<体制移行と外来思想土着化の問題>
Ⅰ.疑似民政から真の文民政府への移行をめざすなか、スーチー氏とNLDの急速な態度変化は、明治初期の自由民権運動がやがてナショナリズム(国権主義)に屈していく過程と二重写しになって見えるところがあります。もともとは自国の政治土壌の中に根をもたない人権や民主主義といった外来の観念が、現実の政策的選択のなかで苦労して自覚的に具体化され豊富化されるのではなく、それはそれとして普遍的抽象的原則のまま切り離され放置され、他方で現実政治の必要に無批判に追随する状況は、両国ともよく似ているのではないかと思われます。丸山眞男によれば、抽象的な自然法的な発想から抜け出ることのできなかった自由民権運動主流派は、やがて大挙してナショナリズムに屈服し転向して行ったといいます。それに対して、ナショナリズムとデモクラシーの融合の観点から、列強の圧力下、国民的統一と近代化との、個人的自由と国家権力との正しい均衡を見出そうと苦闘した稀有の言論人の一人として陸羯南(くが かつなん)を挙げ、大いに評価しています。正岡子規の生活を最期まで支えたという陸羯南は孤高の言論人ですが、国民国家の確立と国民としての主体性を見失うことなく近代化の道を探求したという側面は、ミャンマーの今を見るうえで参考にしたいところです。
Ⅱ.後発資本主義国が先進国の近代化を模倣して工業化を急ぐときに逢着する問題群を考えるとき、E・H・カーの言う歴史における断絶と連続性という切り口は、一定の有効性をもっているように思います。ロシア革命を例にとると、ロシアの革命=社会主義化は、他方で社会主義(理念と政策体系)のロシア化・土着化だったと見てとることができます。換言すると、ある革命的理念を一国において実現しようとして成功した場合―断絶の契機―でも、やがて土着化に際しその国の主観的客観的諸条件の制約を受けて歴史の連続的契機が強まり、当初想定したものとは違った現実が出来上がるという歴史の力学に着目したものです。国情論というのは、この歴史における断絶と連続性の弁証法(?)を言い換えたものだともいえます。ただ国情論には、さきほど述べたように「後ろ向き」と「前向き」の二通りに分類可能です。
例えば、トリアッティのイタリア共産党が掲げた「社会主義へのイタリアの道」。それは
1930年代のコミンテルン第七回大会=人民戦線時代から対独レジスタンスを経て戦後復興に至るイタリアでの政治経験を踏まえ、ソ連型とは違ったヨーロッパに相応しい社会主義への平和的接近方法を提示したものでした。一国の歴史的社会的条件や政治経験を考慮して、独自の社会主義の在り方を探求するという意味で、「前向きの国情」論の代表格と言えるのでしょう。カーの論点に従えば、肯定的な意味で連続性が保持されたものといえるのでしょう。ただ戦後、日本の人口の半分ほどで200万人の党員数を誇り、政権にも参加したイタリア共産党でしたが、1970年代に(キリスト教民主党との)歴史的妥協とユーロ・コミュニズム路線―プロレタリア独裁放棄、複数政党制、自由と民主主義重視―に転換し、1990年代にはソ連解体の波を受け分裂・解散し主流派は社会民主主義政党(左翼民主党)になりますが、2000年代にはそれにも行き詰まり、2008年の総選挙では左翼(旧共産党諸党)が141議席からゼロへと、つまりイタリア議会から左翼がいなくなるという驚天動地の事態に至ったということ、この意味では「前向き」の程度に限界があったといえます。いずれにせよ、イタリア左翼にしてなお、よりによってリーマン・ショックの年に新自由主義の攻勢の前に大敗北を喫したことは明らかでした。※
※2013年の連邦議会選挙で実質敗北したドイツ社会民主党の選対幹部も務めた、ベーベル財団日本支部の責任者の話を聞く機会がありました。そのとき彼は新自由主義のようなへんてこなものがどうしてのさばるのか不思議だとつぶやくように言いました。しかしそこにこそ左翼(あるいは中道左派)にとって解かれるべき大問題があるのです。新自由主義を非難するのは簡単ですが、それに取って替わる選択肢を創りだすのは何十倍も難しいのです。
1960年代、東南アジアで「社会主義へのビルマの道」を掲げたネウイン軍部独裁政権の場合はどうでしょう。※スローガンだけは民族色を出していますが、その実態はスターリン主義の戯画化以外の何ものでもありませんでした。政治構造は軍部=官僚独裁、経済構造は固有の歴史的社会的条件をまったく無視した中小零細企業つぶし、民生無視の重工業偏重の極端な国有化・国営化路線であり、イデオロギー構造だけは唯物論でも反宗教主義でもなく上座部仏教丸のみでした。苛酷な軍部独裁がビルマの国らしさであるわけはなく、これなどは為政者が自己の支配を合理化するために国情をダシにしただけのものでした。まさに後ろ向き国情論の典型だったわけです。
※ビルマ社会主義という異常な体制が長く続くことができたのは、ベトナム戦争がもたらした地政学的空白のためでした。ベトナム戦争がなければ、米国は中国封じ込めのためビルマへのコミットメントを強め、少なくともその鎖国政策に風穴を空けていたことでしょう。その意味では、ネウイン独裁体制はベトナム戦争に助けられたのです。
では今日のミャンマーはどうでしょうか。総選挙での圧勝にもかかわらず改革派の力がいかにも弱く旧守派の力が強いため、後ろ向きの歴史の連続性の契機が有意に認められようになりました。NLDが政権についてわずか一年余で、スーチー氏らが暗黒時代に圧政に抗して掲げた民主主義の理念は大きく後退し、特にロヒンギャ問題においては前政権時代より事態を悪化させてしまいました。もちろんロヒンギャ問題がすべてではありませんから、全面的な後退とはいえないにせよ、最も危機的な事態に対する対応の仕方は、政策や組織の在り方に大きな影響及ぼすことは避けられません。一時的とみられた危機への対処の仕方が、やがて常態化し制度化しついには体制に染みついた精神となる事例は、1920年代末の穀物調達危機からやがて30年代のスターリン政治体制の成立に至る過程にみることができることを我々は知っています。変化には時間が必要だとスーチー氏は言いますが、しかし今のいまNLDの舵取りで現在の排外主義の流れを押しとどめ、民主化の大道に世論を導くことは困難です。どんな犠牲を払おうとも、スーチー氏は国軍との融和・協調という戦略を死守する構えであり、憲法改正の公約は事実上放棄された状態です。したがって国軍と文民とのハイブリッド政府という形態はかなり長く続きそうな気配であり、本格的な民主化はもう一世代後の世代に持ち越される可能性が高いのです。
<中国の超大国化への攻勢>
中国の「南南人権フォーラム」を通じて見えてきたのは、中国が良くも悪くも超大国化を意識した振る舞い方をしつつあるということでしょう。トランプ政権が暴走し帝国としての地位から転落しつつある一方、「一帯一路」による巨大経済圏の形成や、空白化した人権ガバナンスや地球温暖化=地球環境ガバナンスにおいて主導権を握ろうとしているということに注目したいと思います。同フォーラムにおいて、中国が「世界の人権ガバナンスに新たな方向、道筋、原動力を示した」と誇示したように、経済力のみならずイデオロギー的影響力を意識し、西側の自由主義、個人主義原理に対抗して制限人権論を打ち出し、旧第三世界の囲い込みにも乗り出しているのです。旧第三世界の旗手だったころの思想的ヘゲモニーを取り戻そうとする試みでもあるように思います。そこには中国共産党、または中国政府としての自国の革命的伝統への矜持と市場社会主義への自信が認められないことありません。
中国革命がいわば「コミンテルンに反する革命」―都市・労働者階級によるのではなく、農民階級を主力とする都市包囲戦略による権力奪取―だったように、中国は自身の歴史と文明に基づく民族的な独自性を誇りとしているのです。西欧を模倣し尽くす已むを得ざる努力の向こうに、自前の知恵と力で西欧諸国を追い越すこと、ポスト資本主義に向けて苦吟する先進諸国を射程圏内に捉えつつあるという確信と中華帝国への確かな手ごたえがあるのでしょう。もちろん経済政策の実態はネオ・リベラリズムですから、中国経済がこの先ポスト資本主義という意味での展望を示す見込みがあるようには思えませんが、その勢いを侮る愚は避けるべきでしょう。
<人権論に関する若干の原理的考察>
英国の歴史家E・ホブズボーム※は、その書「いかに世界を変革するか」(作品社 2017年)のなかで、1930年代から第2次世界大戦にいたる反ファシズム統一戦線の時代を回顧して、マルクス主義陣営と非マルクス陣営との間で思想的な相互作用・相互浸透がみられ、啓蒙や理性や進歩などといった共通基盤が再発見されたことを特筆すべきこととして挙げています。厳密な歴史的考証は私の能力に余りますので、人権概念について両陣営の今日までの相互の歩み寄りのあとを探り、人権論の若干の方向付けをしたいと思います。
※ソ連・東欧社会主義圏の崩壊は、西欧マルクス主義者に、たとえ彼がそれまでソ連型社会主義にいかに批判的だったにせよ、何ゆえ現存の社会主義が破産したのか、それが社会主義の理念そのものの破綻を表すのかどうか、もし21世紀にも社会主義が有効だとすれば、どの程度まで理念や戦略体系の修正が必要なのか等につき、主体的な責任ある立場で解明し、変革を志す次世代につなげていくという役割を課していますが、ホブズボームはまぎれもなくそれを果たした知識人の数少ないひとりでしょう。
Ⅰ.ヘーゲル・マルクスの市民社会観と人間観
ヘーゲルは市民社会を商品経済活動が織りなす「欲求の体系」「相互依存の体系」(法の哲学 §188~198)と捉えましたが、マルクスはこれを批判的に踏襲して、市民社会を資本主義の経済機構そのものとしました。この市民社会を構成する人間は、いわゆるhomo economicus(経済人)という、もっぱら自己利益のために経済活動を行う利己的人間であると考えるA・スミスの見解に、ヘーゲルもマルクスも基本的に倣ったのです。ただスミスは個々の経済人が自己利益を追求なかで「見えざる手」によって結果的には公的利益が実現されるとして、経済人の利己的なあり方を肯定的に捉えました。それに対しヘーゲルはスミス経済学を哲学的に読みかえながら、独自の市民社会論を展開します。市民社会の中では各人は自己の特殊利益を追求しながらも、経済法則の普遍形式に媒介されて欲求と全面的相互依存の体系に組み込まれていく。しかしその場合の市民社会の普遍性は真の普遍性ではない(商品関係に媒介された社会的分業という形式的普遍)ため、「富の過剰にも関わらず十分富んではいないことが、すなわち貧困の過剰と賤民の出現を防止するに足るほどもちまえの資産を具えていないことが暴露される」(「法の哲学」 §245)とか、「これ(賤民の出現)に伴って他方では同時に不釣り合いな富が少数者の手中に集中することがいっそう容易になる」(同 §244)とか、「この(特殊な固定化した)労働に縛り付けられた階級の隷属と窮乏とが増大し、これと関連して…とくに市民社会の精神的便益を感受し享楽する能力を失う」(同 §243)とかいった矛盾が不可避的に生じることになる。その矛盾を解決するには国家という全体性に媒介されて具体的普遍の立場へ移行しなければならないとするのです。
ヘーゲル流の難解な言い廻しを今日風にパラフレイズすれば、ヘーゲルがめざすのは国家による所得の再分配や社会保障・社会福祉を図ることによって階級対立を緩和し、貧富の格差拡大を抑制しようとする福祉国家的解決方法だといえます。これに対し、周知のようにマルクスは市民社会の内部の階級的な矛盾は、国家によってではなくてそれ自体の論理・法則において解決されなければならないとして、その仕組みを解明すべく「市民社会の解剖学」としての経済学の本格的研究へ向かうのです。ただしここではそのことが主題ではありません。
繰り返しになりますが、フランスの市民革命によって達成された市民社会の原理としての個人的自由と私的所有を、ヘーゲルもマルクスも一方で歴史の巨大な成果としつつ、しかしカントのように自立的個人の自由を絶対視せず※、市民社会内で矛盾をはらむものとして批判的に捉え返されます。マルクスの場合、市民社会はブルジョア社会・資本主義社会の経済的な仕組みそのものとみなされ、その仕組みの根幹をなす私的所有の上に立脚する個人主義、自由主義の限界を批判するのです。人間は生まれながらに自立した人格を有し、自由などの人間的諸権利を有するとする自然法的な人間観、人権観をマルクスは、南海の孤島で社会と隔絶して生きる「ロビンソン・クルーソー」モデルだとして批判します。若きマルクスは、本来人間は類的存在(共同で生きる存在―筆者)であって、利己的で原子論的な(バラバラな)個人とか、自由で自立した個人という表象(イメージ)は、じつは資本主義社会の中の疎外された一面化された人間の在り方の反映にすぎないと考えたのです。
※カントも近代契約論=相互承認論の磁場の上で発想していますので、社会的な関係性を完全に無視しているわけではありません。「他者を手段とみなしてはならないこと」、他者を目的とし他者の尊厳と自由をどこまでも相互に尊重し合うこと、これを最高の道徳律としています。しかし家族や社会といった中間的な媒介項なしに個人道徳と普遍的道徳律をストレートに結びつけることにヘーゲルは批判的なのです。
有名な若きマルクスの「フォイエルバッハに関する第6テーゼ」では、「しかし、人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」と述べて、社会関係から切り離された原子論的人間像や自然法的(生まれながらに有する)市民的諸権利を、ブルジョア的一面性を免れないとして厳しく批判したのです。したがって市民社会も本来の在り方の社会ではないとして、「古い唯物論の立脚点は市民社会であり、新しい唯物論の立脚点は人間的社会あるいは社会化された人類なのである」(同 第10テーゼ)とするのです。
Ⅱ市民革命と社会革命の相互作用
それがマルクスの真意にかなっているかどうかは別にして、正統派的マルクス解釈では、欧米流の人権概念や市民的諸権利は、いま述べたブルジョア的人間観に基づく一面性を免れないと同時に、法的権利として謳われていても、実質的な経済的・社会的不平等や不自由を覆い隠す機能―たとえば市民的自由の裏側の賃金奴隷制―を果たしているとして伝統的にはあまり重視されませんでした。その代り社会権と総称される生存権(幸福に生きる権利)、労働する権利、教育を受ける権利、社会保障を受ける権利などが強調されてきたのです。
「南南人権フォーラム」における中国共産党の制限人権論は、依然このような正統的解釈の延長線上にあることが、以下の一節からも分かります。
―「途上国は世界人口の80%以上を占める。世界の人権事業の発展には途上国の共同努力が不可欠だ。中国が国情に基づき、生存権と発展権を最重要人権とし、法に基づく、全面的で漸進的な人権発展を堅持し、絶えず突破口を開き、歴史的成果を挙げていること自体が世界の人権事業への貢献であり、途上国の人権保障水準向上にノウハウと参考を提供することにもなっている」(太字・筆者「人民網日本語版」)
「現存社会主義」に共通したのは、西欧型の市民的諸権利の一面性を突くことによって、あるいは自国経済の発展段階・状況を楯に、自己の体制における政治的自由の制限や剥奪などの人権抑圧を正当化する論法でしたが、中国は現在なおこの圏内にとどまっているといっていいでしょう。
それに対し、いまは昔の話になりますが、1970年代にユーロ・コミュニズム路線に転換した諸共産党(日本共産党含む)は、複数政党制、市民的自由や人権擁護を強く打つ出すことになりました。資本主義の発達が十分でなく、ツァーリのくびきの下で市民社会形成も未熟だったからこそ,或いは第一次大戦における総力戦という特殊な状況下でのみ可能だったロシア革命型の権力奪取ではなく、基本的に議会制度を通じた平和的な権力移行をめざす、先進国の国情に即した改革路線への転換でした。すでにレーニンやスターリンの経験との断絶は明らかであるにもかかわらず、それでもなお革命の伝統にこだわって、苦闘しながら連続性をも担保しようとしたのがユーロ・コミュニズム諸党でした。政治思想家としてのグラムシは、ロシア革命との連続性と断絶のクロスロード(交差路)に位置する人であり、本人らが創立したイタリア共産党そのものが消滅した現在、いまなお思想的意義があるとすればどのようなものか、護教論的な罠に陥らず左翼の閉塞状況を突破する上でも真摯に検討すべき課題でしょう。
さて、ソ連崩壊のあと、ロシア革命が二十世紀前半部にもった歴史的意義を抹殺しようとする反共的な思潮も盛んになりました。歴史は資本主義から社会主義へ向かうのではなく、資本主義―本人は民主主義という―が歴史の終点であるとする、フクヤマ流「ネオコン史観」が一世を風靡しました。1980年代から1990年代はネオ・リベラリズムの全盛期でしたが、2008年のリーマン・ショックに端を発する世界的な金融危機でその生命力が尽きかけているようにみえました。ただ、ネオ・リべラリズムに替わるオルタナティブ―資本主義の別の形態にせよ、社会主義的な何らかの形態にせよ、両者のハイブリッドな形態にせよ―の展望が描けない現状では、危機の深刻化は地球環境の危機にみられるようにグローバルな共倒れの危険性を孕んでいます。
それはともかく話を元に戻すと、ロシア革命が西ヨーロッパ諸国に対し有した影響は、革命の輸出には失敗はしたものの、非常に大きいものでした。革命の波及を恐れるヨーロッパの政権党は、高揚する国内の労働運動の圧力もあり、資本家的利得を減らし労働分配率を高めるという大きな譲歩をせざるをえませんでした。ドイツでは19世紀後半から伸長したドイツ社会民主党のもとで種々の社会政策が行われたこともあり、第一次大戦後ワイマール憲法で初めて「社会権」が謳われたことは画期的な出来事でした。社会権は形式的な市民的諸権利だけでなく、種々の社会政策を通して勤労者階級の生活に関わる実質的な諸権利―労働、福祉・医療、教育等―を充実させるものでした。その後、1930年代の反ファシズム運動の中で、自由主義者、社会主義者、共産主義者、無政府主義者が、あるいは「神を信じる者も、信じない者も」(フランスの詩人ルイ・アラゴン)ともに共同の隊列を組んで―人民戦線―ファシズムと闘うなかで、思想的に相互に影響を与え合うことになったと、ホブズボームは述べています。そしてさすが大英帝国ならではというべきでしょうか、1941年ナチスとの死闘(The Battle of Britain)のさなかに答申された「ビバレッジ報告」は、「ゆりかごから墓場まで」と称される戦後の西欧、北欧の福祉国家政策の雛型となったのです。かくして戦後の先進諸国では市民的な自由と生存権の保障は、共通の普遍的な国家的な規範となったのです。
Ⅲ 市民社会という範疇の意義
マルクスには、資本主義社会とは相対的に別個の範疇として市民社会を捉える観点は一見ないようにみえますが、しかし社会主義をアソシエーション(自立した諸個人の自由な連合)とみなすその観点には、市民社会論と共通の思想的磁場を内在させているように思われます。いつのころからか分かりませんが、市民社会という言い方は、近年はマルクス主義的文脈とは関係なく海外ではジャーナリズム用語として普及しています。NGOや労働組合、一般市民などを総称して、「市民社会の側から、スーチー政府へ異議申し立てがあった」などという表現をよくみかけます。
推察するところ、市民社会は自発的な市民組織、非政府組織や私的個人的なイニシアチブによる種々の活動が展開される自由な空間をさす言葉として用いられているようです。もちろん私的な企業活動が展開される領域でもあるので、単純に公共空間とはいえないにしても、企業活動に対しても公共的なコントロールの機能する場、あるいは営利活動と奉仕活動のハイブリッド方式ともいえる社会的企業などの登場にみられるように、公共的社会連帯的磁場の強い領域と観念されているようです。しかも国家(政府・官僚機構)と市民社会との境界線は固定しているわけではなく、国家的な領域をたえず市民社会の公共的な活動領域に取り込んでいき、支配―従属につながりやすいタテ関係をフラットな関係に造り変えていくところに、今日的な市民社会の民主主義的機能の意義があるのです。(逆に日本のように、市民社会領域が国家的な規制〔安保法制や秘密保護法〕によって浸食され、狭まって行く場合もあるのです)
さて、ヘーゲル「法の哲学」――言われるほど保守的ではなく、随所に哲学者ならではの卓見が窺われます。若いマルクスが批判の標的にしたのは主に観念弁証法というその方法論でした。経験的事象から出発してその内在的な論理を探求するのではなく、はじめに既成の弁証法的論理ありきで、そこに経験的事象を当てはめて解釈する点を現状肯定主義としてマルクスは激しく批判したのです。しかしルカーチが「若きヘーゲル」で論証したように、その方法論も若い時代には既成性(establishment)に対する「否定性の弁証法」(マルクス「経済学・哲学手稿」)として革新的な意義をもっていました。ともかくマルクスの批判だけにヘーゲル哲学が尽くされるわけではありません。
一例をあげましょう。国家―その一部としての議会―と市民社会との関係にふれて、諸個人が原子論的に解体されている市民社会においては、国政にすべての個人が形式的に参与する権利をもつというだけの抽象的な民主主義的原則では不十分だと批判します。個人という特殊が国政という普遍に抽象的に関係するだけでは不十分であり、中間的な媒介項が必要だというのです。これは明らかにJ・ルソーのいう代議制民主主義の不完全さ、つまり「選挙民は投票する際に一回だけ自由であって、それが終われば元の奴隷に戻る」という批判を踏まえての見解で、ヘーゲルは職業団体や地方自治団体などの中間団体を通じて議会に代表者を送りこむべきだとします。このアイデア自体は圧力団体による政治支配(ロビー政治)につながるのでそのまま受け入れるわけにはいきませんが、ヘーゲルの真意を正確に押さえる必要があります。つまり市民社会といってもそのなかで砂のようにバラバラな個人のままでは国家に対して影響力を行使できず、人間は自由とはいえない。個人の自由度を高めるためには、国家と個人の中間にある諸組織(労働組合、同業組合、自発的市民団体等)が多彩に組織されて、市民社会の分節化の度合いを高め多元的な構造にする必要があるというのでしょう。これはフランス人の政治思想家トクヴィルが、19世紀前半アメリカ東部で実地見分したアメリカ民主主義の活力の源泉についての記録と一致しています(「アメリカの民主主義」岩波文庫)。トクヴィルの観察した東部アメリカのタウンシップでは、アメリカ人は自在に様々な自発的組織を立ち上げ活発に活動しているというのです。それとは逆に、「アメリカの民主主義」とその影響を受けたといわれる福沢諭吉の「文明論之概略」に照らしてヤンゴンでの人々の生活をみるとき、ミャンマー人社会の活力のなさがその組織性や内在的な秩序形成の欠如にあることに容易に気付かされるのです。二人いれば、三つの政党ができると自虐的に語られるミャンマーの分散的政党政治状況の根っこもそこにあるのでしょう。国家―市民社会問題では、両方の領域に足場を持つ政党問題が極めて重要です。市民社会の要求を議会や政府の政策に反映させる役割を負うと同時に、民意を調達するための啓蒙教育機能や組織者としての機能を負っています。日本の野党の政党状況が安倍独走を許しているだけに、この問題への探求を原理的かつ実践的に深める必要があるでしょう。
<市民社会範疇の日本的系譜>
市民社会範疇の意義について、不十分ながらいくらかお分かり頂けたと思います。かつて1970年年代に左翼内に「市民社会」派と呼ばれるゆるやかな一潮流が形成されました。当時のユーロ・コミュニズムの動きに呼応して市民革命と社会主義革命の橋渡しを企図したものでした。経済学者の平田清明氏が開拓者精神を発揮して、社会主義革命は私的所有を止揚するのだが、それは同時に「個体的(個人的)所有」の再建という意義を持つということを「資本論」の記述に依拠して論証したものでした。解釈としてはやや強引な感はありましたが、既存の社会主義が社会的所有の名のもとに官僚独裁に陥った経験を踏まえ、ある種個人の人間的自立や内面的自由の契機を社会主義的変革に不可欠なものとして位置づけたという意味では意義がありました。
もちろんただちに理論的正統派から階級的性格を欠いた市民社会概念など科学的に有意味ではないという反論があったのですが、それはマルクスの伝統的解釈から外れているというだけの意味しかありませんでした。そのような理論的センスは、日本共産党が市民運動などの新しい自発的自立的運動形態に対する感受性に著しく欠けていることとパラレルであり、そのため日本社会の変容について行けず、70年代はじめの影響力が次第に衰えていく一因となりました。
たしかに平田氏らの理論的試みはアカデミズムの範囲内にとどまり、戦術化されて実際の政治活動に生かされることはありませんでした。※西独の68世代の運動が、70年代からは環境問題やジェンダー問題といった新しい社会問題分野への挑戦に方向転換し、やがて「緑の党」の結成にいたる流れと比較すれば、市民社会論の日本的議論の未熟さが分るでしょう。しかしその後、市民社会概念が日本を含めアジア諸国の近代化を検証する際のキーワードになったことは疑いありません。市民社会概念は人権概念と同様に、一方で実態概念(ザイン 存在)であると同時に、他方で規範概念(ゾレン 当為)という二重性をもっています。つまり人権重視の在り方をする社会という意味での市民社会と、めざすべき人権重視型社会という意味での市民社会の両義性があるわけです。発展途上国においては、規範概念としての市民社会の意味合いの方が強くなります。また人権概念についての深化もあります。コスモポリタン的と揶揄されながらも国連や国際NGOはじめ各国の外交努力によって、それは国民国家の枠を超えた普遍概念として次第に認知されてきました。マルクス主義の伝統では超歴史的な概念を認めないのですが、人権概念は社会体制の如何や文化的な多様性の如何にかかわらず守るべき規範として、いわば「歴史貫通的」(内田義彦)、「諸社会貫通的」な普遍的意義を帯びるに至っています。
<市民社会概念の西欧的系譜>
今日文化的相対主義が盛んななか、ヨーロッパ中心史観としてなにかとやり玉にあげられるヘーゲルですが、人権概念や市民社会概念の哲学的彫琢に果たした役割には無視できないものがあります。たしかに歴史に目的があるとする歴史観は、キリスト教のエスカトロジー(終末論)に由来するものであり、少々鼻につくところはありますが、思想的エッセンスにおいては普遍主義であり、Euro-centrismヨーロッパ中心主義とは無縁です。ヘーゲルの自由論を人権論にパラフレイズすれば、その核心は地球上のすべての人間が民族・宗教・人種・地域等の差異に関わりなく、誰一人例外なく権利を享受するに足る人間であるとするところにあります。具体例でいえば、ヘーゲルは「世界史とは自由の意識における進歩である」として、東洋では専制君主一人のみが自由、ギリシア人・ローマ人では特定の人のみが自由で人間そのものが自由であることを知らない、ゲルマン国家の受け入れたキリスト教において初めて人間そのものが自由であることの認識に達した、としています(太字・筆者「歴史哲学講義」(上)岩波文庫版 P.39)今日の人権概念はこの人間そのものが自由であるとする思想に基づいているのです。キリスト教云々は邪魔ならカッコに入れてもいいでしょう。生誕の地であるキリスト教的枠組みを超えて、自由を核とする人権概念は世界的普遍的意義を帯びるに至ったのですから。
ヘーゲルの中国分析にはなかなか厳しいものがあり、中国人なら拒否したくなる評価を含んでいます。しかしヘーゲルの所見はレーシズムとは無縁であり、中国人を東洋人と置き換えると、アジア諸国における人権状況の共通した脆弱性の淵源を示唆しているように思われます。ヘーゲルによれば、封建中国においてはゲマインシャフト(共同体的)な精神と個人が、家族精神において一体化しており、主体性の契機は不在で共同体的なものへ無自覚に追従し、自立的で市民的自由が欠けている、と。
これとほぼ同一のことを、イギリスの生化学者にして科学史家であるジョセフ・ニーダムは、二十世紀の記念碑的大作「中国における科学と文明」(筑摩書房、2009年)、および「文明の滴定」(法政大学出版局 1974年)のなかで述べています。中国は科学技術文明の程度においては、16世紀までは西欧と比べても遜色なかったにもかかわらず、ガリレオ=ニュートンを嚆矢とするヨーロッパの科学技術革命と同様なものは中国では起こらなかった。ニーダムは自らなぜ中国それが達成できなかったのかと問うて、中国史には市民社会が欠けていたからだと答えています。市民社会が不在であるということは、つまり自立的で自由な個人が存在しなかったということです。詳しくは述べませんが、ガリレオ=ニュートンによって切り拓かれた近代動力学における法則的数学的な物理世界把握は、個人の自由、個人尊重の思想を前提にしてはじめて可能となったものだというのです。人間が原初の自然性=共同体への埋没から精神的に自身をもぎ放し自立する過程は、自然を主観とは対極にあるものとして対象化する過程とパラレルであり、それなしには法則的な対象認識は成立しなかったのです。
この点でのニーダムの総括はヘーゲルの所見と一致しています。「学問はこの上なく尊敬され、保護育成されるように見えながら、他方内面性という自由な土台と理論的な探求へ向かう本来の学問的関心が、中国にはありません。・・・学問と名づけられるのは経験的な性質のものばかりで、本質的に国家の役に立つもの、国家と個人の必要を満たすものにすぎません」(「歴史哲学講義」(上)P.222)ニーダムが膨大な資料を駆使し得た結論は、たしかに火薬、羅針盤、活版印刷の三大発明をはじめ製紙法、製磁法、水利技術、機械工学、天文学など西欧をリードする多くの業績はありつつ、それらはすべて実用性には富んでいるものの数学と融合して普遍的な科学となることはできなかったということでした。
つまり学問・科学の創造性は、個人の自由、研究の自由に担保されて初めて花開くということでしょう。逆に言うと、専制体制のもとでも他国の科学技術の模倣は可能だが、個人の自由なイニシアチブを必要とする独創的研究やイノベーションには限界があるということです。まさにそれは七十余年のソ連邦の歴史において実証されたことでした。
ところで、ニーダムの言う市民社会概念を市民的エートスと置き換えれば、そうです、M・ウェーバーの議論と符合することに気付くでしょう。ニーダムが中国史に欠けているものとして市民社会を指摘したとすれば、ウェーバーは西欧史のなかから「他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象」(宗教社会学論集・序言 みすず書房1978年)としての合理主義―市民社会も科学技術もその所産―を生み出した市民的エートスを析出したのです。世界史において、西欧の地盤においてのみ成り立ちえたこの「市民」階級が、西洋的合理主義、とりわけ資本主義の経済的合理主義の担い手となったのだとしています。
今日、資本主義的合理化が生み出した巨魔的な技術力・生産力を人類はコントロールし損ない、ある種自らを破滅の危機に追いやっている状況にあります。ITによる高速通信技術や高速運搬手段が地球を狭くしたというだけでなく、人類の産業活動によって排出される廃棄物質が地球の浄化能力を超え、それが修復不可能な閾値に達したかもしれないという意味で、地球を小さすぎるものにしてしまったのです。拡大再生産(成長)のためにたえず新しい需要を求め、新たな市場(フロンティア)を開拓していかなければ自己崩壊する危険性のある市場経済が求める無限性は、地球環境や地球資源の有限性と両立しがたいことは誰の目にも明らかになっています。しかも環境要因を度外視しても、グローバル経済の不安定性や不確実性は常態化しており、各国各地域に紛争や迫害による難民を増大させ、それがまた新たな紛争の火種となる状況です。
資本主義的合理化の進行の果てに、恐るべき狂気が社会のなかに蔓延しつつあります。
ミャンマーでみられるような国家による大量殺人はもとより、テロ、通り魔、無差別殺人、弱者への虐待、育児放棄、自己ネグレクト等々、現代社会における文明の挫折としての病理現象が止めどなく広がっています。何故にそうなるのか。なるほどグローバルな競争社会が人々の精神に重い負荷を課していることもありますが、もうひとつ重要な要因は、人間関係、とりわけ親子や友人、隣近所との原初的共同体関係の希薄化があります。人間関係のぬくもり、信頼のまなざし、大切にされることからくる安心感、親密感のよろこびなどが幼児体験として刷り込まれていなければ、人間精神は成長の糧を失い、苛立ちや不充足感から情緒不安定が昂じて自我の自己破壊へと向かうのです。近年の多くの犯罪が若者の自己破壊衝動に起因することが、それを裏付けています。
いずれにせよ、現代の危機を乗り越えるためにはポスト・モダン系譜やネオ・リベラリズム系譜のニヒリズムの克服が重要です。資本主義的合理化の元凶として18世紀啓蒙思想や理性信仰を清算すべきだとの見解も有力ですが、しかし1930年代のファシズムの経験は現代の危機を乗り超えるのも合理的理性であり、新たな世界市民的エートスを創出する以外ないことを教えています。
<補論:ホブズボームのアルチュセール批判
―知識人サークルで自己完結するマルクス主義への批判>
ホブズボーム(1917~2012)はその著「いかに世界を変革するか」のなかで、1960年代から70年代にかけて一世を風靡した、フランスのアルチュセール学派の構造主義的マルクス主義解釈に対する批判を行なっています。「アルチュセールがあたかもマルクス『資本論』を主に認識論の著作であるかのようにみな」しており、「哲学は…実践に取って代ることさえあった。現実の世界の探求と分析は、世界の構造とメカニズムについての一般化された考察の背後に、あるいはそれどころか、そもそも現実世界はいかにして理解可能かといったなおいっそう一般的な研究の背後に退却してしまった」(同 P.474)として、その認識論主義的、または主知主義的傾向を批判しています。おそらくホブズボームは、世界を変革するという課題に正面から向き合うより、理論によって、つまり認識の仕方を変えることによってマルクス主義の隘路を切り抜けようとする傾向を、マルクス主義の退却戦にともなう高等戦法にすぎないとみなしているのです。だとすれば、構造主義的マルクス解釈が、主客二項対立図式という近代的地平を超える新しい画期的なパラダイムだとする主張する立場は認めがたいでしょう。パラダイム変換に値するものであれば、たんにアカデミックな関心事にとどまらず、ウェーバー的意味での新しいエートスの創出、世界観なり価値観なりの変革を喚起するはずですが、そうした影響は認められませんでした。構造と言っても言語構造のように超階級的で相対的に安定したものもあれば、社会経済構造のように絶えず変動し、主体の立ち位置によって見え方に違いがあるものもあるのです。もしマルクス主義的な理論を自称するのであれば、認識論であれ何であれ、変革主体形成の論理を内在させたものでなければなりません。資本論におけるマルクスの構造分析の特徴は、経済構造の再生産を通じて既成の構造を打破する否定性の契機、とりわけ主体の契機が生まれてくるとしたことでしょう―「標準労働日をめぐる闘争」参照のこと。それはいわゆる近代経済学が経済構造の客観的数理学的分析をもっぱらとするのと対照的です。政治経済学批判としてのマルクス経済学の背後には、人間は社会関係のたんなる囚われではないこと、社会関係の形成に主体的に介入もする存在であるというアクティブな実践哲学が据えられています。
ホブズボームの批判をみると、ヘーゲルがカント認識論―世界がいかにして認識可能かとしてその可能性の条件を主題とする―を評して、実際に水の中で泳がず、畳の上で水練しているようなものだと揶揄したことばが思い出されます。純粋理論構築を世界の具体的分析から切り離さないことをホブズボームは求めています。ホブズボームはフランスにおける構造主義的イデオロギーの背後に、イギリスの経験論的伝統と比較して、フランスの高等教育機関(高等師範学校 エコール・ノルマル・シュペリエール)のエリート主義があり、哲学が特権的なカリキュラムの位置を占めている事情があるとしています。
そのことをもっと大きな時代変化に関連付けて言うと、個人の主体性こそ哲学の絶対的立脚点とするサルトルらの実存主義から、構造が主であり主体は従であるとする構造主義への流行思潮の変化は、明らかに戦後資本主義の変容を反映するものでした。
冷戦下で世界は二分されつつ、パクス・アメリカーナのもとで西側資本主義は空前の繁栄期、黄金期を謳歌し、ガルブレイスのいう「新しい産業国家」の時代を迎えます。システム管理型社会の成熟は、個々の主体ではなくシステム優位の思想を育てます。専門的管理者層という匿名の集合的主体が、市場と需要を管理し、福祉国家政策と両輪となって資本主義の安定期を形成しました。こうした、いわば没人格的客観的な経済・社会過程と、歴史を主体なき過程、目的なき過程とするアルチュセールの構造主義イデオロギーとの親近性は容易に見て取れるでしょう。歴史の目的論を排除し、科学主義を徹底する知的態度は、テクノクラートの精神的特性とも親和的です。さらに歴史を主体的に動かす特定の社会勢力を認めず、社会主義などの歴史の特定の方向性も認めず、歴史を偶然の集積とする最晩年のアルチュセールの立場は、もう次のポスト・モダンと指呼の間にあることは明らかでしょう。マルクス主義の、というかアルチュセール的マルクス主義の自己解体のいわば象徴的出来事として、アルチュセールの晩年の悲劇(発狂と殺人)はあったように思われます。
そして構造主義のあとに続くフーコー(アルチュセールは、高等師範でフーコーの教師)は計画化社会に潜む抑圧構造を暴露し、また西独のフランクフルト学派のマルクーゼが福祉国家型管理社会への反撥を深める68年世代の思想的バックボーンとなりました。しかしさらに70年代に入り、ニクソン・ショックによるブレトンウッズ体制の崩壊は、安定した「新しい産業国家」の計画化体制社会の時代が終わり、「不確実性の時代」(ガルブレイス)へ移行したことを告げるものでした。その後の新自由主義の抬頭と隆盛、さらにはソ連圏社会主義の終焉へと至る時代の流れは、68世代の多くのものにとっては予測だにしない驚きの連続であったはずです。ホブズボームの「極端な時代―20世紀の歴史」(三省堂 1996年)は、学者というより20世紀の諸々の重大事件の現場に立ち会った同時代人としての経験を踏まえた証言であり、かつ優れた理論的総括の書でありました。12年におよぶヤンゴンでの文化的な鎖国的な生活から帰国してめぐり会った、まちがいなく最高の書のひとつでした。 (おわり)
2018年1月17日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion7279:180118〕