私が出会った忘れ得ぬ人々(28) 森敦さん――やっこでも往生すれば立派に仏になる

 お目にかかったのは一度きり。今から三十八年前のことで、森さんが七十歳の時だ。文字通り一期一会のご縁だが、温かみのあるお人柄と味わい深いお話ぶりは忘れられない。生前にお会いできて本当に良かったなあ、と懐かしく思い起こす人物の筆頭格だ。森さんを紹介する私の記事は一九八二(昭和五七)年十一月九日付『朝日新聞』夕刊一面に載った。「出羽三山 仰ぎ見て」という見出しで、書き出しはこんなふうだ。

 ――小説『月山』で八年前、芥川賞を受賞した作家森敦は、熊本県出身だが、よく山形県人とまちがえられる。『月山』のほか『鳥海山』など主要な作品が題名通り山形に舞台をとり、文中で土地の方言を使いこなしているからだ。森自身も、「山形は故郷のように懐かしい」と口にする。

 終戦の年、食糧難もあって関西から夫人の故郷の酒田市へ。土地の風光、人情が肌に合い、以後十年、庄内各地を転々。『月山』執筆の基礎になった体験すなわち月山の山ふところの破れ寺、注連寺で、ひと冬を過ごしたのも当時のことだ。――
 ここまでが前置きで、次いで作品の触りの紹介や森さんの経歴とコメントに移る。

 ――古来、死者の行く、あの世の山とされた月山。雪を頂く山容のこの世ならぬ美しさ、真冬の吹き(吹雪)のすさまじさ。その山間の小集落にも一つの宇宙があり、破れ寺を訪れる「じさま」や「ばさま」との夢幻的な語らいを通して、「私」は「天の夢」を見る・・・。
『月山』は森の人柄同様、ひょうひょうとして幽遠、不思議な味わいを持つ作品だ。

 旧制一高を中退、横光利一らと交友を結び、二十二歳の時、処女作『酩酊船』が毎日新聞に連載された。その後、東大寺にこもったり、土木関係の仕事につくなどして、ずっと沈黙を守る。還暦を過ぎての芥川賞でオールド新人と騒がれ、四十年ぶりに文壇に返り咲くが、「焦燥感はなかった。人生で一番重要なことは、輪廻の道を悟ることですから」。――

 私はそれまで山形県とは縁が薄く、足を運んだことは一度もない。作品の舞台である月山や注連寺の模様を自分の目で実際に確かめたい、と念じた。森さんは、当時の注連寺が宿坊を営んでいることを教えて下さり、「一泊二食で五~六千円のはず」と苦労人らしい気配りも見せ、ぜひ泊まってみるよう親身に勧めてくださった。後日いざごやっかいになったら、思わぬ歓待が待ち受け、さては森さんから言伝てがあったのでは、と思い当たる節があった。

 当の山形県ではレンタカーを借り、山形・米沢・新庄各市など内陸方面での現地取材を先に済ませ、次いで寒河江から鶴岡へ抜ける国道一一二号線をたどって日本海沿いの庄内地方へ向かった。注連寺はその行路の中継点としても格好の場所にある。私は森さんの言う「死者の行く、あの世の山」という月山像を胸中に強烈に意識した。

あいにく初秋のころの車中とあって、冠雪はおろか月山そのものの姿すら、満足に拝めない。だが、どんどん接近するにつれ、なにか巨大な生命体がそこにうずくまっている感覚がし、その心臓の鼓動がずっきんずっきん脈打っているかのような錯覚さえ覚えた。後に鶴岡出身の作家・藤沢周平さんにその折の体験をうちあけたところ、
 ――月山は、ただの山ではありません。
 と、私の言葉を肯定するように真顔で頷かれたことも忘れられない。

 私が訪問したころ、注連寺ご住職は鶴岡の方の高校野球部監督もされている由で、当日は不在だった。宿泊客は私と同行した写真部の同僚の二人だけで、寺男ふうのジサマとその連れ合いのバサマが我々二人の食事や寝泊りの世話に当たった。

 小柄で風采のあまりぱっとしないジサマは、どこか人好きがする人柄で、なかなかの飲んべえ。こぢんまりした庫裡の一角で我々二人がバサマ心尽くしの夕飯の食膳に向かうと、傍らで地酒の一升瓶の栓を抜き、独酌で茶碗酒を始めた。ジサマは我々にもしきりに茶碗酒を勧め、イケる口の両人はありがたく受け、はからずも俄かな酒宴が持ちあがる。

一杯機嫌のジサマは寺の金看板・鉄門海上人を酒の肴にし、「おらだば、こげに聞いとるだげのう」と地なまり丸出しで語り出す。私は駆け出し記者のころ仙台で二年働いたから東北弁は耳慣れている気でいたが、ジサマの地なまりは手ごわく、半分も判ったかどうか。上人の伝記本からの受け売り知識で補い、標準語に直せば、おおむねこうなろう。

 ――鶴岡生まれの鉄門海上人は元は川船の船頭だった。力自慢の大男で気が荒く、武士二人といさかいを起こし、両人を櫂で殴り殺してしまう。かくまった注連寺の住職のはからいで、二十五歳で出家する。全国各地を遍歴して修行を積み、江戸時代後期の文政年間、江戸で悪質な眼病の大流行を目にする。上人は祈祷の力でこの眼病を鎮めようと決意し、隅田川にかかる両国橋の真ん中で己の左目を短刀で抉りだし、川の龍神に「眼病平癒」を祈る。その甲斐あって眼病者は次々と平癒し、江戸での眼病の流行はまもなく治まったとか。
 
お上人が即身仏と化す顛末が一番の山場だが、ジサマは語り慣れた様子でこう話した。
 ――江戸を離れて各地を巡行した後、鉄門海上人は五十四歳にして庄内へ帰り、村人を説いて湯殿山の山ふところから鶴岡へ通ずる便利な隧道を開削。飢饉や疫病で苦しむ人々を目前にして八年後、衆生救済のため即身仏となることを発願する。

五穀(米・麦・大豆・くじ小豆・胡麻)または十穀を断ち、山草や木の実だけで命をつなぐ木喰行三千日の修行に入る。心身の清浄を保ちつつ、首尾よく生き仏となった。木喰行はなかなか辛く、中には生への妄執を断ち切れず、途中で逃げ出す例も絶無ではない由。また、絶息後の遺体の腐敗を防ぐため、木喰行では砒素のような毒物をも微量ずつ取り込むというから、鬼気迫る。

 上機嫌のジサマの話はこれだけでは終わらず、まだまだ続く。
 小説『月山』が芥川賞を受け一躍有名になってから、注連寺は観光ルートに載り、地元
・朝日村(当時)の七五三掛集落も世間に知られるようになる。が、小説を読んだ村人らの表情は晴れなかった。小説では、地元の「黒もんぺの男」がこう語る。
 ――吹き(吹雪を指す)の中の行き倒れだば、ツボケの大根みてえに生でいるもんださけの。肛門から前のものさかけて、グイと刃物で抉って、(中略)鉄鉤を突っ込んでのう。中のわた(腸)抜いて燻すというもんだけ。

 高野山で入寂した開祖・空海の即身仏~不寂伝説の影響で、真言密教に特有のミイラ(即身仏)が庄内には六体(全国では十八体)存在する。その一体が上人の遺体ではなく、往き斃れの「やっこ」(乞食ないし行きずりの行商人)の偽物だとの噂があった事実はジサマも認める。だが、尊い鉄門海上人がそれだと名指しされてはたまらない。ジサマは「こったら小説読みたくね、と思ったもんださけ」とつぶやき、ぽつりぽつり大略こう語った。

 ――森さんが寺に居た昭和二十五年ごろ、鉄門海上人のミイラが岩手県の香具師に貸し出されたまま、行方不明になる。何年か経ち、当時の寺の関係者が京都で開催された宗教博覧会でたまたま発見し、かけ合ってなんとか取り戻す。寺にはお上人の手形が遺されており、その指紋とミイラの指紋が一致し、注連寺のミイラは模造品なんかではなく、尊いお上人の正真正銘の即身仏であると判明する。

 七五三掛集落の有力者が東京に居る森さんに電話で苦情を述べると、こんな答が返る。
 ――やっこでも、往生すれば立派に仏になる、ということを言いたかった。
 結局、有力者はこの一言に納得し、引き下がったという。
 日中、私は寺の本堂の片隅に安置された鉄門海上人のミイラと対面している。正座した姿勢だが、骨格が図抜けて大きく、生前は六尺豊かの屈強な大男だったろう、と偲ばれた。

 この夜のジサマの談義は延々三時間ほどにも及んだ。ちびりちびりでも三人での長座となれば、はかが行く。地酒の一升瓶はあらかた空になっていた。翌朝、勘定の際に酒代に触れると、ジサマは自分で勝手にふるまったのだから要らない、と首を振る。そうはいかないから、相応の額はバサマに受け取ってもらったが、世知辛い今どきでは考えられない、なんとも浮世離れした至福の一夜だった。それもこれも、森さんの人徳あってのことだろう。

 森さんに話をもどす。彼は若いころ、奈良・東大寺に世話になり、近くの瑜伽山の山荘に住んだ。東大寺の学僧・松原恭譲師から「華厳経」の講義を受けて仏教に傾斜し、「瑜伽(梵語で「ヨガ」と同義)とは何でしょう?」と問う。松原師は、こう答えたという。
 ――そう、主観と客観の一致とでも言いますかのう。そうして空に至ることやおまへんか。主観と客観?そう、主観の究極のものは、それは生や。客観の究極のものは、死や。

 生死一如の境地と言おうか、私がインタビューした際に森さんが口にした「人生で一番重要なことは、輪廻の道を悟ること」に一脈通ずる哲学的な響きを感じる。
 森さんは私の取材時から七年後の八九(平成元)年、七十七歳で亡くなった。

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