原爆慰霊碑の碑文論争
広島平和公園を訪れた人なら、必ず立ち寄るのが公園中央にある原爆慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)である。一つ前の記事に載せた平和公園・周辺マップでいうと、番号20である。
8月28日12時過ぎ、きつい日差しが照りつける原爆慰霊碑に近づくと、某宗教団体の老若男女一行が碑の前に並んで引率者(?)の説明に聞き入っていた。次いで引率者は、「それではこれから代表者に花束をささげていただきます。代表として○○さんと○○さんにお願いします。皆様は唱和をお願いします」とマイクで語り、碑文を読み上げ出した。
安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから
原爆慰霊碑は、「原爆犠牲者の霊を雨露から守りたい」という気持ちを込めて埴輪の家を形どり、1952年8月6日に完成したものである。碑文は一般から公募した文案をもとに濱井信三広島市長(当時)の委嘱を受けた雑賀忠義・広島大学教授(当時)が選考したものである(以上、澤野重男・太田武男ほか著『観光コースでない広島』高文研、2011年8月、40~41ページ参照)。
ところが、この碑文をめぐって、その後、断続的に論争が繰り広げられた。「碑文論争」と呼ばれる議論である。論争の要旨をかいつまんでいうと、この碑文では誰のどういう過ちかを何も語っていない、これでは被爆の教訓を伝えることにならないし、犠牲者を弔うことにもならない、という碑文批判派(碑文を書き改めるべきという主張)と、誰のせいかを詮索することよりも人類全体への警告・戒めとして碑文の意味を受け止めるべきだという碑文擁護派(碑文はそのままでよいという主張)の対立である。
私もこの論争について昨夏、広島を訪ねた前後に多少、文献を調べたことがある。その折、原爆と文学の会編『原爆と文学』誌に舟橋喜恵さん(広島大学教授・その後名誉教授)が2編の論文を発表しているのを知り、国立国会図書館に複写申込みをしようとしたが、雑誌を修理中とのことで入手できなかった。今回、8月28日の午後に、昨夏も利用した広島市立中央図書館の出かけ、3階の広島資料室で探し物をしていたところ、同誌のバックナンバーが開架に並んでいた。2007年版で廃刊となっていたが、それまでの各号を調べてみると、舟橋さんが1999年版、2000年版、2001年版、2007年版に計4本、碑文論争を扱った論文を発表しているのがわかった。
①舟橋喜恵「だれの『過ち』か」『原爆と文学』1999年版、50~58ページ
②舟橋喜恵「碑文論争――パル博士のコメント」『原爆と文学』2000年版、
38~44ページ
③舟橋喜恵「1957年の碑文論争――もっとわかりやすい碑文を――」『原爆
と文学』2001年版、92~102ページ
④舟橋喜恵「原爆碑文論争の再燃」『原爆と文学』2007年版、6~13ページ
(以下、引用に当たっては、舟橋論文①・・・と表記する。)
これら舟橋論文を通読して、碑文論争は単なる表現の話でなければ、賛否の色分けをして済む問題でもなく、火種~一言でいえば、戦争責任をめぐる被害と加害の二重性~は今日もなお未解決のままくすぶり続けていると感じた。そこで、以下では、これら舟橋さんの論文を軸にして碑文論争の経緯と今日的意味を考えることにしたい。
「誰の過ち」なのか~碑文の主語をめぐって~
世上、碑文論争は東京裁判でただ一人、日本人戦犯無罪論を主張したインドのラダビーノ・パル博士の碑文批判に端を発するかのように言われているが、舟橋論文①はこのような通説を斥け、論争は原爆慰霊碑の除幕式が行われた1952年8月6日直後の新聞投稿欄を舞台にして読者参加型で始まっていたことを、投書を引用しながら立証している。
論争の口火を切ったのは1957年8月10日の『朝日新聞』の「声」欄に掲載された「繰返させません」と題する次のような意見だった。(以下、A, B, C・・・・の記号は筆者が付けたもの)
A:「・・・・前文はたれも異存あるまい。・・・・しかし後文については、私は大いに異議がある。『あやまちは繰り返しません』では『過誤は我にあり』ということになろう。これで犠牲者が、安らかに眠れようか。
残虐きわまりない原爆を落としたのはたれだ。米国人は一様に『原爆投下は終戦を早め、無用の抵抗によるより大きい犠牲を防ぐために・・・・』との弁解をするが、それは決して原爆の残虐性を帳消しにする理由にはなるまい。ここでこの戦争の責任をとやかく論議しようとは思わぬが、日本の、広島の当局者がいまなおわけもなく卑屈にみえることを、実に遺憾に思うのである。・・・・後文はよろしく『過ちは再び繰返させませんから』と刻み直すべきであろう。」(中村良作=短期大学教授)
この投書が掲載されてから4日後の1952年8月14日に、同じ『朝日新聞』の「声」欄に次のような2つに意見が掲載された。
B:「なるほどあのむごたらしい原爆はアメリカによって投ぜられ、広島、長崎の市民はいいようもない哀れな犠牲者であった。それにつけ満州事変、否もっと以前から日本を支配し、破局に導いたあまりにも非論理的な指導原理、われわれ国民のふがいないまでの盲従性、それらへの反省が昨今の逆行現象をみるにつけ、いま新にされるのである。われわれが繰返させまいと努力すべき対象は、国内にも、国外にも余りに多い。また自身の心のうちにもありはしないかということを考えたいと思う。」(福岡市・江崎文子=主婦)
C:「・・・・この文字が日本人とか、広島人とかの狭い立場から刻まれたものであるとすれば、10日この欄の中村氏の非難は妥当であろう。しかしそうではあるまい。あの言葉は広く人類全体の誓いとして、永遠に消えない碑石に刻まれたものであり、碑前に立つ一人々々が『あやまち』に対する謙虚な反省と共に、将来誓う言葉として心に深く刻んで帰るべきものであると解したい。『過ちは繰り返させませぬ』――これは『繰返しませぬ』と誓った人の胸に当然帰結する厳粛な決意であるはずだ。・・・・・」(広島県・永井伸彦=学生)
舟橋論文①はこの後、同じ年の8月から10月にかけて、『中国新聞』に掲載された堀田善衛氏、矢内原伊作氏、武谷三男氏の意見を紹介している。一言で言うと、堀田氏は、いつも被害者にされっ放しの民衆の立場に立つ誓いであるなら、「繰返させませんから」でなければならないという意見、矢内原氏は立派な記念碑を建てることよりも加害者への怒りを燃え上がらすことの方が大切と指摘した。機知に富んでいるのは武谷氏の意見で、「私はむしろ『ねむらずに墓の底から叫んで下さい。過ちがくり返されそうです』と書きかえるべきだ」と訴えた。
パル博士の碑文に対する疑義
パル博士の碑文批判が公になったのは、武谷氏の論評が『中国新聞』に掲載される4日前の『中国新聞』紙面だった。
D:「この碑文に『過ちは再び繰返しませんから』とあるのはむろん日本人をさしていることは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う、ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものの手はまだ清められていない、・・・・・
この過ちとはもしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない、その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である、国民がその良心に重い罪の悩みをもっていれば、いかなる国民も進歩、発展はないということをよく記憶せねばならぬ、過ちを繰り返さぬということが将来武器をとらぬことを意味するならそれは非常に立派な決意だ、日本がもし再軍備を願うなら、これは犠牲者の霊をボウトクするものである、これを書いた当事者はもっと明瞭な表現を用いた方がよかったと私は思う。」
この中で、「この過ちとはもしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない、その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である」というくだりはパル博士が東京裁判で主張した日本戦犯無罪論の根底にあった太平洋戦争史観の延長線上のものといえる。そこには原爆犠牲者も含む戦争被害者としての日本人の立場、アメリカの原爆投下責任を厳しく追及する良識的判断を含む一方で、日本によって侵略されたアジア諸国に対する日本の重層的加害責任(侵略戦争を主導した天皇を頂点とする政・軍首脳の第一義的責任と、そうした侵略戦争の開戦・継続を許した日本人の第二次的責任)を看過するという弱点が併存していた。そのため、舟橋論文①も指摘したように、パル博士の主張は「日本に戦争責任はないという断固たる意見表明によって、『過ち』の中味を問う姿勢がおざなりになり後退することになった」のは否めない。
また、こうした弱点があったがために、パル博士の碑文に対する疑義は、1950年7月にマッカーサーの指令によって結成された警察予備隊が52年10 月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組されるというように再軍備への道を進みつつあった日本の政治情勢に対する警鐘の面があったにもかかわらず、それが軽視され、日本無罪論の面だけが脚光を浴びたため、碑文反対派(書き換え論者)を勢いづかせることになった。しかし、パル博士の主張と、その後に登場した「原爆慰霊碑は日本人の恥」と主張する自国中心主義的な碑文批判論(「原爆慰霊碑を正す会」の主張)を碑文批判派としてひと括りにするのはあまりに粗雑である。私が碑文に対する賛否の色分けで事足れりとしてはならないと考えるゆえんである。
濱井市長と雑賀教授の反論
パル博士の碑文に対する疑義が掲載され、大きな反響を巻き起こした1952年11月4日の『中国新聞』には濱井信三広島市長(当時)の次のような談話が掲載された。
E:過去の戦争は明らかに人類の過ちであった、私は碑の前に建つ人々がだれであろうと『自分に関する限りはあやまちは繰り返さない』という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であり、また現在生きている人たちがそれを実践したときはじめて地下の英霊は安らかにに眠ることができるものである、碑の前に対してだれの罪であると個人をつかまえてせんさくする必要はないと思う・・・・・」
また、碑文作成に携わった雑賀教授も、パル博士の考えは狭量で、そのような立場からは原爆の惨禍は防げない、過ちを繰り返さないと霊前に誓うのは世界市民としての広島市民の気持ちであり、全人類の過去、現在、未来に通じる良心の叫びであるという反論を『中国新聞』(1952年11月11日)に寄せた(舟橋論文①、58ページ)。
このように見てくると、舟橋論文①では前記Bの江崎文子さんの意見と濱井市長、雑賀氏の意見を碑文擁護派として一括りにしているが、少しく内容を吟味すると両者が似て非なるものであることがわかる。なぜなら、江崎さんの意見は、アメリカの原爆投下責任を厳しく指摘したうえで、しかし、碑文の意味をそれだけに解消することに同意せず、満州事変以前からの日本のアジア近隣諸国への加害責任、それになすすべなく盲従した日本国民の責任も直視するべきという主張であり、繰り返してはならない過ちが国内にも国外にも余りに多いことに警鐘を鳴らす言葉として原爆慰霊碑の碑文を肯定的に理解したものである。
もし、碑文批判派と擁護派を、「過ち」=原爆投下とそれを許した責任の主体を明確に認識したうえで犠牲者を弔う言葉とするよう碑文を改めるべきと主張するのか、それとも、責任の主体を人類全体に拡散することによって原爆投下責任を希釈ないしは不問にするのか、という点で峻別するとすれば、江崎さんの意見は碑文批判派とまで言えないとしても、碑文擁護派では決してなく、碑文補強解釈派とでも呼ぶのが正しい。
これに対して、濱井市長と雑賀氏の意見は過去の戦争に対する責任を人類全体の過ちに「昇華」させ、国民一人一人が人類の一員として過失責任の一端を担う誓いとして碑文を擁護し、誰の過ちかといった問いは必要ないか、狭量でさえあるといって原爆投下責任、戦争責任に立ち入ることに背を向けたのであるから、上の江崎さんの意見とは対極にあるとさえいえる。
「過ち」と認めない当事者を不問にして「過ちを繰返さない」と誓う空語
原爆碑文論争を辿ってみて私が痛感するのは、「誰の」「どういう」誤りかが突きつめられなかったり、不問にされた結果、誤りを犯したとされる当事者(戦争・原爆投下を主導したアメリカ政府と日本の天皇・政府・軍部)が自らの過去の行為を今日なお「誤り」と認めていないという、足元の事実が直視されていないという点である。
アメリカの歴代政府は、①戦争を早く終わらせるため、②犠牲者をこれ以上増やさないため、原爆投下は必要だったという主張を踏襲している。各種世論調査によると、アメリカ国民も、年代が下がるにつれて減っていく傾向にあるとはいえ、今なお、過半が政府のこうした見解を支持している。たとえば、1994年9月23日、米上院は広島への原爆投下機エラノ・ゲイの展示を計画していたスミソニアン航空宇宙博物館に対して、同機が「第二次大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米両国民の命を救った」という決議を採択した。決議では、この展示会が「自由のために命をささげた米国人の思い出を非難するようなものになるのは避けるべきだ」として、計画の修正を求めた。下院でも同年8月に24人の議員が連名で上院と同様の要望書を同博物館に送付した(以上、『中国新聞』1994年9月25日)。こうした動きもあって、スミソニアン航空宇宙博物館での原爆展は中止に追い込まれた。また、こうした動きと軌を一にするかのようにアメリカは1996年12月にユネスコが原爆ドームを平和のシンボルとして世界の文化遺産リストに登録することを決定した時、アメリカは不支持を表明した。
それだけではない。アメリカは戦後、講和条約締結までの間、原爆投下に対する責任表明を拒んだだけでなく、1945年9月に発表したプレスコードによって、原爆投下の被害の実相を記録し、伝え、描く一切の言論・報道・著作を事前検閲によって禁圧した。たとえば、GHQは、プレスコード指令の前日ではあったが、「原爆使用と病院船攻撃は国際法に違反する」という記事を掲載した『朝日新聞』を48時間、発刊停止とした。原爆犠牲者の慰霊碑に「原爆」という文字を使うことさえ禁じたことは、このブログに掲載した一つ前の記事で紹介したとおりである。
広島に投下された原爆は、その年末までに人口35万人の市民のうちの14万人を死に追いやり、その後66年間で総計27万5,230人(そのほとんどが民間人)を死に至らしめた。そうした原爆投下の責任を当事国が一切認めないというのは人類史上、前例をみない反理性・傲慢な態度である。このように自らの独善的正義を世界に押しつける反理性・傲慢な態度がその後のアメリカによるチリ社会主義政権への軍事干渉、ベトナム侵略、イラク爆撃など数々の不法な武力行使として繰り返されたことは周知のとおりである。こうした当事国に一度たりとも抗議もせず、その後も原爆を投下したアメリカの核抑止力にすがる日本政府を不問にしたまま、「過ちは繰り返しません」と誓われても、原爆犠牲者はとても「安らかに眠れ」まい。
原爆慰霊碑の碑文について質すべきは、過ちの主語、過ちの中味もさることながら、それ以上に、原爆を投下した当事国・アメリカが原爆投下を今もって過ちと認めていないという厳然たる事実であり、そうした事実に日本政府ならびに日本人がどう向き合うのかということである。もちろん、その際には、日本の被害国としての歴史と同時にアジアの近隣諸国に対する加害国としての歴史を直視しなければならない。しかし、日本に加害の歴史があることと、自らに甚大な犠牲を強いたアメリカに原爆投下の責任を問い、被害の補償を請求することは相殺される性質のものではなく、両者相俟って追求されるべき課題である。こうした被害と加害の両面を「全人類の過ち」という漠たる美辞麗句に「昇華」させるのは、「各人各説の間に、一切を含んで、しかも何も意味し得ないような、空語をつくる」に等しい(田中美知太郎「ヒューマニズムの意味」、『田中美知太郎全集』第6巻、1969年、筑摩書房、所収、81ページ)。(この稿、続く)。
生きの身を火にて焼かれし幾万の恨み広島の天にさまよふ
小森正美(商業)
過ちは繰り返しませんと云ふ裏に再軍備は着着進みぬ
西本昭人(公務員)
「安らかに過ちは繰り返へしません」という墓碑銘はウォール街にでんと
建てよ
増岡敏和(工員)
親呼びて叫びたらむか口開けしまま黒焦げし幼児の顔
中邑浄人(教員)
(以上、『歌集 広島』1954年、より)
全損保20周年記念碑
なぜ あの日は あったのか なぜ いまもつづく
忘れまい あの にくしみを この誓いを
初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0607:110905〕