研究ノート/「人権と国情」―ロヒンギャ危機に即して考える(1)

<人権をめぐる問題状況>
ミャンマーの民主化ウオッチャーの端くれとして現地の政情にある程度通じているはずの私にとっても、ロヒンギャ危機をめぐるNLD政府や民主化勢力の対応には驚きの念を禁じ得ませんでした。8月25日からの国軍の掃討作戦により、わずか一か月で最低でも6700名以上のロヒンギャが殺害され(「国境なき医師団」発表)、64万人もの人々が難民としてバングラデッシュに逃れたのです。残虐行為について国軍は今日なお自分たちがやったものではないと、国際的非難を突っぱねています。
戦後、東南アジアで一番はじめに豊かな国になるだろうと予想されたこの国を半世紀にわたって強権支配し、ついには国連認定の最貧国にまで貶めた軍事政権です。かれらの非道さ、残酷さ、貪欲さ、理不尽さをミャンマー国民は骨身にこたえて知っているはずでした。ところがスーチー氏を先頭に誰一人国軍の残虐行為を非難もせず、NLDが絶対多数を占める国会でも議題にもならず、国際機関による現地への救援物資送達を認めず、国連の人権調査団の現地入りを今日なお頑なに拒んでいるのです。国連難民高等弁務官は、8月の事件勃発の半年前にすでにスーチー氏に警告し、ロヒンギャを守るための対策をとるよう促していたにもかかわらず無視されたとし、氏も国軍と同罪だと断じています。
しかも国際社会からのミャンマー政府と国軍への非難―アメリカは掃討作戦の責任者マウン・マウン・ソエ西部司令官への標的制裁を発動―が高まるにつれ、NLDや88世代の指導者たちからの、驚くべき内容の反論が始まったのです。端的に言うと、ミャンマーの国情においては、人権よりも国家主権の概念が優位に立つというのです!いわく、ARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)はムスリム国際テロ集団の一翼をなしているのであり、かれらはラカイン州をムスリム国家として分離独立させようとの意図で策動しているのだから、その主権侵害からミャンマーの国家主権を守ることが優先課題になる。国家主権が揺らげば、そもそも人権どころではなくなるではないかというのです。至高の国家主権のためならば(実際は反ムスリム親仏教国家としての政体守護のためには)、ベンガリ(ロヒンギャという呼称は不認知)100万なにがしかの命などは二の次である――これがミャンマーにおける主流派世論なのです。しかし国家主権云々は半分はイデオローグたちが案出した口実であり、NLD政府は仏教徒ビルマ族の宗派的感情に迎合して、また国軍を怒らせまいと少数者-といっても100万人単位―の人道的危機など見ないふりをしたというのが、ことの真実なのです。ナチスのユダヤ人問題の「最終的解決」がユダヤ民族の絶滅政策であったように、ロヒンギャ問題の「最終的解決」を策して、ラカイン州からロヒンギャの存在そのものを消してしまうこと――これが国軍の掃討作戦(焦土作戦)のよく練られ、よく準備された目的だったとの推測は十分根拠のあるものです。国連人権機関が「民族浄化」や人道上の罪にあたるとして、国軍を厳しく非難するのもそこなのです。スーチー氏には憲法上国軍を抑制する力は与えられていないので非難するに当たらないとする擁護論が一部の西側知緬家から発せられもしました。しかし憲法の改正を第一目標に掲げる政党が、その憲法に縛られて何もできないとすれば、民主主義政党の看板はすぐにも下ろすべきでしょう。※

※国内でのスーチー氏の圧倒的な人気はミャンマー仏教の聖人崇拝の伝統と関わっていますが、西側の知識人たちが氏に寄せた好意と幻想の大きさは、西側世界の既成政治家たちの堕落ぶりとは全く異なって、理想を掲げる政治への渇望をスーチー氏が満たしてくれるように見えたことで説明がつきます。しかしそれだけにロヒンギャ危機での氏への幻滅は大きかったのです。

人権と民主主義を標榜して一世代にわたって闘い続けてきた政治勢力のこの主張―スーチー氏はさすがそこまでは言っていませんが―に愕然とするとともに、あまりに既視感のある光景なので二度驚くのです。そうです、いまから7,8年前までは軍部独裁政権は民主化勢力を弾圧するのに、この論理を多用していたのです。1988年の血の弾圧の上に成立した軍政は政権としての正当性(legitimacy)を確保するのに苦慮して、次のような論理を捻り出しました。すなわち植民地支配のくびきから国を解放し独立を達成した国軍の伝統(正統性)を受け継ぎ、民主化を口実に西側国際社会の新植民地主義的な手先としてミャンマーの国家主権を脅かすスーチー氏やNLDらから国を守るのが、自分たち軍政の役目であるとしたのです。そしてミャンマー民主化勢力は西側諸国による内政干渉の道具にすぎないとしてそれを非難し、弾圧を正当化してきたのです。
ところがこのほんの昨日まで軍政のイデオローグたちが言っていたこととまったく同一のことを、今度は民主化勢力の指導層が口にしだすのです。軍部独裁政権時代に民主化勢力と国軍を隔てていた厚く高い壁はなくなってしまいました。しかしそれは国軍が自己変革し民主主義に歩み寄ったからではなく、民主化勢力が自分を見失いそうになるまでに妥協し国軍にすり寄ったからなのです。※総じてこの国の民主主義の基盤がいかにも脆弱であり、NLDなりスーチー氏なりの「変節」はその反映である点はしっかり見ておかなければなりません。

※長く続いた専制体制のため市民社会が成立せず、自立した知識人層は存在を許されないうえに、既成の知識層は精神的に上座部仏教に従属していて、知的道徳的ヘゲモニーは依然世俗界の側にありませでした。19世紀のドイツ哲学者―若き日はフランス革命の賛美者でした―であるヘーゲルはいみじくもこう述べています。
「やはり宗教が、とりわけ社会的悲惨の時代、動乱や圧制の時代に勧められ、求められるということ、そして宗教が頼りとされるのは不正に対する慰めのためであり、損失を埋め合わせてもらえるという希望のためである」(「法権利の哲学」§270)これと若きマルクスの述べた「(宗教は)一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、悩めるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である」(「ヘーゲル法哲学批判・序説」)の近さに驚きます。

二十世紀の独立運動や植民地解放闘争のなかで拠りどころとなってきた民族自決権や国家主権(回復)を根拠として、発展途上国において、あるいは新興工業諸国においてなお人権より主権が上位にあるとする主張は、意外と余命を保っています。多くの場合、国際関係における国家主権の重要性を口実としつつ、実際は国家主権を国内の民主化運動や人権運動への弾圧理由にすり替える詐術が見え隠れしています。中国共産党も世界人権宣言等について国際的規範としての意義は認めつつも、基本的には人権問題の扱いは一国の主権の範囲の問題であり、他国の容喙は許さないとする主権の優位論に立っています。
ただアセアンなど地域協力機構が発展して各国の国境紛争がほぼ存在しない現状では、国家主権守護だけでは説得力がなくなりつつあるのも確かです。そこで人権制限を正当化するために補強された理由付けが、「国情」理論ではないかと思われます。
去る12月8日、発展途上国を主に対象として北京で開かれた「南南人権フォーラム」では、「国情」理論が明確に打ち出されました。習近平国家主席の書面挨拶には次のように記されていました。
「現在世界の人口は途上国が80%以上を占める。人権事業は各国の国情と国民のニーズに従い推し進めなければならない。途上国は人権の普遍性と特殊性の結合という原則を堅持し、人権保障水準を高め続けるべきだ。中国人民は数多くの途上国を含む世界各国の国民と一致協力し、協力によって発展を促進し、発展によって人権を促進し、人類運命共同体を共に構築することを望んでいる」(太字・筆者「人民網日本語版」2017年12月8日)
「普遍性と特殊性の結合」などというヘーゲル論理学用語を使っての、よく工夫された制限人権論の理屈付けです。悩ましい国内事情を考慮せず、国連的コスモポリタン的な人権規範を一方的に押し付けられるのは迷惑だという反発は、開発独裁型系譜の政府の多いアセアン諸国では広く認められるところです。ただ中国は社会主義を国是とする国ですから、理由付けにもマルクス理論の「応用」らしきところに特徴があります。国家形態や法制度の歴史性を強調する唯物史観の考え方からすれば、一国の人権水準は、その国の歴史・社会・経済・政治・文化の諸条件によって規定ないし制約されるとする理解が導かれます。たしかにたとえば人権を構成する契機である社会権の充実度には国力が反映するのであり、国家が給付する社会サービスの内容が、先進国と発展途上国では同一でありえないという意味ではそうです。
しかし国際社会でふつう人権問題が争点になるのは、そのような政府の努力によってしても内容的格差がすぐには埋められない人権一般ではなく、人権じゅうりんなどの人権の危機の場合です。大量の暴行・殺人・拷問・レイプなど人命や人間の尊厳にかかわる重大事態や、民主主義の根幹をなす思想信条の自由や表現の自由が深刻に侵害される事態などの発生をみた場合です。各国がいかなる特殊事情があろうとも、この種の人権じゅうりんは犯してはならず、それに例外規定はありえません。まさにこの意味で人権は不可侵であり、人権を守る義務については国境なしといえます。国連をはじめとする国際的な人権機関が、ロヒンギャ危機において目覚ましい役割を果たしているこの領域というか、フェーズなのです。
ロヒンギャ危機は人権問題に新しい視野を拓きつつあります。深刻な人権危機に際し、そのセィフティ・ネットとなるべき位相が、国際社会、アセアン等の地域連合・地域共同体、国民国家という重なり合いになっていることがよく見えてきたのです。

〔国際社会〕
国際社会の役割については国連(人権理事会、国連人口基金、国連難民高等弁務官事務所、ユニセフ等)や赤十字のような国際機関、はたまた「国境なき医師団」はじめとする多様な非政府的組織の獅子奮迅の働きによって、ロヒンギャ危機の実態が暴露され、緊急の支援活動が組織されるとともに、スーチー政府の言い逃れや責任回避を許さず、一定のコミットメントを強いることができました―あくまで「一定の」であって、スーチー政府がどの程度本気で取り組むかについては、国際社会は警戒を緩めてはいません。真の加害者である国軍を中国が強力にバックアップしていることも懸念材料です。
国際的なNGOは人権問題や環境問題において、コスモポリタン的と揶揄された普遍主義の限界を超えて、各国の市民社会や草の根の運動と結びつき、民主主義の担い手となるべき主体形成にも関わるようになっています―一例として、ヤンゴン・ティラワ経済特区開発において、JICAの倫理規定(反住民的プロジェクトの抑制)を活用してJICAを通してミャンマー政府に働きかけ住民の強制立ち退きに一定の歯止めをかけ、生活再建のための補償※を不十分ながらも実現させたメコン・ウォッチの活躍は賞賛に値します。これは本来はまず国内の政党が果たさなければならない護民官的役割ですが、NLDにはそういう問題意識はまったくないようで、その空白を埋める役割を国際NGOが果たしたのです。人権が生活権にまで具体化された新しい運動であり、そこには中国共産党流の人権と国情、つまり普遍と特殊の後ろ向き結合ではなく、まさに前向き・進歩的な結合を見出すことができます。換言すれば、人権規範をたえず具体化して実定法的基盤をあたえ定着させていく運動が民主化運動だといえます。人権を環境と置き換えても同じことが言えます。

※それまでは憲法に規定された土地の国家所有を楯に、国軍(国軍と政商が組んでる場合も多い)が農民に有無言わさずほとんど補償ゼロで立ち退きを迫り、拒否すればただちに監獄送りにしたのです。レッパダウン銅山開発では、農民支援に入った僧侶をベトナム戦争で使用された悪名高き白リン弾で攻撃したり、抵抗する農民を撃ち殺したりもしました。この時もスーチー氏やNLDは国軍や警察への批判をいっさい口にしませんでした。

〔地域連合・地域共同体〕
ロヒンギャ危機では、アセアンの内政不干渉主義が障碍となり、有効なコミットメントができていません。イスラム主流国家や仏教主流国家が混在するなかでの共同歩調はなかなか難しいでしょうが、ロヒンギャ問題はボート・ピープルというかたちでタイ、マレーシア、インドネシアにも及んでいるので、完全に黙殺という訳にもいきません。アセアンが経済的な地域協力機構というレベルを超えて発展するためにも、宗教的な寛容なり相互承認はどうしてもアセアン精神として不可欠な要素となるでしょう。以前はそういう役割こそスーチー氏に相応しいと考える向きもありましたが、残念ながらその資格がないことが判明しました。EUという地域共同体は独自にミャンマーに対して制裁を検討しています。

〔国民国家〕
世界企業を先頭に国境の障壁を軽々と越えて企業活動を展開するグロバリゼーションの波にのって超国家化の動きが加速し、そのため国民国家という枠組みが危機にさらされています。しかしロヒンギャ危機で明らかになったのは、国民国家の重要性、わけても国籍=市民権を賦与する国家の役割の重要性でした。ナチスによるホロコーストは、国家によるいっさいの庇護を剥奪されたユダヤ人の悲劇でしたが、いままさに同様の運命がロヒンギャの身に降りかかっているのです。したがって国民国家の役割は依然重要であり、それだけに政府を人民による人民のための政府に変える国内の運動は重要です。ロヒンギャへの国籍賦与も国内の民主化運動との連携なしには不可能でしょう。
ミャンマー民主化運動の最大の思想的ネックは仏教排外主義ですが、その克服のためにはまず過激仏教徒運動を孤立させ、一般の仏教徒への影響力を遮断する必要があったにもかかわらず、スーチーNLDはあろうことか、過激仏教徒運動を批判した中央委員会幹部を除名処分にし、仏教原理主義者に恭順の態度をとったのです。親緬家や知緬家と認められ、スーチー氏を賛美してやまない一部識者たちが、こうした細部―細部に神が宿るという意味で、小さな事件であっても民主主義の根幹に関わる重大事ーに必要な関心を払わないのは、民主主義に不忠な態度と言わざるをえません。
いずれにせよ、平和と安定がなければ民主化は進まないという理由付けで、国軍や過激派仏教徒運動にずるずると譲歩を重ね、ついにはロヒンギャ危機を招くに至ったのです―国軍は、たとえ大虐殺を行なっても、NLD政府が反撥したり介入したりはしないと見切っていたのです。※

※ロヒンギャ危機において露呈した政府の弱点は、ガバナンスの脆弱さ、イニシアチブの決定的不足です。具体的には、政府が国軍へのコントロールの意思をまったく欠いていること、政府部内でも政治意思や政策の統一が取れない場合が少なくないこと、そのため政府部内でロヒンギャ問題においても似たような対策組織(タスク・ホース)がいくつもでき、権限と責任の分担が不分明であること、NLDが絶対多数を占めているにもかかわらず議会の力が弱く、議会でロヒンギャ問題が議題とされることもなく、議会独自の調査委員会の立ち上げや政策提言もないに等しい惨状であること等々。またスーチー氏のNLDへの独裁的なガバナンスのためにコミュニケーションと相互理解が不足し、そのために有能な議員が育たず、若い議員たちが萎縮して議会内でのイニシアチブの発揮が妨げられていること。三権分立からいっても、議会が政府や国軍の監視機能の責務を負っていることの自覚すらないのではないかと思われます。
スーチー政治の特徴は、自らに与えられた政治資源―大衆的支持と参加・動員、そしてなによりもNLDの党組織―を武器としてまったく活用しないことです。自分の威信や権威を補強する組織手立てを全く知らないこと(のちにスーチー政府を回顧したとき、これが致命傷になったと言われる可能性があります)。また社会問題―例えばヤンゴン市の交通地獄―を政治化し民意も動員しながら解決するより、官僚が発案する技術的手段にのみ頼ろうとし、下からの市民参加による協力とアイデアを無視する傾向が強いのです。ヤンゴン市の都市計画策定に当たっても、JICAや日本企業への驚くほどの依存が目立ちます。現在500数十万のヤンゴン市を短期間で1千万都市にするというJICAの無謀な計画を資金(借款という借金)計画も含め鵜呑みにし、脆弱な都市基盤(水資源確保ですら地理的に困難です)を無視して過度な一極集中を実現しようというのです。これでは日本のゼネコンのための都市開発ではないかと思わざるをえません。それにしてもスーチー政権の経済・社会戦略におけるイニシアチブの不在は指摘されてから長い時間が経ちましたが、いっこうに改善される様子がないのは気懸りです。

ロヒンギャ危機への国際社会の介入が、スーチー政府の転落に一定の歯止めになりました。しかしスーチー政府が自らの立ち位置を国際社会と国軍との均衡の上に置いているとすれば、民主化を促進する流れに掉さすことはないでしょう。そうだとすれば、選挙公約の筆頭にあった内戦終結―全面和平達成―連邦制国家の樹立という課題の達成も彼岸に押しやられます。和平達成の基礎を民主主義的な原則―民族自決権―にではなく、少数民族武装組織と国軍との均衡の上に置こうとする限り※、安定した解決は達成できないからです。いずれにせよ、NLDの選挙公約の柱である現憲法改正はますます遠のいて行っている感があります。
※スーチー氏のプラグマティズムを賛美する人もいますが、無原則なプラグマティズムは迷路にはまり込む危険性があります。バランスを取るつもりでいて板挟みになって政治決断ができなくなる、それが実態でしょう。                        (つづく)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

〔opinion7252:180107〕