この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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のちにマルクスは、プロレタリアートがまだ十分に力をつけていない時期にあっては、プロレタリアートが階級として行動するためには、党派的活動にも根拠があることを認めた。しかし、彼は個人的には党派的活動に対して決して好感を持たなかった。マルクスは義人同盟には間違いなく参加しなかったし、義人同盟から求められた「綱領宣言」にも、ただ渋々と取り組んだだけであったが、それはこのことに理由がある。
宣言の件ではエンゲルスはマルクスをせき立てねばならなかった(上記を参照)。そしてロンドンの中央委員会は1848年1月24日にもきわめて厳しい警告をブリュッセル支部に寄せている。それによれば、「市民マルクスがその作成を引き受けた共産党宣言の文案が2月1日までにロンドンに届かなかったら、彼に対してさらなる処分が講じられるであろうことを彼に認識させる必要がある」とされていた(Mg 147頁)。マルクスがこれに関して、中央委員会の官僚をさらに嘲笑ったか、それとも罵ったかについては伝えられていない。
改変された同盟[共産主義者同盟]の第1回大会にはマルクスは出席していない。第2回大会もむしろ偶然に参加したようなものだった。 マルクスは民主主義者友愛協会で挨拶するためにロンドンに向かっていたのであって、たぶん列車や船の中でエンゲルスが共産主義者同盟の第2回大会にも参加するように懸命にマルクスを説得したのであろう。マルクスは[第2回大会の]討論には参加した。そして、エンゲルスと一緒に宣言を起草してほしいという依頼を受諾した。このように、懇願に根負けする形で、マルクスは共産党宣言を今日あるようなものにしていった。たとえエンゲルスの力が与っていたとしても、である。
この目立たない小さな著作(『共産党宣言』)が出版された直後、執筆者が思いもしなかった二月革命が勃発した。パリの臨時政府は市民マルクスを招いた。彼は「市民の王」たるレオポルド(ベルギー王:訳者)によってブリュッセルから追放処分となったばかりであった。マルクスは再びパリに移った。同じ時期、共産主義者同盟中央委員会はブリュッセル地区委員会、すなわちマルクスに指導を託したが、マルクスはパリからこの役割を果たすことを選んだ。
パリでは、ドイツ人共産主義者の仲間の革命ごっこに抵抗する以外にはたいしたことはできなかった。(「武闘派」の)ゲオルグ・ヘルヴェークは、武装集団を引き連れてドイツに進攻するという狂信的な考えをもっていたが、マルクスはこの考えを厳しく批判した(Mg160頁)。
興味深いのは、マルクスがドイツの三月革命の直後に「ドイツ共産主義者党の要求」を作成したことである。これは「委員会」を構成する6人の名で公表されたが、そのトップはマルクスであり、この小さな綱領は間違いなくマルクスが作ったものである。エンゲルスは(1885年の『共産主義者裁判を暴く』の前文において)この綱領を資料として取り上げているが、奇妙なことに、これには、2、5、6、10、12、13の各項が欠けている。エンゲルスが取り上げた条項のうち、1項、3項、4項は政治的なものであり(単一不可分の共和国、代議員に対する俸給、国民皆兵)、7項、8項、9項は農業に関するものであった(耕地のうち領主的、およびその他の封建的な所有にかかるものと鉱山及び鉱業所は国有化されるべきこと、農耕は大規模な農地においてもっとも近代的な科学的な方法によって営まれるべきこと、抵当権の国有化と国家へ支払われる税金としての賃料)。11項では、国家がすべての輸送手段を掌握することを求めている。14項、15項では、相続権の制限と強い累進課税の導入を図ろうとしている。 16項は国営工場の設立、17項は無償の一般教育を規定していた。今日の社会主義者多くはこの要求の穏健さに驚くことであろう。マルクスはドイツの社会情勢を見誤ることはなかったのである。だから彼はこう言った。「全力でもって上述の措置を実施するように働きかけるならば、それは、ドイツのプロレタリアート、小ブルジョア、農民階級にとって、有益なものとなる」。
マルクスはすぐにドイツに戻った。彼は、かつてのライン新聞を新たな形で復活させる時機が到来したと考えた。[1848年]7月1日から『新ライン新聞』が「民主主義の機関紙」として発行された。『新ライン新聞』は、フランクフルトの国民議会に対して、激しい批判を展開した。ベルリンの国民議会や、カンプハウゼン-ハンゼマンの内閣に対しても同様であった。ロシアに対する革命戦争を要求し、ポーランドを熱烈に支持した。しかし、包括的な諸国民の親交などというものは「この上なく、くだらない素人政談」だとした。またデンマークに対する戦争を国民戦争として強く支持し、マルメの休戦協定を公然と批判した。
だが、反革命が急速に進んでいった。マルクスは『新ライン新聞』のために個人的な犠牲を払わねばならなかった。『新ライン新聞』は時々発行を停止させられた。その頃になって、フェルディナント・フライリッヒラートが編集に加わった。1849年2月に、マルクスは、納税拒否と武装抵抗を扇動したとしてケルン陪審裁判所に告訴されたが、博学にして力に満ちた弁明を行った後で、無罪を言い渡された。この間に、反革命の勝利はますます鮮明になっていった。『新ライン新聞』は、最初はブルジョアジーとプロレタリアートの共通の利益を擁護しようとしたのだが、しだいにその革命的な性格を明らかにし、封建主義、絶対主義の克服は労働者階級の勝利にかかっていることを明言した。衝突が起こるのにそう時間はかからなかった。マルクスに対して退去命令が発せられた。『新ライン新聞』の最終号(5月19日付け)は、赤い用紙で印刷され、フライリッヒラートのよく知られた詩が冒頭に掲げられた。
マルクスとエンゲルスは南ドイツに向かった。彼らはまだバーデンやファルツでの運動に期待をかけていた。ファルツの支配権を握っていた民主主義派の中央委員会は、マルクスに対して、パリで革命的党派を擁護するよう依頼した。こうしてマルクスは再びパリに戻った。
エンゲルスは戦場に向かったが、マルクスは家族もパリに呼び寄せた。彼らがパリに着くやいなや、警察から巡査部長が慇懃な指示を持ってやってきた。マルクス「およびその夫人」は24時間以内にパリを離れなければならない、ただしヴァン(モルビアン県)に住む自由は与えられる、というものであった。マルクスはすでにロンドンに行くことを決意していた。今度は家族もついてきた。この大きな世界都市にまもなくエンゲルスも(ジェノバから)やってきた。かくして、既に死に瀕していたヨーロッパ革命と共に、「青年ドイツ派」の二人の若者、マルクスとエンゲルスの疾風怒濤の時代はここに終わった。たとえ思想上の流派としての「青年ドイツ派」の最盛期が[1830年のフランスの]七月革命に続く10年の間に既に終わっていたとしても、マルクスとエンゲルスは「青年ドイツ派」の人間であった。
この「青年ドイツ派」という名前はその後も残り、マルクスとエンゲルスのエピゴーネン達もそう呼ばれた。一体何故か。民族的で富裕な市民階級はつねに連携を拡大していたが、この階級は新しい政治状況と新しい政治的影響力とを求めていた。「青年ドイツ派」はこの階級の最後の青年達であった。彼らは、不確かな思想と多方面の志向とに満ち、文学を好み、犠牲的資質を持ち、かつ戦闘的であった。そして、国民に対し、国民の全ての階級に対して、とりわけ抑圧され苦しんでいる階級に対して、人間と人間性とに対して、情熱的な希望と期待を寄せた最後の青年達であった。もっとも、こうしたことは、政治的な経験のひどい欠乏と、そして政治的判断力の悲しいほどの欠如とにつながっていったのだが。
マルクスとエンゲルスは、二人ともラインラントの人間だった。一方はユダヤ人の出であり、もう一方は生粋のマルク伯爵領邦の出身であったが、ともにこの「青年ドイツ派」に属していた。二人はこの集団の中で傑出した存在であった。次の世代にあっては、二人の存在感は消え去るのではなく、逆に成長していった。マルクスとエンゲルスが、彼らが生きた時代の特質を、誰よりも鮮明にそして鋭く見極め、それに対応していったからである。また遠い将来を見通して、憲法や法律のどんな問題も社会問題の前では色褪せてしまうこと、多くの大国の内部で、つまりは、文明的世界の全体で、資本と労働の対立が拡大し、それによって、前世紀に豊かに華やかにそして眩いばかりに花開いた文化全体の運命が左右されるような重大な決断を迫られるようになるであろうこと、こうしたことを彼らは意識していたからである。マルクスとエンゲルスは「このことについて何かを知っていた」のだ。それ故に、彼らは苦しみ、罰を受けなければならなかった。彼らの精神と名前は磔にされ、火炙りになるほどだった。今日においてもなお、多くの者にとって彼らは嫌悪と憤激の対象である。
半面、マルクスとエンゲルスを英雄視する人々、そして光り輝く来たるべき時代の予言者とする人々、こうした人々は多くの国々において何百万にもなっている。二人のことをどこまで本当に理解しているか、あるいは二人とどこまで精神が通じ合っているかは別としてでも、である。マルクスとエンゲルスは勝利を得たのであり、そして彼らは今も生きているのである。
二人の勝利には幻想や根拠のない思いこみが作用したとか、事態の最終的な姿は二人が思い描いていたものとは著しく異なるものになったとか、言われるかもしれない。マルクスは全くもって沈黙の思索者、占星術家であり、エンゲルスは熱狂的でかつ好戦的な人間の顔つきをしていたと評されることもあろう。マルクスを予言者とし、エンゲルスを夢想家とし、二人とも大それた予感とひどい思い込みによって熱狂してしまった、と言われることもあろう。それでも、彼らの敵といえども、彼らの精神の勝利には、異議を唱えることはできないのである。
革命は終焉し、それはマルクスとエンゲルスの希望の当面の終焉を意味した。血気さかんであったエンゲルスには、とりわけ打撃は厳しかった。彼にとって、イギリスの「社会」革命が起こることは寸毫も疑う余地のないものであった。「富める者に向かっての、貧しき者の、全面的な、公然かつ直接的な戦いは、今やこの国では避けがたいものとなっている。自分達が危機以下的状況に落ち込んでいくのを人民が黙ってみているとは、自分には信じられない」。エンゲルスは1844年ないし45年にそう書いた。共産主義に同調する知識人に対しても、彼はエルバーフェルドで、イギリスは「社会革命の前夜」にあると説いた。共産党宣言も、イギリスのチャーチストや、北アメリカの農業改革者達を、広範な組織をもった労働者の党であると見ていた。それに対する共産主義者の関係は自明のものであった。共産主義者は実際に、あらゆる国の労働者の党において、最も重要なそしてたえず運動を推し進めていく部隊になろうとしていたのだから。
だが、このかつての組織された労働者の党は、一体どこに残ったというのであろうか。革命の年1848年の幕が開くや否やチャーチズムは風に舞う籾殻のように飛び散ってしまった。アメリカの全国農業改革者については、さらに僅かな痕跡しか残っていない。フランスではどうであったか。エンゲルスの考えによれば、フランスでは既にブルジョアジーが支配的権力者であり、したがってプロレタアートはそれだけ早く権力に近づくことになるはずであった。そのフランスで一体何が起こったか。第二王政の成立である。第二王政は、少なくとも最初のうちは、純粋なブルジョアジーによる支配を意味するものではなかった。マルクスとエンゲルスはこの第二王政の最初から最後までを見届けることになった。彼らはまた第三共和国の登場も見た。真正のブルジョアジーの政権を初めて確固たるものにしたのは、第三共和国であった。たしかに、この間に1848年7月の戦いがあり、1871年のコンミューンの蜂起があった。だが、それらはプロレタリアートの血まみれの敗退であった。プロレタリアートは政治的な意味ではゆっくりと発展していったが、最後には[第一次]世界大戦によって、再び完全に麻痺させられてしまうのを、我々は見ることになる。
それでは、ドイツはどうだったか。共産党宣言はこう言う。「共産主義者はドイツに大きな関心を向けている。何故なら、ドイツはブルジョア革命の前夜にあるからであり、17世紀のイギリスや18世紀のフランスの場合と比べて、ヨーロッパ文明全体がより進歩しているという条件の下で、そして著しく勢力を増したプロレタリアートと共に、革命を遂行することになるからである。それ故、ドイツのブルジョア革命は、直接プロレタリア革命につながる単なる序曲に過ぎないといっていい」。
世界史は独自の道を進み、そして予言者をあざ笑った。
(連載第9回 終わり)
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