商品化』は説明できる」というものです。では、「株式資本」というのは以上の話とどう関連してくるのでしょうか?
第3。「株式資本」。しかしながら、企業の売り買いというのはそうスムーズにいくものではありません。とくに鉄鋼業などの固定資本が巨大化する企業では難しいでしょう。そこで考え出されたのは、共同出資の証明証券を売買するという方法です。これを考え付いた人は天才だと思いますね(ただし、こうした方法自体は以前から国債や半官営の鉄道株の売買という形で登場していましたが、これを民間の鉄鋼企業に応用したことが大事件なのです)。いや、「人」ではなく「市場経済」という協働的連関が生み出したというべきですね。まさに、岩田さんの言う通り、まず「資本流動化」の手段として「株式資本」は登場したわけです。しかしながら、岩田さんはこの方法を原理論の中に取り込もうとした―これには賛同できません。やはり鉄鋼業―鉄道という時代背景があってこそこの方法が普遍化されたのだと思います。
残された課題。これは矢沢さんも指摘されていますが、かの神秘的な「利子」の根源はどこにあるかという課題です。一つは利潤全体。もう一つは企業活動(資本家的「労働」)の結果としての収入を取り除いた残りの部分。この問題はも少し考えてみたいと思います。
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study682:20151211〕