社会福祉の「申請主義」について――社会福祉の利用者になって考えたこと

著者: 栗木黛子 くりきたいこ : 元田園調布学園大学教授
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(1)はじめに

私が社会福祉にかかわるようになって50 年余りになる。50 年前、大学の社会福祉学科に入学した頃、社会福祉は今ほど人々の暮らしに身近なものではなく、周囲の人から「社会福祉とは何ですか、何を勉強するのですか。」と珍しがられて質問されたことが忘れられない。今では社会福祉は暮らしの一部になり、社会福祉の関連法令は数十に及び、選挙ともなるとどの候補者も社会福祉や社会保障を公約に掲げる時代になった。とはいえ社会保障社会福祉が充分かというとそうではなく、周知のように年金や医療をはじめ児童虐待や所在不明高齢者など問題山積である。

これまでの50 年間、私は研究者としてつまり仕事として社会福祉とかかわってきた。このところ私自身高齢期を迎え、年金や医療保険の利用のほか障害者福祉も利用するなど、社会福祉の利用者としてもかかわることが多くなってきた。利用者の立場になって気がついたことは、社会福祉の利用要件を満たしていても必ずしも利用につながらない、つまり制度はあっても社会保障・社会福祉と国民の距離が想像以上に遠いという現実である。その原因の一つが社会福祉の「申請主義」といわれているものである。「申請主義」とは、社会福祉の利用要件を有する人が、申請手続きをしてはじめて利用することができるというものである。したがって申請をしなければ利用要件を満たしているだけでは利用に繋がらないということになる。この理由として国民の社会福祉制度を利用する権利と同時に、利用したくないという国民の自由の権利にも配慮したものであると説明されている。ここでは自己紹介あるいは近況報告とともに、私自身の反省をこめて、私が経験した「申請主義」の問題点を検証する。

(2)身体障害者手帳の取得までの経緯

3 年前の2007 年10 月、私は大腸がんの手術を受け、直腸機能障害により身体障害者福祉法による身体障害者に該当することとなった。しかしながら、当時の医師や看護師からそのような情報提供はなかった。また病院には福祉相談室があり、ソーシャルワーカーなど福祉専門職が配置されているがそちらからの接触もなかった。また、直腸機能障害用の器具を業者から購入したが、その業者からも障害者の補助制度についての情報はなかった。器具代は毎月1 万円程度要した。

退院後療養生活が続くとともに、器具代や頻回な通院交通費など負担に感じるようになった。福祉事務所に問い合わせたところ、医師の診断書を添えて申請するようにとのことだった。その結果、2008 年12 月に「身体障害者福祉法」による身体障害者手帳(4 級)の認定となった。これにより、器具代給付、都営交通無料パス、所得税減税等が利用できることとなった。とはいえ、手術から障害者福祉利用までに1 年2 カ月のずれがある。この間私は利用できる制度があるにもかかわらず、知らずに「申請」しなかったために利用できなかったのである。この事例で、当事者がスムーズに利用につながるためには何が欠けていたのだろうか。私の無知が原因の一つであることは間違いないが、専門家でさえ社会福祉の詳細な内容を理解できているとはいえないのが広範にわたる社会福祉の特徴といってもよい。社会福祉制度を必要とする人全てがきちんと利用できるためには、「申請主義」だけでは不十分であることは明らかである。

(3)原子爆弾被爆者手帳取得までの経緯

1945 年8 月6 日広島に原子爆弾が投下された日、私は8 歳の国民学校(現・小学校)3 年、両親と弟2 人(5 歳と3 歳)とともに広島に在住していた。国家公務員だった父の転勤先だったが、居住地は市のはずれで爆心地からは離れていたので、火傷をするほどではなかったが、原爆の閃光をあび、強烈な爆風と振動で屋外にいた人はなぎ倒され、家や学校の硝子戸はこなごなに吹き飛ばされ、屋根が傾いたりした。半年後の1946 年4 月父の転勤で我家は東京に転居してから60 年以上になる。

1957 年「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が制定された。1994 年に全面改定され、現行の法律名は「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」である。私は、この法律の存在については知っていたものの、きちんとした内容は確認したことはなかった。理由の1 つは、我家が被爆地から離れていたので、厳しそうな「援護法」の対象からは外れていると決め込んでいた。また、家族5 人とも被爆によると思われる健康被害を発症しないでこられたことも関係していると考える。実は父も長弟も弁護士を業とする法律家であるが、我家で「援護法」が話題になったことはない。

2008 年12 月になって、家族5 人が「援護法」の対象であることを知ることとなった。日本原水爆被害者団体協議会発行の「被団協」359 号(2008 年12 月6 日)に、私と同じ広島市古田町で被爆した女性が原爆症の認定を受けたとの記事をみつけた。早速広島市に電話で問い合わせたところ、我家のあった古田町は認定地域に該当するとの回答だった。

そこで、東京都に被爆者健康手帳を申請することにしたが、大きな難問が立ちはだかった。申請の要件の一つに、被爆当時私と一緒にいて私の被爆を証明出来る証言者(家族は除外)が2 人必要とのことである。被爆後60 年以上がたち、被爆半年後には東京に転居し、親も亡くなった今では広島との繋がりはない。当時の居住記録や国民学校の在籍記録を問い合わせたが手掛かりはなかった。父の商工省(現・経済産業省)中国地方局の在職記録はあったが、本人の私の被爆の証拠には弱いとされた。60 年前の自分探しは困難を極め、行政の記録もほとんど残されていないことを確認したのがささやかな収穫であった。

ほぼあきらめかけていた折、私が在籍していた現・古田小学校の教頭先生から同窓会の役員で私と同学年のA 子さんを紹介いただいた。同学年とはいえ私とA 子さんは互いに記憶はつながらなかったが、電話で話し合っているうちに被爆当時我家の家主の娘さんB 子さんと知り合いであることが分かった。B 子さんは被爆当時10歳で国民学校5 年生だった。市の中心地で家族と暮らしていたが空襲をさけて、被爆の3 日前に郊外の我家に同居されたという御縁である。結果的にB 子さんの証言で私は被爆者健康手帳を受けることができた。申請要件は証言者2 人という規定であるが、B 子さん1 人の証言で東京都は手帳の交付をみとめた。この間10 か月の時間がかかっている。この後、私の2 人の弟もB 子さんに証言をお願いして手帳を取得している。手帳により、医療費の助成のほか本人と子(被爆2 世)の健康診断、疾病にともなう手当金、死亡時の葬儀代助成等を受けることができる。

この事例で「申請主義」についてみると、私は「申請」までに数十年が経過したことになる。また、申請の要件である証言者を探し当てるまでに多大な労力と時間を要した。私が退職後で時間も体力も何とかなったものの、誰にでも可能とはとても言えない。

(4)国民の生存権と「申請主義」の矛盾

周知のように、憲法25 条はすべての国民に健康で文化的な生活を営む権利つまり生存権を規定している。さらに第2 項では、国民の生存権の保障を国の役割と規定している。現行の社会福祉関連の法令は、数え方にもよるが80 にもおよび、そのほとんどが憲法25 条に基づくものである。

社会福祉制度が国民の権利であるならば、その利用にあたっての「申請主義」は国の姿勢としてあまりにも消極的である。「申請主義」の前提として社会福祉の制度が国民に周知徹底されているならば、利用するもしないも含めて国民の自由を尊重するという「申請主義」の説明もありえる。しかしながら私の事例からも明白なように、社会福祉制度が必要な人にきちんと制度が繋がるとは限らないことが多いのが現実である。こうした実態からみると、「申請主義」は、国民の自由の尊重というようなきれいごとではなく、反対に巧妙な利用抑制策として活用されているとみることもできる。

また、申請の要件のハードルを低くするか、高くするかのさじ加減次第でも、利用調整が可能となる。私の事例で、証言者2 人という要件は、一方で不正利用の防止策であるものの、利用抑制策として機能していることも間違いない。

この原稿を書いている猛暑のさ中、困窮のため電気もガスもない生活をしていた76 歳の高齢者が熱中症で死亡というニュースが報じられた。生活保護に当然該当する生活が10 年も続いた果てのことであった。新聞は行政も民生委員も知らなかったと報じている。新聞によると「困っていると声を上げてくれないと手の打ちようがない」(朝日2010.8.20)というのが民生委員の言い分である。まさに「申請主義」に慣らされた言葉であり、この意味で「申請主義」は命にかかわる事態になりかねない。このままでいいのだろうか。

(5)資本主義の成熟段階と国の役割

近代社会は、個の自立と自由・平等を掲げ、資本主義のもとに企業をけん引役として発展してきた。産業革命以来300 年に及ぶ近代社会の歴史の特性は、富つまり豊かさと同時に貧困の蓄積再生産の過程であったということができる。人々の大半を占める雇用労働者にとって景気の変動にともなう倒産、失業、低賃金あるいは怪我や病気による労働不能などは、資本主義特有の貧困ならびに生活不安である。加えて20 世紀に入ると、1914 年の第1 次世界大戦、1929 年の世界大恐慌、1941 年の第2 次世界大戦という資本主義の負の歴史も刻み込まれていく。不況も戦争も貧困も資本主義の構造的要因によるものであり、特に貧困が単純に個人的要因に由来するものではないことは明らかである。こうした数々の負の歴史から現代の人類が学んだ教訓の一つが第2 次世界大戦後の先進国を中心とした福祉国家の潮流だったのではないだろうか。資本主義の自由競争は、一握りの勝者の陰に多数の敗者を必ず生む。福祉国家の理念は、勝者の存在を肯定しつつ、敗者の必要最低限の生存権を国(社会全体)として保障するとともに社会の安定と平和を意図するというものである。こうした社会のあり方は、共生社会、あるいは自分の自由平等と同時に他人の自由平等との統合理念と説明されたりしている。いずれにしても、自由競争を謳歌した資本主義の前半にくらべて、貧困問題と社会の安定平和に取り組もうとする時代的変化は確かに資本主義の成熟段階といってよいであろう。こうした国の機能は、先進国における富の蓄積(経済力)を財源とし、税制度による高所得者から低所得者への一定の所得再分配を通じて行われる。所得再分配機能の高度な国は、税金の高いいわゆる福祉国家であり、“大きな政府”である。反対に所得再分配機能の低い国は、税金が低い“小さな政府”であるが社会福祉もお粗末である。

ところで、資本主義の低成長化とともに1980 年代からアメリカを中心に提唱されてきた新自由主義は、資本主義の成熟(共生)への模索を、再び資本主義の初期の粗野な自由競争に引き戻そうとするものである。アメリカに同調する日本でも小泉政権を筆頭に企業活動の自由化推進と労働者保護の後退、福祉の見直しと抑制、“小さな政府”のための公務員改革などが強行されてきた。経済界も政治も行政も国民に向かって自立自助を強調し、勝者と敗者の存在は当然であり、敗者になるのはあくまでも自己責任であると言い切る。社会福祉の利用は、甘えと卑下され、差別される。今の日本は、資本主義の成熟(共生)段階どころか、自己責任論で個人をどこまでも孤独に追い詰め、共生理念を権力側は必死に抑え込もうとしているようにみえる。残念な事に一般国民もこれら権力側の意図に引きずられ、無知に同調してしまっているのではないだろうか。

今や人類は歴史を積み重ねて21 世紀を迎え、人類史の成熟(共生)段階に対峙しているといってよい。経済成長のみがすべての人々を幸せにするわけでもないし、経済成長率やGDP が唯一の物差しでもないことは既に皆が知っている。しかし経済成長主義に代わるこれからの社会づくりの目標を未だ確信できないでいる。手さぐりながら私は、共生社会という一歩成熟した人間観を私たち一人一人が確認し共有することからスタートしたいと願っている。そして、すべての人の命と暮らしが社会(国)的責任のもとにきちんと守られる共生型成熟社会こそ目標なのだと考る。

「申請主義」を口実にして、関係者が責任逃れをしたり、福祉の利用抑制を図るのではなく、声をかけ合って福祉を必要とする人にきちんと届くのが成熟社会である。児童や高齢者の虐待死や生活保護が受けられずに孤独死する高齢者のニュースを聞くことのない、ホームレスなど見かけることのない、こうした成熟社会の実現を望みたい。

初出:社会理論学会「紀要」2010年11月号から許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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