福島第一原発事故について

 この間、福島第一原発事故に関して幾つもの雑誌や書籍やその他の文章を読んで来た。目も見えにくくなった吉本隆明が充分に語り得ないことをもどかしく思ったが、吉岡斉や山本義隆等の歴史的・技術的評価を別とすれば、その他の諸言説の多くは本質論を欠いた表層的なものとでも言ったらよいようなものであった。
 かつてマルクスは次のように書いた。

 一九世紀の最初の一五年間にイギリスの工業地区で行なわれた機械の大量破壊、ことに蒸気織機を利用したために起きたそれは、ラダイト運動という名のもとに…(略)…。機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験とが必要だったのである。(「資本論」第1巻第13章「機械と大工業」)

 機械は、労働者自身を幼少時から一つの部分機械の部分にしてしまうために、乱用される。こうして労働者自身の再生産に必要な費用が著しく減らされるだけではなく、同時にまた、工場全体への、したがって資本家への、労働者の絶望的な従属が完成される。ここでも、いつものように、社会的生産過程の発展による生産性の増大と、この過程の資本主義的利用による生産性の増 大とを区別しなければならないのである。(同前)

 問題の本質を区分する視点を、それらの諸言説は提示しえていない。
 しかし、マルクスのこの視点を繰り込んで、まさに日本の反核・反原発運動について吉本隆明が次のように述べたのは同時代ではないのか。

 「反核」と「反原発」を結びつける理念も錯誤である。「反核」というときの「核」は核兵器あるいは核戦争を意味する。核兵器または核戦争としての「核」は、クラウゼヴィッツの古典的な『戦争論』によってさえ、べつの手段による「政治」の問題にほかならないのだ。ところで「反原発」というばあいの「核」は核エネルギイの利用開発の問題を本質とする。かりに「政治」がからんでくるばあいでも、あくまでも取扱い手段をめぐる政治的な闘争で、核エネルギイそのものにたいする闘争ではない。核エネルギイの問題は、石油、石炭からは次元のすすんだ物質エネルギイを、科学が解放したことを問題の本質とする。政治闘争はこの科学の物質的解放の意味を包括することはできない。(「『反核』異論」)

 例えば一本のネジ釘、ボルト、ナット、テレビや電子時計の材料部品や半導体素子は、すべてそのまま核兵器その他の軍事兵器の生産にすぐ利用できる軍事物質だ。だからこれらの生産や工作研究は、いっさいやめるべきだといったら、どんな人間でも失笑するだろう。…(中略)… もちろん「核」エネルギの解放もまったくおなじことだ。その「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。(同前)

 本質を欠いた主張は、どれだけ繰り返しても価値は存在しない。本質を欠いては、何を残し、何を捨て、したがって何をどの方向へ運ぶことが課題であるかの整理は不可能だからだ。
 知識が持つ対象の遠隔化は不可避であり、それは人間的意識の本質性自体に他ならない。原子エネルギーがどのような構造のもとでどのような発現をするかは、自然科学の探求の問題であり、人間の知的自然過程を本質としている。それは不可逆であり、仮にどこかで誰かにストップをかけたとしても、必ず他のどこかで他の誰かによって追究されるものである。そして、その研究成果が人間社会にどのような可能性を開くか、また、それが社会的にどのような形態を取り得るかを示すことまでは、科学の探求の範疇に属する問題である。
 一方、その研究成果の原子力を現実の社会にどのように応用し、どのような効果を導くかは社会的利用の仕方の問題である。例えば、マルクスが述べる機械やよく引き合いに出されるダイナマイトや、そして吉本の述べるネジ釘や半導体素子などと、原子核の反応からエネルギーを取り出すことは同じレベルに属するものである。そして、その機械を労働者の労働を軽減するために使用するか、あるいは労働者の大量解雇のために使用するか、ダイナマイトを工事現場で使用するか、あるいは敵を攻撃するための爆弾に使用するか、半導体素子をテレビに使用するか兵器に使用するか、原子力を発電に使用するか核兵器に使用するかは、すべて社会的利用の仕方(あるいは政治的利用)の問題なのだ。
 原子力を原子力発電として「平和利用」することも、また、原子力発電を自らの利権のために利用することも、あるいは、原子力発電を「技術抑止」に利用することも、それは原子力の社会的・政治的利用形態の問題であり、原子力そのものと区別しなければならない。この区別の上で問題を整理することが不可欠であり、それがすべての前提なのである。
 この前提からは、原子力の科学的追究とその社会的応用の課題を否定することは本質的に成り立たない。
 一方、原子力発電の現状は、今回の福島第一原発事故が露呈させたように、現在の人間の制御能力を超える問題を有している。「トイレなきマンション」と呼ばれる使用済み核燃料の処理不能問題も同様である。これが原子力応用研究の現段階であり、そうであれば現段階での原子力発電への応用は行なうべきではない。このことは、それを使用する人間の管理運用水準の問題ではなく、現段階の原子力発電そのものが持つ本質的欠陥の問題である。
 この私の立場からは、「反原発」でも「脱原発」でもなく、そして、原発の稼動は直ちに止めなければならないものとなる。