かの大作家・大江健三郎さんとの御縁は、我々の共通の恩師に当たるフランス文学者・渡辺一夫先生に源がある。渡辺先生は大江さんがゆかり夫人と結婚する折に仲人を依頼され、作品の中にも度々「恩師のW教授」として登場する。ラブレーなど仏ルネサンス文学の実証的研究を確立し、フランスの文学賞や読売文学賞・朝日賞などを受けた碩学だ。私は駒場の東大教養課程に在学中、たまたま先生の心楽しいエッセイ集『うらなり抄』(光文社刊)を一読して大ファンになり、仏文科進学を選んだ。同書には、胸に響くこんな一節がある。
――平和とは、戦乱を産み出す様々な邪なものを人間の理性が汗みどろ血みどろになって抑えつける努力が持続している間のことを言う。
そして、先生の「戦中日記」は、こう記す。
――知識人の弱さ、あるいは卑劣は致命的であった。(中略)知識人は、考える自由と思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。
幸い本郷へ進学後、私は渡辺先生から随分可愛がって頂き、仏文科の懇親会などで杯を交わし合う親密な仲にもなれた。そうした場で大江さんと同席した覚えもある。当時の記憶は幸せな白日夢に似て、思い起こすだけでほのぼのとした心地に包まれる。
大江さんは東大在学の学生作家として‘五七年に文壇的デビュー作の『死者の奢り』を、翌年には芥川賞受賞作『飼育』や長編の『芽むしり仔撃ち』などを立て続けに文芸雑誌に発表する。私はそれらを読むたびに心底強いショックを受けた。文体や言語表現に天性的な瑞々しさが光り、監禁~拘束状態に置かれる人間の閉塞感という共通するテーマにも強い共感を覚えたものだ。持って生まれた才能の違いは恐ろしい、とつくづく羨ましかった。
彼は一九三五(昭和十)年一月、愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれた。旧大瀬村は県庁所在地・松山市から三十余㌔南方の山村で、四囲を険しい山岳や丘陵に囲まれる人口三百人弱の谷間の小集落だ。子供のころ、家の使用人の老女が明治初めに「谷間の村」で勃発した一揆話を訥々と語って聞かす。変革を目指す決起は官憲が介入~鎮圧され、あえなく挫折する。健三郎少年は老女の語り口を真似て、遊び友達などを前に生き生きとより巧妙に一揆譚を披露し始める。後年の大江文学に頻出する「谷間の村の一揆譚」の萌芽である。
国民学校(今の小学校)五年の‘四五年八月に敗戦。一か月後、少年は急に不登校に陥
り、大きな植物図鑑を携え来る日も来る日も独り森の中で過ごす。戦中の皇国教育は百八十度転回し、急造の「民主主義教育」へ衣替えする。教室で学ぶ意欲が失せた彼の胸中は、一学年下の私にもよく判る。秋の半ば、強い雨で土砂崩れが起き、森に取り残された彼は発熱~行倒れに。翌々日、村の消防団員に発見され、手当ての末ようやく一命を取り留める。彼の諸作品に「森」が神秘的~畏怖すべき存在として登場するのは、この原体験ゆえか。翌々年、誕生したばかりの新制中学へ進んだ直後に新憲法施行。感性の瑞々しい時期に「反戦」「平和」「民主」の理念を感受~思想形成に強い影響を受ける。
大江(敬称略)は‘六〇年に高校時代の親友・伊丹十三(俳優・映画監督)の妹ゆかりと結婚。三年後、長男・光が誕生するが、不幸にも重い頭蓋骨異常を抱え、知的障害を負っての出産だった。親としての懊悩は如何ばかりだったか、想像に余りある。
光の誕生から間もない同年夏、大江は原爆被災地・広島を初めて訪問する。翌年も広島を歴訪し、原水爆禁止世界大会や被爆者団体・原爆病院などを念入りに取材。月刊誌『世界』にルポ風のエッセイ「ヒロシマ・ノート」を連載し始める。原爆投下によるヒロシマの受難は、「アウシュヴィッツを超えるほどの人間的悲惨さでありながら、国際政治のマキアべリズム故にか、決して十分に知られているというわけにゆかない。」と彼は記す。
広島日赤と原爆病院との両院長を兼ねる重藤文夫博士は被爆から七年目に血液の癌とも言うべき白血病と原爆被爆との相関関係を解明する。取材当時の一年間に原爆病院で四十七人が被爆が基で死亡し、死因の殆どは白血病ないし癌だった。年配者ばかりとは限らず、幼い頃に被爆した二十歳前後の若い男女の尊い命さえ奪ってしまう惨い悲劇も数々含む。
――ヒロシマは人類全体の最も鋭く露出した傷のようなもの。人間の回復の希望と腐敗の危険との二つの芽の露頭がある。
と、大江は指摘する。
彼はまた‘六五年に初めて米軍施政下の沖縄を訪ねて以来度々彼の地へ渡り、’七〇年にそのレポート『沖縄ノート』(岩波新書)を著す。沖縄の人々が取り組む苦渋に満ちた反戦の闘いを、大江は熱い共感をもって受け止め、「本土とは何か」「日本人とは何か」と根本的に問い詰める。彼は独特の晦渋な口調でこう記す。
――核時代の今日を生きる犠牲と差別の総量に於いて、真に沖縄は日本全土を囲い込んだに等しく、しかもなおそれを超えて膨大な重荷を支えている。今日の日本の実体は、沖縄の存在の陰に隠れて秘かに沖縄に属することに依ってのみ、今かくの如く偽の自立を示し得ているのだ、と透視されるであろう、と。
私も沖縄の現状に大きな負い目を感じる一人として、その指摘には強い共感を覚える。
知的障害児の長男・光誕生の翌‘六四年に著した小説『個人的な体験』は疑似私小説ともいうべき構成をとる。障害児を持つ父親「鳥(バード)」が様々な精神的遍歴の末、想像力の援けによって現実と向き直るに至る経過を描き、新潮社文学賞を受ける。以後、障害児との共生を主題とする作品が増えてくる。‘六七年に発表した『万延元年のフットボール』や’七三年の『洪水はわが魂に及び』なども、設定には似通う節がある。
彼の文章は時として回りくどく難解で読み進むのに閉口し、悪文の典型ではとさえ感じる。が、この彼独特の表現手法が後年のノーベル文学賞受賞の折に、「近代の標準的な日本語の東京方言に対抗し得る『(散文)詩的な言語』」として評価されるから、面白いものだ。周知の通り、‘九四年に彼は川端康成以来二十六年ぶりの日本人二人目としてノーベル文学賞を受ける。受賞理由は「詩的な力によって想像的な世界を創り出した。その世界では生命と神話が凝縮され、現代の人間の窮状を映す摩訶不思議な情景が描かれている」。
ストックホルムでの晩餐会基調講演で、大江は前回・川端の講演「美しい日本の私」をもじり、「あいまいな日本の私」と題して
――(川端の言う)「美しい」という概念はvague(曖昧)で実体不明な神秘主義に過ぎない。私は日本をambiguous(両義に取れる、曖昧)な国として捉える。
と述べ、「前近代・日本と近代・西洋ふうに引き裂かれた国」としての日本を語った。
「社会参加」を信条とする大江は二〇〇四年、憲法九条の「戦争放棄」の理念を守ることを目的として加藤周一・鶴見俊輔両氏らと共に「九条の会」を結成し、全国各地で講演会を開催。‘一五年にはジャーナリスト鎌田慧氏と連名で記者会見し、原発再稼働反対を表明。「今、日本は戦後最大の危機を迎えている」とし、強権的な「アベ政治」の在り方に強い抗議の念を表した。この一年余り、「森友」「加計」疑惑をめぐる安倍政権の悪質な欺瞞~居直りに対して、彼はさぞかし怒り心頭の思いだろうと推察する。
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