私が出会った忘れ得ぬ人々(36)

三上智恵さん――「騙された悔しさが原点」

 辺野古の海の埋め立て工事の一端ぐらいは時に報じても、本土のマスコミは沖縄で進行している切迫した事態をちゃんと伝えていない。沖縄のテレビ局出身のこの人は、そんな現況を黙視できず、映像作家として迫力あるドキュメンタリー映画を次々制作。波紋を広げている。

 三上智恵さんの存在に目を見張ったのは三年前のことだ。一七(平成二九)年春、私は都内の映画館で彼女が監督を務めるドキュメンタリー映画『標的の島 風かたか』を見た。南国沖縄の明るい風光や珍しい民俗の紹介をはさみ、現場中継さながらの迫力ある画面と彼女自身のナレーションが、本土にあまり伝わっていない重要な知らせを次々もたらす。

 ――辺野古の海を埋め立てて建設工事を進める米軍基地は、普天間飛行場の単なる移設ではない。元々はベトナム戦争当時に構想された海兵隊用の全く新たな出撃基地だ。
 ――県北・東村の高江地区で強行されているヘリパッド(着陸帯)建設工事は、辺野古と一体のもの。現場では、住民の基本的人権を無視する非道が数々まかり通っている。
 ――宮古や八重山の先島諸島に対する自衛隊ミサイル部隊の本格的配備が着々と進んでいる。アメリカの中国封じ込め戦略の一環で、周辺に緊張が高まるのは必至。

 同年春と言えば、トランプ米国大統領と金正恩朝鮮労働党委員長の二人に振り回され、日本中がハラハラドキドキしていた頃だ。日本の安全の面からも、沖縄で現に進行している事態の意味合いを考え込まずにはいられなかった。
 映画は、一六年六月に那覇市で開かれた県民大会の場面から始まる。米軍属による女性暴行殺人事件の被害者を追悼する集まりだ。六万五千人もの大群衆を前に、稲嶺進名護市長(当時)は涙声で語りかける。「我々は今回もまた、一つの命を救う風かたか(沖縄方言で「風よけ」「防波堤」の意)になれなかった」。参会者たちから、無念のすすり泣きが漏れる。

 画面は転じ、宮古島の一瞬ギョッとする祭礼風景へ。石垣島では民謡の唄い手・山里節子さん(七八)が紹介され、「私たちの島はお金も力もないけど、(闘うエネルギーを生む)歌と踊りがある」と話す。住民説明会などのシーンを通じ、先島諸島への自衛隊ミサイル部隊の本格的配備が着々と進む様子が伝わってくる。

 米国の軍事戦略に詳しい伊波洋一参院議員(元宜野湾市長)が登場し、こう説く。
 ――日本列島を防波堤として中国封じ込めを図るのがアメリカの戦略。米中が直接対決する核戦争のリスクを避けるため、沖縄の島々に自衛隊のミサイル部隊を配置し、米軍の代わりに自衛隊に「海洋制限戦争」をさせようというのが「エアシーバトル構想」だ。

 場面は沖縄県民の多くが反対する辺野古の新基地建設現場へ。陸では座り込み、海ではカヌー隊が工事を止めようと体を張る。二十年来続く非暴力抗議行動のリーダー山城博治さん(当時六四)は悪性リンパ腫を壮絶な抗癌剤治療で切り抜け、奇跡的に現場復帰をする。毎日ゲート前に立つ島袋文子さん(同八七)は沖縄戦のため酷い火傷を負うが、「死体の血が混じった水を飲んで生き抜いた。私がぶれたら、死んだ人たちに申し訳ない」と意気込む。

 翌七月の県北・東村高江地区。早朝、全国から招集された大勢の機動隊員が続々大型バスで押し寄せる。ヘリパッドのゲート周辺に居座る反対派の人々が一人ずつ担ぎ出され、次々と強制排除される。隊員たちの無表情に近い白けた顔つきが印象的だ。ゲート前に止めた車は残らずレッカー移動され、重機や資材が建設予定地に次々と搬入されていく。

 が、この強制排除以降も、高江の意気は落ちない。「ここは民主主義の砦だ」と全国から次々と支援者がやってくる。テントが張られ、みんなで唄を歌い、炊き出しの飯を食べる。リーダーの山城さんが呼びかける。「必ず勝利しよう!みんなで(やんばるの貴重な)森を守り抜こう!」。痛ましさと雄々しさへの共感か、いつか私は涙ぐんでいた。

 映画館で三上監督作品の配給会社の人と交渉し、その後ご本人と都内でインタビューがかなった。念のため断っておくと、彼女はウチナーンチュ(沖縄出身の人)ではなく、ヤマトンチュウ(本土出身の人)だ。沖縄の基地問題に対する打ち込みようはなぜか、と尋ねると、こう答が返った。
 ――一小学六年の女児に対する米兵三人の暴行事件が一九九五(平成七)年に起き、「普天間返還」が(代償のごとく)口実に使われた。当時その欺瞞を見抜けず、まんまとだまされ誤った報道をしてしまった自分が腹立たしく、その悔しさゆえに頑張っているんです。

 ちなみに映画撮影後の四年前の秋、反対運動のリーダー山城さんは器物損壊などの容疑で逮捕され、なんと身柄拘束が五か月にも及んだ(映画公開当時は威力業務妨害容疑などで起訴~公判中)。高江では以前にも、七歳の子まで通行妨害で訴えられるという前代未聞の出来事も起きた。三上さんは沖縄での司法の今の在りように強い疑念を抱き、運動つぶしではと案じている。

 三上智恵さんは東京生まれで、父が日本航空に勤める関係で四歳からの三年間は米国サンフランシスコに過ごす。小学六年の時、家族旅行で初めて沖縄を訪問。バスの車窓から見る異形の門中墓に身がすくみ、県平和祈念資料館で知った沖縄戦の酷い有様に強い衝撃を受けた。「夜、一睡もできないくらい怖い思いをしながら、以来沖縄のことが頭から離れなくなりました」。

 沖縄民俗学の講座がある成城大学へ進み、卒論のテーマは「沖縄のシャーマニズム」。調査のため、宮古島などを度々訪ねた。就職先に毎日放送を選んだのは、「リポーターとして現場を踏めるかも、と思ったから」。入社八年目の九五年、阪神淡路大震災に遭い、自宅マンションが半壊。開局間近の琉球朝日放送(QAB)から誘いがあり、移籍を決断する。

 沖縄に移住し、QABでローカル・ワイドニュースのメイン・キャスターを務める傍ら、沖縄の歴史や文化・社会をテーマとするドキュメンタリー番組を次々制作する。優れた放送作品に贈られるギャラクシー賞の優秀賞などを度々受け、二〇一〇年には以前アグネス・チャンや国谷裕子、黒柳徹子らが受けている「放送ウーマン賞」にも輝く。

 が、達成感はなく、どこか虚しさが付きまとう。「どんなにいいものを撮っても、全国ネットになかなか乗らない」から。基地問題がテーマだとスポンサーが付かず、キー局はいい顔をしない。「沖縄の問題が沖縄だけに放送されていても意味がない。なんとか手はないものか、考えに考えました」

 思いついたのが、テレビ番組用の作品をドキュメンタリー映画に仕立て直すこと。一二(平成二四)年秋に起きた高江地区へのオスプレイ配備をめぐる反対派と警察との攻防を描く初監督作品・劇場版『標的の村』はキネマ旬報文化映画第一位に輝く。公演後の自主上映が全国約七百三十か所にも及ぶ大ヒットとなる。「ニュースや企画番組ではろくに反応のなかった沖縄の基地問題が、映画化することでこんなに大きな反響を呼ぶのか、と正直驚きました」。

 が、出る杭は打たれる。QAB社内での摩擦はいろいろあったらしい。年齢的にも管理職への昇格すなわち制作現場からの離脱を迫られる立場。成算があったわけではないが、翌々年、会社をやめてフリーの身に。カンパを募り、第二作『戦場(いくさば)ぬ止(とうどう)み』を制作する。辺野古のゲート前フェンスに掲げられた琉歌(沖縄の短詩形歌謡)の一節から題名を採り、新基地建設をめぐる攻防をテーマに日本の戦争の息の根を止めたい、という三上監督の意気込みを示す。前作に劣らぬ好評で迎えられ、前述した最新作の制作へとつながっていく。

 三上さんは、元々好きだった沖縄民俗学の研究も重ねている。QABに移ってしばらく、三十七歳の時に沖縄国際大大学院へ通い出す。夕方、キャスターの仕事を終えるとすぐバスに飛び乗り、十㌔ほど先にある宜野湾市の大学へ。二年間のコースをなんとか終了し、修士号を取るとただちに同大の非常勤講師に就く。頑張り屋だからこそで、研究成果である学問的観察をこう述べている。

 ――沖縄ほど神々が生き生きしている所はない。こんもりした森やちょっとした岩、あるいは海辺でもいい。神々しい所であれば神が宿る、とみんな信じてる。共同体と自然と神々が三位一体で存在してることが最大の魅力です。
 ――年寄りでも歌や踊りが好きで、みんな元気。オジイオバアは太陽で、年寄りを立てる。死後の世界(霊魂不滅)を信じる人が多く、本土のように年寄りが縮こまっていない。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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〔opinion10233:201026〕