この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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コミューンはこれに先立つ普仏戦争と同様にインターナショナルに重大な結果をもたらすことになった。兄弟愛と団結が得られたのではない。逆に分裂傾向が一層ひどくなった。これにとりわけ影響を与えたのは、バクーニンがめぐらした陰謀であった。バクーニンはロシアの貴族の出身で、理論上の信念からというよりは、荒々しい情熱によって革命家になった人物であった。正真正銘の無頼の徒であり、インターナショナルの中では特別の分派を形成していた。マルクスは1871年11月23日付けの手紙で、バクーニンの計画を、左右両派の計画から上っ面だけを寄せ集めたごった煮と呼び、こう言った。
「階級間の平等」(マルクスはこれに感嘆符を付けている)、「社会運動の出発点としての相続権の放棄」(マルクスはこれをサンシモン流のたわごとと呼んだ)、「無神論」、こういったものがドグマとしてメンバーに押し付けられる。……一番のドグマは、政治活動の(プルードン流の)放棄だ。
この手紙が書かれる少し前ロンドンで、インターナショナルの総評議会が召集した非公開の会議が開かれた。出席者は僅かだったが、いくつかの重要な決定がなされた。その中には「宗派と素人集団」に関するものもあった。これによって、マルクスは総評議会を、すなわちマルクス自身を、インターナショナルの支配者にした。しかしこれは遅すぎた。分裂は止めることが出来なかった。総評議会は汎ドイツ主義(もしくはビスマルク主義)に支配されているというデマが流された。マルクスはこれを以下のように説明した。
このデマの背後には、ジュネーブとロンドンのフランス人亡命者集団の中の身を持ち崩した連中がいる。つまりこのデマは、僕がもともとドイツ人でかつ現実に総評議会に対して決定的な知的影響を与えているという[彼らにとっては]許し難い事実に向けられている。しかし、僕の場合、量的にはドイツ的な要素はイギリス的あるいはフランス的なそれよりもずっと弱い。それ故、罪は次のことにある。このドイツ的要素が理論の面においては支配的になり、支配者たるドイツの学問が、ドイツ人以外の者からは、極めて有益でその上不可欠のものと見られているということだ。
このようにして、権力を掌握したにもかかわらず、マルクスはインターナショナルの存続可能性に疑問を持たざるを得なかった。年次大会をもう一度開くことにマルクスは渋々同意した。大会は[1872年]9月2日にオランダのハーグで開かれた。マルクスはこの大会に個人として出席した。この大会でインターナショナルの存廃が論議されることを彼は知っていたのである。エンゲルスは、総評議会をロンドンからニューヨークに移すという動議を提出した。このことを通じて、マルクス自身がインターナショナルに対して「解散」を宣告したのである。提案は僅差で可決された。大会ではさらに、バクーニンと彼の支持者ギョームをインターナショナルから除名することが議決された。
インターナショナルはこの後なお少しの間、細々と生き延びた。1873年ジュネーブに召集された大会は、マルクスの言葉に従えば、「大失敗」であった。事実上これが、第一インターナショナルがまだ生きていることが確認された最後となった。バクーニンとの争いは、ドイツ語で『国際労働者協会に対する陰謀』という題名で知られることになった覚え書きによって決着が付けられた。
1877年、インターナショナルは正式にその終焉を見た。同じ年にバクーニンが死んだ。彼は死ぬまでせっせとアナーキズムの種を蒔いた。その種はロシアやラテン諸国、それに時としてアメリカ合衆国で芽を出した。
マルクスがどういう動機でインターナショナルのことを放棄する気になったかは知られていない。マルクスがパリのコミューンを支持したことは、イギリスの指導的な組合活動家をマルクスから離反させることになったし、同様にフランス人にとってもマルクスは疑わしい存在になった。いかにビスマルクと厳しく敵対しているとはいえ、マルクスがドイツ人であることは否定しようがなかったからである。その上マルクスは、インターナショナルのための仕事が、果てしなく疲れるにもかかわらず報われることのほとんどないものであって、それが、自分の研究上のライフ・ワーク――それを完成させる望みをマルクスはまだ持っていた――にとってひどい妨げになることをよく知っていた。
大きな期待を持って設立され、そしてマルクスの意思にほとんど反しながら、彼の精力を引きずり込んでいった国際労働者協会は声もなく静かに衰亡していった。その一方で、ドイツ社会民主党は、ドイツ帝国の全般的な隆盛に後押しされつつ、力強く成長していった。ラッサール派と並んで、マルクス主義者も、アイゼナッハ派あるいはエールリッヒ派として、ウィルヘルム・リープクネヒトの指導の下に歩み出した。
リープクネヒトは、ロンドンに亡命していた頃はずっとマルクス家の家族ぐるみの友人であったが、政治家としてはその大ドイツ的傾向、そしてそれ故の反プロイセン的傾向によって、マルクスとエンゲルスの不興を買うと共に、同じようにラッサールにも嫌われ、ラッサールの後継者、フォン・シュヴァイツァーからも疑われた。しかし、リープクネヒトはベーベルを味方に付けることに成功した。そしてベーベルの人柄の中にロンドンの指導部は党の未来を見いだした。ラッサール派とアイゼナッハ派は激しく争った。両派に対する追求や圧迫、とりわけ検察当局によるそれが、相争っていた兄弟ともいうべきこの両派を融和させた。1875年2月以来、両派の合同問題の協議が続いた。
マルクスは、1890年に初めて公にされたある手紙の中で、両派の統一綱領の草案に対して情け容赦のない批判を浴びせている。マルクスにとっては、綱領案はラッサール的傾向が強すぎるものであって、マルクスの考えはほとんど反映されていないか、あったとしても歪曲されたものばかりであった。
マルクスのこうした批判にもかかわらず、1875年5月のゴータ大会で両派は合同した。こうして結成された社会主義的なドイツ労働者党は、大きな経済危機がもたらした障害にもかかわらず、その後も成長を続けた。この経済危機は、建国時代の高揚が終わったこの頃、戦勝に輝いていたドイツ帝国を、あらゆる工業諸国と同じように襲った。ドイツ皇帝の暗殺計画は全般的状況が暗いものであることを鮮明に照らし出した。安穏としていた市民たちは戦慄心で一杯になった。ドイツの指導的な政治家であったビスマルクは、「社会全体を危険にさらす社会民主主義者たちの企てを排除法によって鎮圧する必要がある」と考えた。彼は、新しい関税政策が帝国議会で安定多数を確保する機会を利用した。ビスマルクは、社会民主主義者を弾圧した後に、続いて労働者保険法を作らせた。しかし彼はその人生の最後まで、労働者保護を拡大しようとするいかなるものにも抵抗した。
事態のこのような推移がマルクスにどのような影響を与えたかについては、我々はごく僅かな資料しか利用できない。エンゲルスがロンドンに移住し、マルクスとお互いに近くに住むようになったために、当然のことながら、エンゲルスとの定期的な手紙のやりとりはなくなったからである。しかしマルクスもエンゲルスも事態の展開にはずっと不満を持っていたことは、ニューヨークで暮らしていた党の同志ゾルゲに宛てたマルクスの手紙から十分に知ることが出来る。この手紙で強調されているのは、[党の]方向転換である。マルクスは[この手紙が書かれた]1877年10月になってもまだラッサール派との妥協を非難していた。マルクスは言う。
この妥協は、他の生半可な連中との妥協をももたらした。ベルリンでは(モストに注目せよ)デューリング及び彼の「崇拝者」との妥協をもたらし、さらに未熟な学生たちや利口すぎる博士たちの一味との妥協をももたらした。彼らは、社会主義に「より高度な、理想的な」方向転換をさせようとしている。つまり、唯物論的な根拠(これに基づいて行動しようとするのなら、真剣にして客観的な研究が必要となる)を、正義、自由、平等、兄弟愛といった女神たちがいる近代的な神話でもって取り替えようとしている。
ベルリンでは『ツクンフト(未来)』が、チューリッヒでは『ノイエ・ゲゼルシャフト(新しい社会)』が、新たに刊行されたが、この社会主義的新聞に対してはマルクスとエンゲルスは協力を拒んだ。
1878年9月4日にマルクスは、社会主義者排除法に関して、「ビスマルク氏は我々のためによく働いてくれた」とだけ書いている。この発言には、マルクスが社会主義者排除法を党にとっては有益なものとなる分かれ道だと評価したことを思わせるものがある。さらに、マルクスはヨーロッパ全体での展開を満足しながら眺めていた。彼の学説は、フランスではゲードやマルクスの女婿ラファルグらの影響によって広まっていった。イギリス人たち(ジョン・ロー、ハインドマン、ベルフォート=バックス)が真剣に『資本論』と取り組み始めたのもマルクスには心が満たされることだった。
アメリカで出版されたヘンリー・ジョージの著作、『進歩と貧困』がヨーロッパでも非常な成功を収めた。マルクスはこの作品を、正統派の経済学理論から解放された、アメリカ人による初めての試みであると評価はしたものの、自分が経済学者としてはジョージに後れを取ったと思ったのは自然なことであった。地代は国家に帰属させるべきだとする[ジョージの]現実的な提案に対しては、マルクスは「これは過渡的な措置としてのみ認められる。この考えはそれ自体矛盾に満ちたものではあるが、既に[共産党]宣言において過渡的な措置として推奨されたものである」と、言った。それでもマルクスはジョージを才能ある著述家として評価した。
晩年のマルクスの物質的な生活環境は著しく改善された。誠実なエンゲルスがマルクスのために固定的な収入(年間250ポンド)を確保できるようになったからである。マルクスは、自分の2人の娘が、彼が高く評価したフランス人、ポール・ラファルグ、シャルル・ロンゲとそれぞれ結婚するという喜びを得た。しかしこれに対して、彼の健康は悪化していった。彼は(1874年から)3年連続でカールスバートに保養に出かけ、その次の年からはノイエナールに出かけた。しかし社会主義者排除法によって、こうした温泉旅行は終わった。
マルクス夫人が1879年秋以来、不治の病に罹り、1881年12月2日に死去したことは、マルクスの個人的生活にとっては手ひどい打撃となった。同時にマルクス自身の健康も衝撃を受け――彼は慢性的な気管支カタルに苦しんでいた――この深い悲しみによって、それはさらに悪化した。1882年の春、マルクスは医師の指示でワイト島に出かけたが、そこで肋膜炎に罹ってしまった。マルクスはワイト島からアルジェに向かった。アルジェで病気が再発した。アルジェからモンテ・カルロ経由でパリに行き、さらにアルジャントイエにいる彼の娘、ロンゲ夫人のところに行った。そして最後にもう6週間、娘ラウラと一緒に、ジュネーブ湖畔のヴヴェイに滞在した。
(連載第15回 終わり)
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