神戸高専事件最高裁判決は、「日の丸・君が代」強制違法に何を教えているか。

(2021年9月16日)
 東京「君が代」裁判・5次訴訟(原告15名)の準備書面を作成中である。直接には、教員に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の違憲判断を求める訴訟であるが、教育の本質や教育行政のあるべき姿を追及する訴訟でもあり、教育現場に活力を取り戻そうとする訴訟でもある。

 その違憲論争の一部としての憲法20条論(信教の自由の保障違反)の、神戸高専剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996年3月8日最高裁第二小法廷判決)をめぐる論争をご紹介しておきたい。
 
 原告は訴状請求原因で、「日の丸・君が代」の宗教性の有無に関して、この判決を引用した。

 よく知られているとおり、同判決は,「神戸市立高等専門学校の校長が,信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した学生に対し,必修である体育科目の修得認定を受けられないことを理由として2年連続して原級留置処分をし,さらに,それを前提として退学処分をしたという事案」である。
 判決は、「本件各処分は,原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと」を認め、このことを理由の一つとして認めて、校長の退学処分を違法と認めた。

 「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制されたのは、剣道の授業の受講である。学校の体育で行う剣道が、一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為とは言いにくい。しかし,これを強制される生徒の側から見ると、原告が剣道実技への参加を拒否する理由は,信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったことを認め、剣道の受講は生徒の宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせるもので、その強制の違法を最高裁は認めた。

 「日の丸・君が代」強制も同様である。仮に「日の丸・君が代」が宗教性希薄なものであるにせよ、これを強制される教員の側から見ると、自らの宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくさせ、自分の信仰に抵触する行為として,その強制は違法なのである。

 しかも、日の丸・君が代への敬意表明は、この歌と旗の出自からも来歴からも、剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。

 結局、本件においては,信仰を持つ原告らにとって,「日の丸・君が代」の宗教性は否定できず,それゆえ「日の丸・君が代」の強制が信仰に背馳する行為の強制として、20条2項及び同1項に違反する。

この最高裁判決は,
①少数者の信教の自由を保障することの重要性,
②信教の自由への制約の可否を検討する場合の代替的方法についての検討の必要性,
③信教の自由が内心における信仰の自由の保障にとどまらず,外部からの一定の働きかけに対してその信仰を保護・防衛するために防衛的・受動的に取る拒否の外的行為の保障(最高裁判決の事案では,剣道実技履修の拒否という外的行為の保障)を含むことが明らかにされていること,
などの点でも,大いに参考にされるべきものである。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.9.16より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17572
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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