先々月の本欄で紹介した詩人・評論家、大岡信氏が異色の美術家・高橋秀さん(八八)のために詠んだ詩の一節に、こうある。「ワレメ――/そう聞くだけで/人々はある種のものを/想像し/或ひは微笑し/或ひは顔を赤らめる/歴史の神秘な谷間を思ひ/地質学の知られざる発見を思ふ/(ああコトバは偉大だ/たった一言で!)
そして、私と大学の同窓で『朝日新聞』入社も同期だった故・根本長兵衛君(「朝日新聞」元ローマ特派員・企業メセナ協議会元専務理事)も、この高橋秀さんについて、秀逸な要旨次のような一文を書き残している。題して「『言行一致』、造形のマエストロ」。
――1980年のこと。縁あって秀さんとお近づきになる。酒豪の彼から酒席で歯に衣きせぬ、辛辣、かつ痛快極まりない、卓抜な日本イタリア比較論を胸のすく思いで拝聴した。
秀さんの作品もじっくり拝見する。白やピンクの幾何学的なかたち、有機体を思わせる丸やかな形態の隅に置かれた色鮮やかな華麗な色彩の点や線、それに悩ましい割れ目が入ったリトグラフが多かった。いわゆる「エロティスムとユーモア」が基調になった作品だが、猥褻さやじめじめした性の暗さは全くない。破顔一笑する秀さんの明るい笑いを連想させる大らかなユーモアで、当てこすりや忍び笑いとは無縁な造形だ。ハイカラで流線型の形象なのだが、イタリア人にはオリエンタルな日本アートに見えるに違いない。これまで経験したことのないオリジナリティに、強いショックと感銘を受けた。――
この高橋秀さんはイタリア在住の‘九六年、倉敷芸術科学大教授に就任する。’〇四年、四十一年に及ぶローマ生活を切り上げ、前々年にアトリエを築いた倉敷・沙美海岸に居を移す。隣の岡山市に在住する宗教家・黒住宗晴氏は文化方面にも明るく、私がかねて昵懇に願っている方だ。同氏を介し高橋秀さんの最近の消息を知り、頂いた資料から秀さんの長年の連れ合いで「コラージュ(布貼り付け絵)」作家・俳人の藤田桜さんの横顔も知るに至る。
ご両人は戦後まもない頃、高名な挿絵画家・雑誌編集者だった中原淳一氏の許で知り合い、結ばれる。当時の秀さんは中原氏が手掛ける雑誌『ひまわり』や『それいゆ』に挿絵やカットを器用に描き、それなりに収入を得ていた。だが、(このままだと本業の絵画がだめになる)、と「人気者の危険」に本能的に感づく。結婚して何年目かの正月早々、秀さんは桜さんの前にがばとひれ伏し、こう懇願する。「絵画の制作に目鼻がつくまで、収入目当ての仕事は放棄する。当面しばらく、生活の面倒を見て頂きたい」。
頭を下げた秀さんも潔いが、その胸中を察して快諾した桜さんも偉い。似合いのカップルの呼吸は須らく、こうありたいものだ。お二人には、美談がもう一つある。東京・世田谷にあった宅地を売却したお金で「秀桜留学基金」(一億円)を設定。つい三年前までの十年間、若い美術家を毎年三人ずつ海外へ送り出し、一年間自由に勉強する手助けをしてきた。これまた、なかなかできないことだ。
春麗のこの四月半ば、私は前記の黒住さんの手引きで長閑な風光の倉敷・沙美海岸に秀・桜さん宅をカメラ担当の連れ合い同伴で訪問。酒盃を傾けながら半日近く歓談し、「人生百歳時代」を地で行くお二人の生き様とお人柄をとくと確かめさせて頂いた。
俳人・桜さんは二〇〇五(平成十七)年、自作『句集』を刊行している。ローマ滞在中に詠んだ句が大半で、繊細な感覚と深い心を映す中に、母国への強い郷愁が滲み出ている。
――「小菊また殖やし異郷に年重ね」「浴衣着てローマの夏も捨て難し」「望郷の思ひおのずと菊の頃」「仔羊に焼き印を押す聖夜近し」「シーザーが虻に泣きべそカーニバル」――
これに先立つ一九八二年、エッセー集『ローマでエプロンかけて』(新潮社)も著した。表題通り、一家の主婦としての奮闘ぶりが躍如とする。まずは、台所事情から。
▽春先から初夏にかけて。佃煮にする蕗が市内の川や池の辺りに一杯野生している。大きいのは太さ三㌢、長さ一㍍半もある。蕨も自然公園の土手などに生えている。秀さん・桜さんとも好物なので、季節には日本人の友人らと連れ立ち、摘みに行く。
▽魚屋は露天の朝市に十数軒が並ぶ。鰯や近海ものの小魚が生で入り、蝦や烏賊はアフリカから来る。季節によって鮪も大きな塊で入る。日本の魚屋のようにお造りにしたり、丁寧
に捌いてはくれないから、一~二㌔と塊買いした鮪の捌きは主婦の仕事になる。
▽調味料では、味噌作りをローマ在住の日本人の友人から伝受してもらう。大豆十五㌔に米・塩各六㌔で、約三十六、七㌔の美味しい味噌が出来上がる。大豆の粉で豆腐も作れるし、蒟蒻も手はかかるが大丈夫。夕食はすき焼きでとなると、朝から手間暇のかかること!
さて、桜さんは主婦業とは別個に「布貼り付け絵」作家という、もう一つの顔を持つ。‘五二年から月刊保育雑誌『よいこのくに』(学習研究社)の表紙絵の専属作家となり、『ぴのっきお』など秀抜な作品を数々残す。‘七七年、ボローニャで出版された児童書イラストレーター選集には二十か国三十七作家の一人として選出されている。『芸術新潮』の‘八五年十二月号は「藤田桜の小裂(こぎれ)コラージュ」と題し、コラムに要旨こう記す。
――コラージュと思えないほどの、穏やかな色の諧調がある。ローマに在住し、この十年腰を据えて小裂と付き合ってきた藤田は、裂の主張や相性をすっかり手の内に収めているらしい。縁を重ねていく技法は、単に物質的な厚みではなしに画面に深みを作る。下絵や型紙を使わないフリーハンドの裁断が、このコラージュの上品さを支えている。
高橋秀さんに話を戻す。少壮三十三歳でイタリア政府招聘留学生としてローマへ渡るが、その日本離脱の動機が彼らしく少々変わっている。前々年、新進洋画家の登竜門とされる「安井(曽太郎)賞」を授与されるが、そのため画商から新作の注文が相次ぎ、それをこなすのが苦痛で日本脱出を図った、と言う。
壮年期を中心に四十一年もの長い歳月を異境イタリアで過ごした秀さんの異文化体験に基づく独特の観察眼は貴重だ。今の日本社会の在り様について、覚めた目でこう呟く。
――生活面・政治面・文化面と非常に悔しいが、日本は多分に見劣りする。なぜこんなに
育っていないのか、幼いのか、と悔しいながら感じる。鎖国体制の江戸時代の習性を引きずってか、自己の自立のなさ~自己主張のなさは歯痒いばかり。日本は経済ばかりが肥大化し、生活面全体の向上という思考が全く欠落している。
――政治面でも、イタリアはやはり大人だ。政治家のための政治ではなく、人民のための政治をしている。その点、日本はまた自民党が復権し、国民の間から馴れ合いに対する強い不満や怒りもない。離れ島という環境が災いしてなのか、暗澹とした思いに捉われる。
ほぼ同世代の私自身も全く同感だ。
お二人の近影。左が高橋秀さん、右が藤田桜さん(今年四月半ば撮影)
辞去間際、アトリエへ案内された。正面の壁にかなり大きな「磔のキリスト」像が掛かっている。(秀さんもミューズに魅入られた受難と献身の人に違いない!)瞬間、強い感動が身内を走った。
なお、「高橋秀+藤田桜 『素敵なふたり』」と銘打つ企画展が七月六日から九月一日まで東京・世田谷美術館で開かれる。NHKのテレビ番組「日曜美術館」でも七月二十八日午前九時(再放送は八月四日午後八時)から特集が放映される予定だ。同展は九月から来年二月にかけて、倉敷・伊丹・北九州の各市でも順次開催される。
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