社会学者の見たマルクス(連載 第4回)

 この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。

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 マルクスは本来は著述家であったが、雑誌『独仏年誌』の編集者でもあった。マルクスはこの雑誌に、一青年が書いた二つの論文を掲載した。彼はずっと以前から最急進派の一人として急進主義者や政府の関心を引いていた。それまでフリードリッヒ・オズヴァルトという名前で書いていて、その文章の激しさでもって知られていた。彼は、この論文以降は、マンチェスターのフリードリッヒ・エンゲルスという本名を名乗った。「国民経済学批判大綱」と「イギリスの状勢」が彼の書いた論文である。後者は、その少し前に出版されたカーライルの『過去と現在』を手がかりに書かれたものであり、同書からの長い抜粋がある。前者は、ずっと後年になってからマルクスが「天才的なスケッチ」と呼んだものであり、苦悶していたマルクスの精神に強い影響を与えたものと思われる。
 この論文が掲載された以降、マルクスは論文の著者であるエンゲルスと手紙で絶え間なく意見を交換した。当時マルクスはやっと国民経済学の研究を始めたばかりだった。手紙でマルクスは、皮肉屋と呼んだリカードや、最良にして最も著名な国民経済学者としたマカロックなどについて語っているが、それは浅薄な知識によるものだった。これに対してエンゲルスは、交換、競争、独占、価値、生産費、資本、労働、そして恐慌について詳しく論じた。エンゲルスは、恐慌は80年も前から、かつての大規模な伝染病と同じように周期的に発生し、「そして、伝染病以上の悲惨さと不道徳さをもたらした」とし、次のように語っている。

 一定の間隔での絶えざる革新によってしか勝利することはできないというのが競争の法則である。これは、競争の参加者が自覚することなく形成された自然法則であって、意識して作った法則ではない。人間が意のままにする生産力には計り知れないものがある。土地の収穫力は、資本、労働そして科学を用いることによって無限に増大させることができる。豊かさと悲惨さが同時に存在するという矛盾。それは、「物が明らかに溢れかえっているのに、人々が飢えていく」ということであるが、イギリスはかなり以前からこうしたひどくばかげた状態にあった。このことが、この愚かしさを外見的に説明する人口理論(マルサス)を考え出させることになった。しかし人口理論は、恥ずべき卑劣な学説であり、自然と人間とに対する恐るべき冒涜であり、経済学者の不道徳性をその頂点にまで押し進めたものである。これは、精神と自然の矛盾、そしてそのことから生じる双方の破滅という、宗教にとってはそれ自身によってずっと以前に解決されたことになっている、宗教的ドグマの経済学的表現である。

 エンゲルスはこう考えていた。問題は、今現在対立している利害を融和させるだけのことに過ぎないから、この矛盾は無意味なものである。そのことは、経済学の領域でも指摘されてきたことだ、と。つまり、

成人であれば誰もが自分で消費できる以上の物を生産するし、子供は樹木と同じように、彼を成長させるために費やされた支出をはるかに超えたものを取り戻す。収穫は必ずしも労働に比例するものではないことを認めるとしても、土地でも労働でもない第三の要素、すなわち科学がまだ残っている。科学の進歩は、人口の増加と同様に無限であり、その進歩の速さは少なくとも人口の増加の速さに匹敵する。

 エンゲルスは、ハンフリー、ディビーそしてユステュス・リービッヒによって農芸化学が進歩したことを指摘し、「……科学にとって不可能なことなどあるだろうか」と問う。
 彼はさらに私的領有に内在する法則としての所有の集中について論じる。

所有の集中は商業恐慌や農業恐慌の際に急速に進む。独占は自由競争を生み、自由競争はまた独占を生む。競争は我々の生活環境の隅々にまで浸透し、モラルの領域までにさえ拡がる。社会が「犯罪に対する需要を作り出す」からだ。私的領有は人間をかくも深いところまで退化させたのである。科学、とりわけ機械に関する科学もまた現状では資本と土地の同盟者であって、労働とは敵対している。イギリスにおける機械の発明とその成果はこのことを証明している。

 エンゲルスはこの論文を「私は近いうちに、工場制度の厭うべき不道徳性を詳しく論じ、そこに最も顕著に現れている経済学者の偽善を容赦なく暴こうと思っている」と結んでいる。エンゲルスのこの考察がどの程度正しかったか、またどの程度新鮮であったか、ここではそれは検討しない。ただ、マルクスにとっては、極めて多くのことが新鮮であり、ほとんどのことが正しいと思われ、全てが大胆さと先鋭さでもってマルクスを驚かしたと言っていいであろう。
 当時ドイツにおいては、リストが自由貿易(これが「国民経済」学の最終的な結論だと通常思われていた)に対する強固な反対者として注目を集めていた。社会主義を主張するドイツの論者がこの分野で何らかの知見を示すということはそれまではほとんどなかった。エンゲルスはこの領域の知見を持っていたが、そのことが資本家寄りの経済学(「国民経済学」)に対する彼の評価を高めることにはならなかった。
 エンゲルスの『国民経済学批判大綱』は次の一文で始まっている。

 「国民経済学は商業が拡大していく中で、その自然の成り行きとして誕生した。そしてそれとともに、単純で無学な悪徳商法に代わって、合法的詐欺という洗練されたシステム、つまりは利得のための完成された学問が登場した」。

 「悪徳商法」という言葉は、心ならずもそうなったこの若い商人、エンゲルスが好んで用いた言葉である。よくあることだが、エンゲルスの場合もまた、家族や厳格な父親に対する反逆が、社会に対する反逆につながった。「悪徳商法」に対する敵意をエンゲルスはあらゆる機会に言明していた。
 興味深いのは、この悪徳商法というユダヤ系ドイツ人由来の単語がマルクスの「ユダヤ人問題に寄せて」の第二論文に再び出てくることである。この論文では、ゲオルグ・ヘルヴェークが編集した『スイスからの21ボーゲン』に収められたブルーノ・バウアーの論文が取り上げられている。この第二論文は長さとしては第一論文の4分の1にも満たないが、第一論文とは全く異なったトーンで書かれている。ここでマルクスは、ユダヤ人問題を神学的に把握することを徹底的に粉砕しようとしている。そして、バウアーが安息日のユダヤ人を考えたのに対し、マルクスは現実の世俗のユダヤ人を見ようとしている。

 ユダヤ人の宗教の秘密はその日常の暮らしの中にある。彼らが日常礼拝するのは悪徳商法であり、その世俗の神は貨幣である。「今や明らかである。悪徳商法や貨幣から、したがって実際の日常的なユダヤ教から、解放するということは、現在にあっては、自らを解放するということである」。「ユダヤ人を解放するということは、その究極の意味において、人間をユダヤ教から解放するということだ」。何故なら、ユダヤ人の精神は、実際にはキリスト教徒である諸国民の精神になっているからだ(これは、ゾンバルトの著名な著作──[『ユダヤ人と経済生活』]──に、題辞として提供できるような言葉である)。「世俗的生活におけるユダヤ教の本質である悪徳商法とその諸前提、これを廃棄することに社会が成功すれば、すぐにユダヤ人は存在し得なくなる。……そうすれば、人間が個別的な欲望を持った存在であることと類的存在であることとから生じる衝突が揚棄されるからである」。

 エンゲルスの原稿と、おそらくその原稿に添付されたと思われるエンゲルスの手紙、そしてその後の彼からの手紙、それらが直接マルクスに影響を与えて、このような考えが生まれたのであろう。
 手紙を交換したことが機縁となって、エンゲルスは1844年の夏の終わりにパリのマルクスを訪れた。多分マルクスの家に行ったと思われるが、エンゲルスは10日間パリに滞在した。それは実りの多い日々であった。この後、彼らは単なる知り合いではなく、生涯にわたって兄弟のような関係になった。
 この若い二人はたしかに、極めて多くの共通点を持っていた。社会主義と共産主義とに対する燃えるような関心や、現存社会とその秩序の不道徳性に対する憤りなどばかりではない。彼らは二人ともヘーゲル哲学を通り抜けた。ただし、エンゲルスはさっさと軽やかな足取りでもって通り抜けたのに対して、マルクスはゆっくりとそして深淵から目をそむけることなく丹念に見渡して通り抜けていった。
 ヘーゲル左派がフォイエルバッハから生まれた時と同様に、その解体はマルクスとエンゲルスを熱狂させた。青年ドイツ派やヘーゲル「左派」一般にいえることだが、二人にあっても、この時点ではまだ宗教問題が、その意識の中心にあったからである。急進主義が政治の分野に飛び込んできたが、それはただ手探りのようなものに過ぎなかった。マルクスとエンゲルスは政治に引きつけられるのを感じていたし、理論から「実践」に移ってみたいとも思っていた。それ故、『キリスト教の本質』(フォイエルバッハ)を、自分たちを開放するものとして受け止めた。フォイエルバッハは、哲学を天国から地上に呼び戻した新しいソクラテスのように思えた。17世紀には、自然科学が物質と運動の研究によってペリパトス学派[逍遙学派]の唯神論を打ち砕き、「哲学の変革」がガリレイ、ホップス、デカルト、ガッサンディらによって進められた。17世紀のこうした事件が新しい形で繰り返されることにもなった。
 実践力に乏しいドイツ観念論にもはや飽き足らなくなっていた青年たちにとっては、唯物論とヒューマニズムは同じものであった。エンゲルスによれば(彼がカーライルについて論じたときの主張であるが)、ブルーノ・バウアーもまたフォイエルバッハと共に、「現代のあらゆる虚偽と偽善の上に神学という名前を拡大していった」のである。エンゲルスは言う。

「神とは何か」という問いに対して、ドイツ哲学は、「神とは人間である」と答えた。真理は、人間自身の胸の中に見い出されるべきだ。

 エンゲルスにとっては、ドイツの最新の哲学とは自由な人間観のことであって、それはカーライルの汎神論をも凌駕していた。こうした初々しい興奮を抱えてエンゲルスはマルクスの所にやってきた。エンゲルスには、マルクスが準備をすっかり終えていたことがわかった。シュレージンの織物工達の6月反乱がマルクスに(そして間違いなくまたエンゲルスに)強い刺激を与えた。マルクスは、当時の急進主義派の指導者アーノルド・ルーゲとの間に考え方の対立があることを確認することになった。パリで発行されていた『フォアヴェルツ』誌の論文でマルクスは怒りをあらわにして、次のように書いた。

「プロイセン人」という匿名の人物の後ろに隠れているのは、ルーゲである。彼はこの反乱を、ある地方の水不足、あるいは飢饉のようなものと考え、この反乱に対して、それ以上の、より広範で普遍的な意義を与えようとしない。そして、ドイツ社会はまだ「改革」を予感させるところまではとても達していないというのだ。

 マルクスは、イギリスの社会的貧困に対しては次のように言う。

社会的貧困の一般的重要性は、イギリスのブルジョアジー、イギリスのジャーナリズム、さらにはイギリスの国民経済学においてもよく知られているところである。したがって、社会的貧困に対処する手段を行政的・福祉的対策に見出そうとするのは、いまだ政治化してないドイツ社会及びプロイセン王国に特有なことではないのである。たとえ、「処理」というものが、自暴自棄になっている貧窮民を捕まえて閉じこめておくだけのことだとしても、イギリスは実際にまさしくこの社会的貧困を「処理」しようとしているのだ。ナポレオンもまた物乞いを一挙に根絶しようとした。国家はそうせざるを得ないのだ。「国家と社会的機構とは、政治的な観点からは二つの異なったものではない。国家は社会的機構なのである」。

 近代国家の生来の基盤が「近代的悪徳商法の世界」に再び遭遇するときのブルジョア社会の混乱ぶり、卑劣さ、そして奴隷状態についてマルクスは詳述する。イギリスの状態を論じたときと同じである。ここでもエンゲルスの影響が見られる。しかしマルクスは、シュレージンの織物工の蜂起に対しては、これは、フランスやイギリスにおける労働者の叛乱よりも、もっと理論的根拠を持ち、もっと意識的なものであったと書いている。そして、「ヴァイトリンクの天才的著作」には、ドイツの労働者の教養の水準と才能との輝かしい証が見られるとした。マルクスは、プロレタリアートが履いている巨大な子供靴とドイツのブルジョアジーが政治にまみれて履き古した靴のちっぽけさとを比べることによって、シンデレラはドイツではスポーツ選手のような体格をしていると予言していいであろうとする。そして次のように言う。

哲学的国民は、社会主義において初めて、それにふさわしい実践を見い出すことができる。したがって自分たちの解放に向けての活動の要素は、プロレタリアートの中に初めて見い出すことができるのである。

「プロイセン人」というルーゲの匿名の論文の結語は、「政治的な精髄のない(すなわち、全体を鳥瞰する観点から組織作りを行うという認識なしでの)社会革命は不可能だ」とするものであった。マルクスは、政治的精髄を「もった」社会革命とは革命それ自体の単なる言い換えに過ぎず、なんら意味はないと断言する。

理性的に考えるならば、逆に政治的革命が社会的な精髄をもっているのである。社会主義は、それが[旧社会の]破壊と解体を必要とする限りにおいて、革命という政治的な行動を必要とする。「しかし、革命がその組織的活動を始める地点で、すなわち、革命の目的そのもの、革命の精髄が現れる地点で、社会主義は政治的なベールを脱ぎ捨てる」。

 ルーゲは政治的急進主義の偉大な預言者であったが、マルクスは、この批判によって、彼とは訣別することになった。マルクスにとっては、この訣別はつらいものとはならなかった。マルクスもルーゲも、どちらとも相手に対して優越感を持っていたのであり、マルクスは社会主義者として自立し、社会主義革命を志そうと考えた。

(連載第4回 終わり)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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