この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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この本(『哲学の貧困』)には章は二つしかない。一つは「科学的発見」という、価値形成に関するプルードンの学説のことを扱ったもので、もう一つは「経済学の形而上学」となっている。マルクスはここではリカードの優秀な弟子として現れ、理解しようとしているのは、プルードンよりもリカードのほうである。マルクスは言う。
リカードの価値論は現実の経済活動の科学的な解釈であるが、プルードンのそれはリカードの価値論のユートピア的解釈に過ぎない。人間の生活を維持するための費用は工場での生産費用と同じであるとするリカードの発言は確かにシニカルである。しかし、シニカルなのは事実そのものなのであって、事実を表現する言葉がシニカルなのではない。プルードンは二つの尺度、すなわち、商品の生産に必要な労働時間という尺度と労働の価値という尺度、この二つの尺度を混同している。それ故、彼は労賃を価格の不可欠な要素と見なす。そして、形成された価値を生産物の相対的な比例関係を示すものと規定するとき、商品の生産に必要な労働時間は[商品の]需要に適合した比率を示しているという結論に、プルードンは達するのだ。
プルードンの主張に対してマルクスは次のように反論する。
文明が始まった瞬間から生産は階級対立を基礎とするのであって、「敵対なしに進歩はない」。消費者の置かれる社会的諸条件もまたこのことに依拠する。木綿やジャガイモや酒は、最も僅かな労働しか要しないから、したがって最も安価であるが故に、ブルジョア社会の支柱となる。
「経済学の形而上学」では、1.方法、2.分業と機械、3.競争と独占、4.所有と地代、そして最後に5.ストライキと労働者の団結、の五項目が論じられている。後期マルクスを特徴づける視点のすべてが、ここで展開され、あるいは少なくとも示唆されている。若きマルクスが全力を挙げてブルジョア社会の「解剖学」の研究に取り組んでいることが、全編にはっきりと表れている。
マルクスは、アダム・スミスやリカードーとともに、ラウダーデール、シスモンディ、アトキンソン、ホプキンス、ウィリアム・トムソン、エドモンド、ブレイ、ジョン・スチュアート・ミル、サドラー、アメリカ人のクーパー、フランス人としては、古い人物で、ボアキュイユベールとケネー、最近の人物ではセイとルモンティ、といった人たちに言及している。しかし最も目を惹くのは、マルクスが次のように経済学者を共産主義者や社会主義者と敵対的な関係にあるものと位置づけていることである。
経済学者はブルジョア階級の学問上の代表者であって、共産主義者や社会主義者はプロレタリア階級の理論家である。一方でプロレタリアートが十分に成長し、そして他方でブルジョアジー自身の掌中にある生産力が十全に発展して、プロレタリアートの解放と新しい社会の形成のための物質的諸条件を確認できる程度にまでならない限り、社会主義的、共産主義的理論家達は夢想家以外の何者でもない。しかし歴史が前進し、プロレタリアートの戦いがより明瞭な輪郭をもつにしたがって、彼らはもはや自分の頭のなかで学問的追及を行う必要はなく、ただ彼らの目の前で起こっていることに責任を持ち、その機関となりさえすればいいのだ。そうすれば彼らは貧窮のなかに貧窮以上のものを、すなわち、旧社会の覆滅をもたらすであろう革命的側面をも見る。「この瞬間から、歴史の運動によって生み出され、運動の根拠を完全に認識するなかで歴史と結合する科学は、空論的なものではなくなり、革命的なものとなる」。
最終章ではストライキと労働者の団結について論じられるのだが、ここでまた、経済学者と共産主義者・社会主義者の対比が強調して繰り返される。マルクスの主張はこうである。
団結を非難するという点で経済学者と社会主義者は考えが一致している。経済学者は労働者に向かって言う。「団結するな」と。経済学者が「団結するな」という忠告の根拠として挙げるのは、ストライキによる損失、ストライキは機械化を促進することになるがそれは結果的には労働者の負担になってしまうこと、そして最後に、経済学の永遠の法則に反抗しようとするのはそもそも無意味だということである。社会主義者もまた労働者に向かって言う。「団結するな」と。そして同じようにストライキの無益さとその組織化にかかる費用のことを指摘する。さらに、金銭にかかる問題を別にすれば、労働者は常に労働者であり、雇用主は常に雇用主であるということに、以前となんの変わりもないであろう、とする。
経済学者が望むのは、今あるような、経済学の教科書でお墨付きを与えられているような社会に労働者がとどまることである。そして社会主義者がやろうとしているのは、古い社会のことを無視することである。そのほうが、彼らが遥か先を見とおして、労働者のためにお膳立てしてやった新しい社会なるものに、よりうまく入って行けるからだ。しかし、経済学者の主張にも社会主義者の主張に逆らって、経済学の教科書や社会主義者の夢想に反して、労働者の団結がその歩みを止めることは一瞬たりとなかった。それは近代産業の発展と拡大に歩調を合わせて絶えず成長を続けてきた。
イギリスでは、ストライキと労働組合は、労働者の政治的戦いと共に拡大していったが、この典型的ともいえるイギリスの労働運動の発展において、「今日の大政党の一つはチャーチストの名のもとに形成された」。労働者の利益を目的とした結社はある点にまで達すると政治的な性格を帯びてくる。階級対階級の戦いは政治的な戦いなのである。
ブルジョアジーは自らを解放し、ブルジョア社会を築いたが、同様に、プロレタリアートもまた自らを解放し、新しい社会を築くであろう。プロレタリアは我々の目の前で、ストライキ、団結、等々といった形態で、一つの階級として自らを組織する。彼らが解放される条件はあらゆる階級の廃絶にある。第3身分の解放があらゆる身分の廃絶であったのと同じである。階級が廃絶されれば、敵対関係はなくなるだろうし、それとともに、本来の意味での政治的な権力もなくなるだろう。何故なら政治的権力とはブルジョア社会における敵対関係の表現に他ならないからである。ブルジョア社会が終わったならばもはや社会革命は政治的な革命ではなくなるであろう。
『哲学の貧困』はプルードンを批判したものだが、この書物からは、社会学者としてのマルクスの高度な考えと高度な理論的認識がうかがえる。ここで語られていることは、ある党派の主張を擁護するようなものでは全くない。マルクスは、観察者、評定者として党派の外に立ち、そうした立場から、自分が観た階級闘争の結末を予想しようとしている。たしかにその口調からは、自分にはこの闘争の成り行きが見えており、しかもそれを歓迎しているということが感じ取られる。まことに「言い方が肝要」である。ただ、正しい道筋をしっかりと知っておきたいという労働運動の本能的な衝動に対して、「知識という松明でもって明かりを照らす」とする傾向、というよりは意図といってもいいが、それはここでは、明瞭には現れていない。
当然のことであるが、マルクスは運動の「内側」にいた。パリでも、急進的意識を持ち、「私有制の廃止」、プロレタリアートの解放、さらにその他の反乱を目指す人間達に取り囲まれていたが、ブリュッセルでは、パリにいた頃以上に、そうなった。マルクスは、ためらいながらではあったが、彼らと共同行動をとった。エンゲルスと協力して、ベルギーの首都にドイツ人労働者協会を設立した。当然のことながら、この協会は完全にマルクスの影響下にあり、党を作ることに関してマルクスと相談が始められるほどであった。
マルクスを取り巻く人物のうちで最も興味深い者の一人に「赤毛の狼」がいる。友人達からはリュプスと呼ばれた、シュレージン生まれの農夫の息子である。1864年にマンチェスターで死を迎えるまで、一貫して忠実にマルクス、エンゲルスと行動を共にした。そして、その僅かな遺産の相続人にはマルクスが指名された。このためマルクスは、1867年に出版された『資本論 第一巻』を、「忘れ得ぬ友人にして、プロレタリアートの大胆にして忠実かつ高貴なる前衛」としての、彼の思い出に献じている。
「フラタナル・デモクラッツ」(「民主主義者友愛協会」)という急進主義者の国際的な結社があり、この結社がブリュッセルにも接触してきた。まもなくマルクスは、この組織のブリュッセル支部の副委員長になった。結社の名前は「国際民主主義団体協議会」となった。これは公然組織の形をとっていたが、ここには同時に、国際的な秘密組織「義人同盟」を代表して、植字工から後に語学教師になったシャッパー(もともとは林学を学ぶドイツ人学生であった)、時計工モルなどが、参加していた。この二人は、運動の中心をパリからロンドンに移し変えるのにも寄与している。
「義人同盟」の設立は古く、1836年にはもう存在していた。その誕生はさらに2年前の、「亡命者同盟」の左派としての形成に遡る。「亡命者同盟」はパリでドイツ人亡命者達によって創設されたものである。「義人同盟」も「亡命者同盟」もともに秘密結社であった。「義人同盟」は、とりわけパリでは大きな勢力を有し、3ヵ所に支部を持っていた。中核となったのは仕立て職人であった。それだけにヴァイトリンクの影響はなおのこと強かった。ヴァイトリンクは、「義人同盟」は「宗教的団体」だと自ら認めていた。
マルクスとエンゲルスは、「義人同盟」には参加することなく、パンフレットの作成・配布やその他の方法で意見を表明することによって、ヴァイトリンクの影響を弱め、「義人同盟」を別の方向へ導こうと努力した。エンゲルスはずっと後年に次のように言っている。
この組織には、以前に経済学の本を読んだことのある人間はほとんどいなかった。経済学の本を読むことは有益なことではあったが、ほとんどの者はそれを読まなかった。平等、兄弟愛、正義、そういったものが、差しあたっては、あらゆる理論上の障壁を乗り越えるのに役立った。
エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の現状』は、扇動的な種々のパンフレット以上に、外国、とりわけイギリスにいるドイツ人職人に大きな影響を与えた。しかし、どんな文書よりも彼らに大きな影響を与えたのは、1846年と1847年の経験であった。それはまた急進的チャーチストグループの重要性を増すことにもなった。急進的チャーチストの機関誌『北の星』の寄稿者であったエンゲルスは、常に彼らと連絡を取って、その闘争心をかきたてた。
労働運動においては絶えず国際的連携の芽生えが見られたが、エンゲルスとマルクスにとっては、この芽を大きく育てることこそがなにより重要であった。様々な場所に火元を設け、そこで自分たちの主張と学説に火を着け、それを基点に火花を発散させることを期待したからである。
彼らは国際通信委員会を設立し、パリおよびロンドンと間の恒常的な手紙の交換にあたった。同盟の中心は次第にロンドンに移っていったが、それと共に、同盟自身が国際的なものとなっていった。もっとも、諸国間の交信に用いられた言語はドイツ語のままであったが。
ドイツ人労働者教育協会は[義人同盟ロンドン支部が作った公然組織であったが、]1847年には「共産主義労働者教育協会」と名乗った。ロンドンからは、パリのエンゲルスとブリュッセルのマルクスに[新しい]同盟への加入を呼びかける決定が出された。それには、マルクスとエンゲルスの考え方の全般的正当性と、同盟が古い陰謀家集団的な形態と伝統から自由になることの必要性との双方を確認したことが述べられていた。今度は、二人はこの要請を受け入れ、同盟に加わることにした。ブリュッセルで開かれた同盟の「秘密」集会に、エンゲルスはパリから参加し、パリの三つの支部に働きかけを行った。
[新しい]同盟の第一回大会は1847年の夏、ロンドンで開かれた。組織の再編が議決され、「共産主義者同盟」という名前が採択された。「ブルジョアジーの打倒、プロレタリアートによる支配、階級対立に立脚した古いブルジョア社会の廃棄と、階級と私有財産のない新しい社会の建設」が目的として定められた。この大会にはマルクスは出席しなかったが、多分エンゲルスは参加したものと思われる。そして、エンゲルスは議論の推移に決定的な影響を与えたと断言していいであろう。会議はさしたる論戦もなしに進んだ。
雑誌が創刊されることになったが、これはほんの数号が刊行されただけであった。有名になったアピール「万国の労働者、団結せよ」が初めて高らかに掲げられたのはこの雑誌のなかであるが、これによって、「人間、皆兄弟」という義人同盟の古くからの穏健な主張は追い払われてしまうことになった。「人間、皆兄弟」というスローガンの中にこそ、むしろ「民主主義者友愛協会」の考え方もハッキリと表れていたし、マルクスはまだこのスローガンのほうに強い共感を覚えていた。
(連載第6回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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