私が「令和」を使わないわけ。

著者: 澤藤統一郎 さわふじとういちろう : 弁護士
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4月1日、私は当ブログで下記のとおり、「令和不使用宣言」をした。
「私は、けっして『令和』を使わない。令和不使用を宣言する。」
http://article9.jp/wordpress/?p=12341

この宣言は、政府が本年5月1日以後の紀年法として「令和」という元号を使用すると宣言したことへの対抗措置である。政府と私とは対等だ。しかも、緊張関係にある。政府が新元号を使うといえば、私は使わないと決意を固める。政府が麗々しく、令和を宣伝すれば、私は当ブログで精一杯の逆宣伝をする。こんなもの、使うべきではないのだ。

多数の人々がこれに続いて、それぞれの「令和縁切り宣言」「令和廃絶宣言」「令和義絶宣言」「令和敬遠宣言」を公表されることを期待する。

時間や時代の区切りは、自分で選択する。権力や権威による強要はまっぴらご免だ。古来より、「我が心 石にあらざれば 転ずべからず」「我が心 蓆にあらざれば 巻くべからず」と言うではないか。「一寸の虫にも五分の魂」とも。政府なんぞに、とりわけ安倍政権ごときに、五分の魂の一分一厘たりとも削らせはしない。

「明治・大正・昭和」という各元号は、明示的に神とされた天皇の権威が時をも支配するというイデオロギーに基づいて制定されたものである。しかも、「一世一元」という、明治新政府の新発明による臣民意識涵養装置の産物でもあった。

「明治・大正・昭和」と元号が制定された時代背景には、天皇の宗教的権威が、天皇の軍事的実力にも転化し、統治権総覧の正当性をも支えたという、いびつな為政者の思惑があった。元号は、天皇の宗教的権威を演出する極めて重要で、しかも効果的なデバイスであった。真っ当な感覚からは、元号の存在自体を異様で異常なものとして排除せざるを得ない。

「平成・令和」の制定は、日本国憲法下においてのものである。神権天皇制が否定された以上は、本来元号などあってはならない。野蛮な過去の遺物としてなくしてしかるべきものである。よく似た事情にあった、中国も、朝鮮・韓国もそのような合理的選択をした。

我が国でも、戦後民主化の趨勢の中で、元号は一時は廃絶が見通される事態であった。しかし、象徴としての天皇を残存した中途半端な憲法の規定が、元号の存続を許した。神権天皇制の残滓が、新たな元号を復活させたのだ。

こうして、象徴天皇制下に、天皇の宗教的権威に淵源を持ち、政治的にはその使用が天皇の支配への服属を意味する新元号「平成」が制定され、そしてこのたびの「令和」となった。

私は、象徴天皇の宗教的権威を絶対に認めない。また、主権者の一人のプライドにかけて、天皇の支配に服属することなど認められない。もちろん、天皇の権威を利用しての保守政治も認めない。だから、平成も令和も、使用することはない。

さらに、私の言語感覚からは、「令和」に、イヤーな漢字という印象を受けている。絶対にこんなもの使用するものか、という意欲を掻きたてられている。

付言する。「天皇が元号を道具に時を支配する」とは、一世一元の制度のもとでは、元号の変更によって、天皇の代替わりを国民に意識付け、各年を天皇在位開始から何年目と数えさせることである。天皇の交替によって、あたかも時代が転換するかのごとき錯覚を国民に植えつけることである。このたび、実は、この目的はメディアの狂騒によって、その目的を達しているのではないか。

なお、政府は海外メディアに対して、令和を「美しい調和(beautiful harmony)を意味している」との説明を始めているという。これは牽強付会も甚だしい。

まず、アベのいう「和」は、常識的な和ではない。特殊なイデオロギー性をもった「和」である。自民党改憲草案や産経改憲草案が、日本の伝統を「和を以て貴しとなす」とする「和」。アベやその取り巻きのいう「美しい日本」の本質的内容をなす「和」である。つまりは、下々の権力や権威に対する忖度が行き届いた秩序のことなのだ。これは、けっして「調和(harmony)を意味」するものではない。「秩序(order)」と訳すべきことが適切なのだ。

さらに、「令」は、「美しい(beautiful)を意味する」ものではない。何よりも、「令」の第一義は、権力者が上から下への命令をする行為であり、その命令の内容をいうものである。命令・指令・勅令・布令の「令」である。英訳すれば、「order」がふさわしい。だから、令和はダブルのorderであって、「order and order」と言わねばならない。

しかも、「令」を「美しい」意味で使うことはないだろう。令嬢も、令室も、令夫人も、もちろん令息も令名も令色も、「美しい」という意味合いはもたない。また、尊敬語としての「令」は、人に付くのが通例で、「令月」は月を擬人化した特殊な用例として一般的なものではなかろう。

「和」という抽象名詞に、無理矢理「令」を付けるのも、これを「美しい(beautiful)」と訳すのも、苦肉の策としても無茶苦茶に過ぎる。もう、欺しの範疇にわたると言ってもよい。

以上のとおり、私はけっして令和を使わない。ぜひ、あなたも。
(2019年4月4日)

 

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.4.4より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=12362

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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