初対面は今から丁度三十年前の平成元年(一九八九)のこと。彼女は当時四十一歳、フェミニズム(女性解放論)切っての論客として売り出し中。富山県出身で京大文学部大学院修了。社会学・文化人類学・記号学などを専攻し、肩書は京都精華大助教授。若くして著書には『セクシーギャルの大研究』『資本制と家事労働』『構造主義の冒険』『女という快楽』『女遊び』などの話題作が数々あった。
昼下がりにJR京都駅からほど近い寿司屋で落ち合い、寿司をつまみ生ビールのジョッキを傾けながら、しばらくやりとりを交わした。私の一番の関心は、保守的な風土の北陸に育ちながら、なぜ女性解放の旗手と仰がれる先鋭的な存在になったのか、という一点。彼女の説明はすこぶる明快で、なるほどなあと合点がいった。
彼女は富山市内の開業医の家に生まれ、兄と弟との三人きょうだいの真ん中の独り娘。両親とりわけ父親に溺愛され、大事な箱入り娘として育つ。いわく、
――父は、女の子が自転車に乗るのは危ない、と練習をさせなかったほど。私は、自分を抑えることをしないで、ちやほや甘やかされて大きくなった。分をわきまえる育ちにならなかったのね。だから、自分の頭を抑えにかかってくるものにはガマンならない。自分では「私は育ちが悪い」と言ってるの。
当時の彼女は、①挑発には乗る②売られたケンカは買う③ノリかかった舟からはオリない、を処世三原則として掲げていた。ケンカっ早く、かつケンカ上手で、この取材の直前には、作家・曽野綾子との論争が話題を呼んだ。
曽野の上野批判(『新潮45』一九八九年九月号の「夜明けの新聞の匂い」)は、例えばフェミニズム批判として、
――私は昔から、いわゆるフェミニズム運動が嫌いである。
――昔からほんとうの実力ある女は、黙って働いて来た。戦前でも、だれも海女や行商のおばさんや電話の交換手さんのことをばかにしたり、彼女らはいなくていい存在だなどと思った人はいない。
一方、上野による反批判(『月刊Asahi』’89年11月号の「女による女叩きが始まった」)はこうだ。
――「ほんとうの実力ある女は、黙って働いてきた」という言い方で、曽野さんは、私は実力があるから発揮してきた、実力を発揮できないあなたはしょせんバカなのよ、と言い放っていることになるのだ。
――エリートの女はあまりにプライドが高いために、個人の問題を類の問題に結びつけることができない。その結果、彼女たちは強者の論理を身につけ、弱者への想像力を失ってしまう。エリート女のエリート主義は困りものだ、と自戒をこめて言っておこう。
そして、フェミニズムは社会的弱者の運動であること、女が「実力を身につける」のに様々な構造的な障害があることが問題なのであり、その構造的な障害をなくそうというのがフェミニズム運動であることを諄々と説く。
思うに、当時の曽野には上野に対する「上から目線」があったのではないか。カトリック作家として社会的栄光を手にする我が身と、京都の一私大の助教授ふぜいの論敵。少々たしなめてくれよう、と見くびる気持ちがなくはなかったか。だが、鋭利な頭脳と的確な言語表現力で勝負あり、私は上野の完勝と判定する。
それから五年後の平成六年、思わぬ形で彼女との再会がかなう。都内で開かれた歴史家・色川大吉さんの新著出版記念パーティの席だった。色川さんは六〇年安保闘争へ参加~「底辺の視座」に立つ民衆史を研究し、行動する学者として私が深く尊敬する人物の一人だ。
色川さんから祝辞のスピーチを述べるよう急に指名され、事前に用意のない私はへども
どしながらも務めをなんとかこなした。一息ついて辺りを見回すうち、参会者の中に上野さんが居るのに気づいた。あでやかな和服姿だったように記憶する。私は彼女に近づき、「一別来です」と祝杯のおかげもあって軽口をたたいた。彼女は私のことをちゃんと覚えていて、少々はにかんだような笑顔と言葉を返した。
初対面のころ、上野さんは『朝日新聞』に「ミッドナイト・コール」と題するエッセイを連載していた。「かさばらない男」と題するその一編に、色川さんがこう紹介されている。
――「好きな男性は?」と聞かれて、わたしはすかさず「色川大吉さん」と答えてしまった。(中略)色川さんは小柄で風采のあがらない初老の歴史学者(ゴメンなさい)。見てくれはおしゃれでもなければ、カッコよくもない。このひとは、笑顔がすばらしい。相手の心の中を見透かすような哀しい眼をして、くしゃくしゃと笑み崩れる。
そして、色川さんは旧制高校山岳部仕込みの山スキーが得意で、スキューバダイビングもやるし、ヒマラヤ登山もする体力は驚嘆に値すること。わたしは色川さんと講演旅行でオーストラリア各地をレンタカーで一千㌔も相乗りをした仲であること。等々を書き添え、「かさばらない」えがたい存在にして、「筋金入りのモラリスト」と敬意を示す。
私は言いえて妙、と共感した。彼女の連載エッセイは着眼点・文章表現ともなかなか秀逸で、その才能には時として羨望や嫉妬めく思いさえ感じたことも正直に白状しておく。
彼女はこの再会の前年に東大文学部助教授に迎えられ、二年後には教授に昇進する。彼女は初対面の折、大学の進学先を京大にしたことを「大当たりだった」と自認し、こう言った。
――関西は本音の文化だから、口先で何を言ってもビクともしない。東京人のように建前に捉われないから、カッコつけてもの言ってもダメ。しっかり鍛えられたのでよかった。
上野さんは還暦目前の二〇〇七年、著書『おひとりさまの老後』がベストセラーになる。
独居老人をめぐる諸問題は、彼女自身の身の上とも重なる切実なテーマだったのだ。そして、四年後には五百頁もある大著『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会』を著す。
日本の老人介護(ケア)の現状を多角的・網羅的に考察。ケアを介護の担い手別に「国家」「市場」「市民社会」「家族」の四つに分類し、それぞれと照合する官・民・協・私の四セクターの現状を吟味する。そのベストミックスこそが「望ましいケア」へのカギと論じ、中でも「共助」に通ずる協セクターこそが枢要な位置を占める、と説く。
近代には「家族」「市場」「国家」の三点セットが万能視されたが、二十一世紀ではこの近代トリオが限界に達し、第四のアクター「市民社会」こと協セクターに期待がかかる。新しい共同性、すなわち自助でも公助でもない共助の仕組みの考案である。
協セクターへの追い風はNPO法と介護保険法の成立だ。首都圏や九州の生活クラブ系生協ではワーカーズコレクティブの活動が「食べもの生協」から「福祉生協」への事業拡大と転換を実現。生協以外でも、厚労省指定のモデル事業となった富山県のNPO法人「この指とーまれ」の小規模多機能型居宅介護の成功例もある。希望がないわけでは決してない。
この著作は机上の理論研究より現場調査の分析考察に重きをおき、介護保険法の成立~実施にからむ八年に及ぶ全国の事例調査・研究の成果がぎっしり詰まっている。まさに「ケア学大全」と呼ぶにふさわしい労作だ。京大出身の彼女の東大招聘は正解だった、と感じる。
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