社会学者の見たマルクス(連載 第11回)

この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。

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 『ブリュメール18日』の初出は1852年の春のことで、ある月刊誌の第2号としてであった。この雑誌は、新大陸に移住した同志の一人が、ニューヨークで発行を企画したもので、ボナパルトのクーデターに直接に影響されて生まれたものであった。マルクスにとっては、政治的な著述を行うことは、それが生まれる原因になった事件と同様に、経済学研究の中断を余儀なくさせるもののように感じられた。マルクスはロンドンで再び経済学の研究に取りかかろうと考えていた。もっとも、マルクスの研究は最初のうちはもっぱら国民経済の歴史的発展に向けられた。目的は明らかに、自分の理論をその発展の必然的な結果として展開することにあった。ヘーゲルが、はじめ、自分の哲学を哲学史の究極点として書こうとしたのと同じことである。この著作は、当時、マルクスが大急ぎで書き上げてしまったものかもしれない。だがこれは、1850年代のドイツではどんな著者も書きえないものであった。
 旧来のやり方通りに行儀よく食卓に着くような社会にとっては、マルクスとエンゲルスは、当分の間まるでタブーとなった。エンゲルスは彼の父親によって「家に連れ戻された」。彼はいやいやながらマンチェスターの工場の経理室に戻った。マルクスにとってはロンドンでの最初の一年間は苦しいものだった。しかも後年には、もっとひどい困窮に頻繁に襲われた。家族が増えていった。マルクスの妻は勇敢で有能であったが、彼女も日々の生活の不安と苦悩をいつも解決できるわけではなかった。エンゲルスは出来る限りの援助を行った。
 エンゲルスがマルクスに期待したのは、共産主義の科学的基礎となるべき、社会経済生活に関する新しい偉大な理論であった。マルクスはだが、ある新聞社の報酬の安い労働者とならねばならなかった。しかしそれでも、この新聞『ニューヨーク・トリビューン』によって生計手段を与えられたことを感謝しなければならなかった。同紙は、マルクスが意のままにならないこの時期に、彼が「自分の意志にそった好きな仕事」を手掛け、創造するための力と時間を残してくれた。
ただマルクスは、準備的な研究である『経済学批判』(1859)を書いたあとは、『資本論』の第一巻を完成させただけだった。これは、たいていは、単に「マルクスの『資本論』」として知られている。マルクスの死後にエンゲルスによって、そしてエンゲルスの死後はカウツキーによって編集された部分は、分量において『資本論』第一巻を遙かに超えているが、その及ぼした影響という点においては、この第一巻に遠く及ばない。
 『資本論』と並行して書かれた短かな著作についても触れておこう。これまでのところ、マルクスの政治的な文書はようやく不完全な形で再発掘されたばかりだが、これらの文書もまた学問的な色合いが強い。マルクス自身が嘆いているところだが、政治的な文章を書くことは彼の研究をひどく分断してしまうことになった。またこのためにマルクスはどちらか一方に専念することはなかった。これは実に残念なことであった。
 臨時の寄稿者としてではなく、フルタイムの職員として新聞社の通信員になるにはマルクスはあまりに学者すぎた。単なる生活費稼ぎのこうした仕事に割く時間をもっと少なくし、その分だけ学問研究に充てる時間を増やしていたなら、マルクスの人生はもっと実り豊かになっていたであろう。
 あらゆる点から見てエンゲルスは、誠実に、親切に、そして献身的に、マルクスを援助した。エンゲルスはまたマルクスの著作活動に関しても、助言をしたり、自ら執筆もしたりして、マルクスを支えた。たとえば、アメリカの新聞のために書かれた、ドイツにおける革命と反革命に関する最初の著作は、1896年になってようやくマルクスの仕事としてドイツ語に翻訳されたが、たとえその一部は『新ライン新聞』のマルクスの論文に拠るものであったとしても、著作の大部分は実際はエンゲルスによって書かれたものだった。「将軍」と呼ばれたエンゲルスは、自分が好きだったこともあって、後年には主として軍事に関する論文を書いていた。マルクス自身はのちにいくつかのドイツの新聞にも記事を書いている。マルクスに仕事をさせるというのはドイツの新聞にとっては冒険であったが、この冒険を敢えてやった新聞があったのである。またもっと早い時期には、その頃まだ発行されていた、チャーチストの機関紙『民衆新聞(People’s Paper)』にも無料で寄稿している。
 しかし、マルクスのジャーナリストとしての仕事の圧倒的部分は『ニューヨーク・トリビューン』の求めに応じたものであった。『ニューヨーク・トリビューン』のために、マルクスはたえず注意深くそして慎重に、イギリスの政治と世界の政治を観察していた。この観察はまた、彼流の思考方法に沿って、世界経済の進展と関連づけてなされた。かくして一連の貴重な研究が生まれた。その約半分は、ロシアの研究家、N.リャーザノフの編集によって、現在は自由に読めるようになった。マルクスが最も関心を寄せたのはオリエント問題であり、クリミア戦争であった。パーマストン(イギリスの外相、首相:訳者)の政策に鋭い視線が向けられ、汎スラブ主義が決定的重要性を持ったものとして把握される。そしてその陰謀と策略が余すところなく暴かれる。叙述の多くはスポット・ライトのように、ごく最近の事件に当てられる。この事件は、汎スラブ主義を西ヨーロッパの大国の寵児とし、1855年から56年にかけてはトルコからこれを守り、育て、そして暴走させた事件であった。
 マルクスは亡命したユダヤ人であったが、そのドイツ人気質と、そしてドイツの民衆と祖国に対する義務を忘れることは決してなかった。『ニューヨーク・トリビューン』のアメリカ人編集者ディーナは1860年に彼を次のように評価した。

私の目につくあなたの唯一の欠点は、あなたが時として、アメリカの新聞にとってはあまりにもドイツ的にすぎる感情を見せてしまうことです。ロシアやフランスのことを語るときがそうです。ツァーリズムやボナパルティズムに関する問題については、あなたはドイツの統一と独立にあまりにも強い関心と、あまりにも深い熱望を顕わにしすぎるのではないかと、時折考えたものです。
このことは、イタリア戦争の折りに、とりわけはっきりと現れた。編集長であったディーナは、フランスの皇帝によってイタリアが自由になることが期待できるとは、マルクスほどには信じていなかった。ディーナはこう言った。

あなたは他の愛国的ドイツ人と同じように、ドイツが不安に駆られる現実的根拠があるとお考えのようですが、私にはそうは思えません。

 この時期のマルクスの研究には(これに加えてエンゲルスの論文にも)、19世紀の歴史を批判的に、すなわち社会学的に立ち入って考察した膨大な資料が含まれている。彼ら自身は、確固たる党派的人間であったが、彼らの党派が当時まるで重要性を持っていなかったことや、いわゆる端役的役割を演じたに過ぎなかったことから、彼らに、観察者としての公平さ、「非党派的」な公平さといったものを、ある程度与えることになった。それは、もう始まってしまった決闘の進展と結果を、時計を手にしてじっと待っているような公平さである。
 マルクスは新聞社の通信員として、不変の真理と事件の原因を鮮明に捉える閃光とを書き残した。それを集めて評価するには、それだけで一冊の本を要するであろう。無作為に一例を取り出してみよう。次のものは、1853年7月19日付のオリエント問題に関する論文の概要である。

ロシアの広大な全領土はたった一つの貿易港に頼っている。しかもその港は、半年は航行不能で、残る半年はイギリス人が容易に近づける海に面している。ツァーはそれを不満に思い、腹に据えかねている。ツァーの祖先は、地中海への入り口を手に入れることを計画していた。ツアーは彼の祖先のこの計画を遂行しようとしている。ツァーはオスマン帝国の辺境地帯を次々と切り取っていき、遂にはオスマン帝国の心臓であるコンスタンチノープルがその鼓動を停止しなければならないまでになった。トルコ政府が外見上堅固になることや、スラブ人の自己解放という一層危険な兆候が出てくることなどによって、ツァーのトルコに対する意図が危険になると、そのたびに、彼はトルコへの侵攻を周期的にくり返してきた。ヨーロッパの大国が小心で臆病なことを見越して、ツァーはヨーロッパを脅し、そしてその要求を最大限にまで高めていった。それは、あとで彼が、自分の手に入れようと本来思っていたものでもって満足するさいに、自分は相当の譲歩をしたのだとして、いかにも懐が深そうに見せるためである。

 そのうえマルクスは、ヨーロッパ諸国の反動的な政府の屈辱的な対応や、ヨーロッパ文明をロシアの侵害から守ることについての彼らの明らかな無能さを、革命政党にとっては好都合なことだと考えていた。
 リャーザノフが編集した2巻本に納められた多数の論文の中で、今なお依然として興味深いのは、ドイツと汎スラブ主義に関する論文である。マルクスの意見では、汎スラブ主義のいわゆる民主的形態、社会主義的形態なるものが、通俗にして真正のロシア型汎スラブ主義と異なるのは、根本のところ、ただその言葉遣いと見せ掛けによってだけである。
 さらに注目に値するのは、パーマストン卿に関する論文である。この論文は1853年にチャーチストの機関紙『民衆新聞(People’s Paper)』に全文が掲載されたものである。リャーザノフが編集した論文集には英語で掲載されている。マルクスはこの論文を長文の告発状のつもりで書いたのだが、それは同時に、彼の特徴である舌鋒の鋭さと才気の輝きを感じさせるものとなっている。パーマストン卿は政治家として多くの成果を上げたが、マルクスは、その有能にしてすぐれた側面を正当に評価しつつ、彼の行動と政策の矛盾を示すことで、彼の内面における卑小さを暴こうとしている。マルクスは言う。「弾圧者達はいつもパーマストン卿の助けをあてにできる。ただ、彼は弾圧するにあたっては、大変な労力を費やして、言葉づらの寛容さを示そうとする」。この「火つけ棒」と呼ばれたパーマストン卿について、マルクスはさらに1855年、『新オーデル新聞(Neue Oder-Zeitung)』に簡潔な跋文を書いている。
 リャーザノフが編集した論文集には1856年4月までのものしか収められていないが、マルクスが、イギリスの政治状況についても数多くの観察を行っていることが見てとれる。政党と党派、寡頭政治、商業、好況と恐慌、選挙の腐敗、金融界のペテン師達、そして議会主義のありとあらゆる虚偽性、が語られている。またしばしば軍事問題が検討されているのも見受けられるが、これらは例外なくエンゲルスの筆によるものだ。
 エンゲルスはマンチェスターで「悪徳商売」に専念しなければならなかった。彼はこれを強いられながらも、マルクスの研究活動を促し、プロレタリア革命の準備をした。エンゲルスは、そのこと以外には人生の目的を知らなかった。世界の出来事や日常の政治をたえず観測すること自体は、学者肌のマルクスよりはエンゲルスの方が向いていた。
 マルクスは絶えず経済学の研究を妨害されていると感じていたに違いない。イギリスやヨーロッパ大陸での注目すべき経済的事件に関する論文を書くことが通信員としての重要な任務の一部であったとしても、そのことは「本来の経済学研究の領域外にある、日常的なこまごまとしたものに精通する」ことを余儀なくされるからである。マルクス自身が1859年1月にそう語っている。
 マルクスは経済学の研究を数年間中断した後、1850年から再びそれに取り組んだ。「大英博物館に集積された、経済史に関する膨大な資料は、ブルジョア社会の観察ということに関して、ロンドンを最も有利な観測地点にしている。オーストラリアとカルフォルニアでの金の発見の後、ブルジョア社会は新しい発展段階に入り込んだように見える。そのことで僕はついに、もう一度最初からもう一度やり直すこと、新しい資料によって批判的にやり通すことを決意した」。マルクスはそう語っている。
 今見ているのは、マルクスの人生の第3期であるが、その最後に、この広範な領域の仕事の成果がまとまった。『資本論』第1巻の最初の構想が生まれたのは1859年のことであったが、この年には、マルクスは鋼のごとき勤勉さでもって、上述した種々の妨害を乗り越え、「出版するためではなく、自分自身の理解のために、随分と間をおいた別々の時期に」、一連の短い論文を書いた。マルクスは、この膨大な素材を関連づけながら編纂するなかで、それにふさわしい壮大な計画を立てた。資本、土地所有、賃労働、国家、外国貿易、世界市場という順序でブルジョア経済の全体系を分析しようとしたのである。後にマルクスは、上記の6項目のうち、最初のもの、つまり「資本」だけに計画を縮小した。そして「資本」を大きく三つに分けて研究しようとした。最初は生産過程、それから流通過程、次に総過程である。理論の発展史がそれに続くはずだった。
 マルクスとエンゲルスの往復書簡は4巻にまとめられている。この中にはマルクス夫人のものも含まれているが、これらの手紙は、たびたび困窮に悩まされたマルクスの日々の暮らし、マルクスの一連の研究、研究とそれから政治的な著述を除いた、様々な種類の仕事、そういったものを我々に生き生きと見せてくれる。往復書簡であるという性質上、そのやり取りがとりわけ活発なのは、エンゲルスがマンチェスターにいた間、つまり1871年までの期間である。この後、手紙のやり取りが再び活発になったのは、マルクスが温泉地に逗留したときである。温泉地に出かけることになったきっかけの一つは、マルクスが悩まされた多くの肉体的苦痛であるが、もう一つの契機は、エンゲルスが自立してから、これまで以上にマルクスを支援できることになって、マルクスの経済状態が改善されたことであった。
 革命派は国外追放された。この絶望した集団は、常日頃「亡命者」と自称していたが、彼らは、――1850年代のロンドンでは――すぐにありきたりのヒポクラテス的な死を予感させる傾向を見せた。すなわち、口論、不和、口先ばかりの宣言、悲嘆、退廃、といったものである。
 マルクスは、1850年11月にロンドンからマンチェスターに移ったばかりのエンゲルスとともに、最初はこの荒廃を防ぐために多くの努力を払った。二人は、ロンドンに中央委員会を置いた上で共産主義者同盟を復活させようとした。しかし、1850年9月には、同盟は分裂状態に陥った。マルクスは、プロレタリアートという言葉を神聖な存在とした頑迷な連中に次のように呼びかけた。

我々は労働者にこう言っている。労働者は、15年間、20年間、あるいは50年間、内戦や国家間の戦争を戦い抜いた。それは単に、情勢を変えるためだけではなく、労働者自身を変え、労働者が政治的権力を握る能力を身につけるためでもあった、と。それにもかかわらず、諸君は全く逆のことを言っている。直ちに権力を握らねばならない、さもなければ、横になって寝ていればいい、と。

 分裂は険しいものとなった。マルクスは一ヶ月後、エンゲルス宛の手紙に次のように書いた。

あからさまな孤立ということを、僕はいやという程感じている。僕らは――君と僕のことだが――今、そういう状態に陥っているんだ。これは、僕らの立場と原則に全くお似合いのことだ。

 

(連載第11回 終わり)

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