わが日本は、政治、外交、経済、福祉、教育など基幹的な面で「劣化」や「退化」が進んでいるのではないか。そう思わせる出来事が跡を絶たない。まさに暗い気持ちになることが多すぎるが、「それでも、世の中、少しずつ進んでいる面もあるんだ」と思わせられることもたまにあり、元気づけられる。これもその一つと言えるかもしれない。
10月16日、東京・神田の学士会館で公益財団法人・第五福竜丸平和協会主催の「焼津平和賞受賞記念会」が開かれた。東京・夢の島にある都立第五福竜丸展示館を管理・運営している同協会が、静岡県焼津市が制定した「焼津平和賞」を受賞したので、その祝賀会だった。これまで同船の保存に協力してきた市民ら約100人が会場を埋めた。
焼津市は人口14万7000人。ビキニ被災事件と呼ばれる世界史的な大事件の舞台となった町だ。その大事件とは、今から56年前の1954年3月1日、太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で、焼津港を母港にしていたマグロ漁船・第五福竜丸(木造、140・86トン)の乗組員23人とマーシャル諸島の島民らが、放射性降下物(死の灰)を浴びた事件である。
焼津に帰港した乗組員は急性放射能症と診断され、そのうちの1人、無線長の久保山愛吉さんが放射能症による肝臓障害で死亡。さらに、この事件により、焼津港などに水揚げされたマグロは放射能に汚染された「原爆マグロ」として廃棄処分となり、マグロの刺身や寿司が食えなくなるなど漁業界と国民生活はパニック状態となった。
事件は「ヒロシマ、ナガサキにつぐ第3の核被害」として世界に衝撃を与えた。とりわけ、平時での核兵器による被害だったことが世界の人たちを恐怖と不安に陥れ、地球規模の原水爆禁止運動を生み出すきっかけとなった。
焼津市が「焼津平和賞」を制定したのは昨年だ。制定の狙いは「(第五福竜丸の)悲劇を後世に語り継ぎ、核兵器廃絶と平和の大切さを訴え、世界平和を実現するため」で、核兵器廃絶と恒久平和実現に向けた運動を熱心に行っている国内外の個人・団体を表彰するという(同市総務課の話)。賞金は100万円。
自治体で創設された「平和賞」には沖縄県の「沖縄平和賞」(第1回授賞は2002年)、大阪府堺市の「自由都市・堺 平和貢献賞」(第1回授賞は2008年)があり、「焼津平和賞」はこれらに次いで3例目。
焼津市は、今年6月30日に第1回授賞を行い、第五福竜丸平和協会を選んだ。授賞理由は「第五福竜丸の事件を後世に継承するための活動を推進し、一貫して核兵器廃絶への取り組みを続けていること」だった。
受賞記念会には清水泰市長も姿をみせ、「受賞おめでとうございます」と祝辞を述べた。
それを聞きながら、私は「焼津も変わったな」との驚き禁じ得なかった。第五福竜丸に対するかつての焼津の市民意識、町の雰囲気を知る者にとっては、焼津市が「平和賞」を創設するなんて、およそ考えられないことだったからである。
私は、現役の新聞記者時代に何度もこの町を訪れている。ビキニ被災事件の「その後」を取材するためにも2度、この町を訪れた。「被曝25年」にあたる1979年と、「被曝40年」にあたる1994年だ。
「25年」の時も、「40年」時も、私が会った焼津の市民はみな口が重かった。「重い」というよりも「福竜丸のことについては何も話したくない」という素振りだったと言ってよい。いわば、「事件について語ることはタブー」といった空気が町を覆っていた。それは、焼津市民にとっては「福竜丸は焼津に災いをもたらした疫病神」だったからである。町の人たちによれば、福竜丸が町にもたらしたものといえば、大混乱、漁業への壊滅的被害、町を舞台に繰り広げられた原水爆禁止運動の激しい抗争と分裂などだった。
市民の、福竜丸乗組員への視線も冷たかった。乗組員に米国から慰謝料が支払われたことも、市民の間に反発を呼び起こした。乗組員とその家族にとっては肩身の狭い日々が続いた。
「25年」の時の取材で会った久保山愛吉無線長の妻すずさん(当時57歳、故人)の言葉が忘れられない。
「久保山のところはうまいことをして大金が転がりこんだ、遊んでいても食べていける、と言われて。娘が正月に晴れ着を着ていたら、慰謝料で買ったんだろう、と手紙が来て。事件直後には村役場が、中学を建てるから金を貸してくれと言ってきましたので、用立てました」
慰謝料には長い間手を付けなかったという。「慰謝料のことでいろいろ言われるのが耐え難かったから」「テレビを買うにしても、地区で一番最後にした。着物も地味なものにして」
「40年」の時、私は同僚の記者とともに当時健在だった乗組員15人全員(8人はすでに亡くなっていた)にインタビューを申し込んだが、5人からは話を聞けなかった。「ひたすら忘れたいと思ってきた当時のことをいまさら話したくない」「そっとしておいてくれ」「人前に出たくない」といった理由からだった。
そうした町の空気を反映していたのであろう。福竜丸が東京・夢の島のごみ捨て場に放置されていたのが見つかり、原水禁運動団体による保存運動が始まった1968年、運動関係者の間に「母港の焼津市に引き取ってもらったら」との声があったが、焼津側に迎え入れる動きは見られず、結局、東京都が同船を買い取り、夢の島に展示館を建設した。
それに、焼津市が事件の全容についてまとめた『第五福龍丸事件』を刊行したのは事件から22年後の1976年のことであった。焼津市と市民がこの事件についてどのような思いを抱き続けてきたかが、この一例でわかろうというものだ。
だが、そんな焼津も次第に変化を遂げたようだ。焼津市総務課によれば、1985年から市主催の「第五福竜丸事件・6・30市民集会」が毎年開かれているという。市民が事件に思いをはせ、核兵器廃絶と平和のための努力を誓う集会だそうだ。それに加えて、こんどは「焼津平和賞」の創設である。
焼津在住のジャーナリストによると、「焼津平和賞」の創設を提案したのも市民グループだった。「ビキニ市民ネット・焼津」といい、2003年から続いている約20人の無党派の集まり。この人たちがビキニ被災事件について調査や学習を続け、その結果、市による「平和賞」の創設を市当局に提案、清水市長がこれを受け入れたのだという。私にとっては、まさに隔世の感である。
焼津市民の意識変化をもたらしたものは何だろう。長年にわたる平和運動の成果だろうか。行政による啓蒙活動が実ったのだろうか。それとも……
昔は、「歴史は進歩するもの」と思っていた。が、あまりにも多くの「劣化」や「退化」を見て、私をすっかりこうした見方に懐疑的になってしまった。でも、焼津の「変化」に接すると、この世はそう捨てたものでないと思えてくる。
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