私が出会った忘れ得ぬ人々(39) 草野比佐男さん――村の女は眠れない

 三年前に放映されたNHKテレビ朝の連続ドラマ『ひよっこ』を見入るうち、その昔取材で知り合った農民作家・草野比佐男さんの面目を懐かしく思い起した。ドラマの舞台設定は高度経済成長が始まり、東京オリンピック開幕の迫る一九六四(昭和三九)年だ。

 茨城県の山村に住むヒロイン高校三年の少女(配役:有村架純)の父親(同:沢村一樹)が東京の建設現場へ出稼ぎに行き、失踪してしまう。夫婦仲は睦まじく、子煩悩だし、思い当たる節は全くない。父の捜索と家計のため、高校を出た少女は集団就職列車で上京。下町の町工場に勤め、休日を利用し父の行方を必死に捜し回る。ミステリーじみた設定が効き、波乱含みの以後の展開が待ち遠しくなる。

 ふっと頭に浮かんだ草野さんは、高度成長期における農民の出稼ぎの誤りを文筆によって鋭く告発した人物だ。意地っ張りで一刻。出稼ぎは百姓の誇りに悖ると福島県南部の山村の家を離れず、貧窮に耐えながら、工業一辺倒の日本の近代化政策の非を鳴らし続けた。七一年の詩作『村の女は眠れない』はテレビ化されたせいもあって、全国的に大きな反響を呼ぶ。その文名を高からしめた詩作の触りの部分を紹介すると、

 ――女は腕を夫に預けて眠る/女は乳房を夫に触れさせて眠る/女は腰を夫にだかせて眠る/女は夫がそばにいることで安心して眠る
 夫に腕をとられないと女は眠れない/夫に乳房をゆだねないと女は眠れない/夫に腰をまもられないと女は眠れない/夫のぬくもりにつつまれないと女は眠れない(中略)

 女の夫たちよ 帰ってこい/それぞれの飯場を棄ててまっしぐら 眠れない女を眠らすために帰ってこい(中略)/男にとって大切なのは稼いで金を送ることではない/女を眠らせなくては男の価値がない(中略)
 帰ってこい 帰ってこい/村の女は眠れない/夫が遠い飯場にいる女は眠れない/女が眠れない時代は許せない/許せない時代を許す心情の頽廃はいっそう許せない――

 福島県東部には、標高一千㍍足らずのなだらかな山並みが南北に縦走、浜通りと中通りを東西に分かつ阿武隈山地は、過疎の山村の本場だ。その山地の南方・いわき市郊外の山あいに土着する彼は、私が取材した三十余年前は五十代半ばの壮年期だった。田畑一・二㌶を耕し、山林十五㌶を所有。敗戦の年に農学校を出て農業を継ぎ、農耕、植林、炭焼きと厳しい労働に明け暮れるが、暮らし向きは一向に楽にならない。「ただの百姓の積もる鬱憤を晴らすには、ペンを執るしかなかった」と言う。

 はけ口を短歌の方面に求め、農作業のかたわら歌を詠んで十余年。処女歌集『就眠儀式』が六二年、農民文学賞・福島県文学賞。高度経済成長に向かうそのころから、輸入材攻勢や燃料革命で林業がダメになり、てきめんに生活は苦しくなる。農政への不服など短歌では言い尽くせぬ胸の内の鬱屈を晴らすため、発表の舞台を小説や評論に移す。小説『新種』が同年、地上文学賞を受ける。

 高度成長絶頂の七〇年ごろ、頼む農業収入は政府へ売り渡す約二千㌔のコメ代金が年に三十万円足らず。出稼ぎに行けば月に十万円は楽に稼げた時代だが、信念が許さぬと家を離れず貧窮に耐える。その後も評論集『わが攘夷』(昭和出版)『沈黙の国生み』(秋田書房)などを通じ、国の農業政策の誤りを厳しく追及し続ける。

 草野さんは日本の農村の行く末を案じ、こう嘆いていた。
 ――日本の農民は西部劇のインディアンに似ている。手を変え品を変え、脅迫や甘言で居場所を奪われていく。「白人嘘つく、インディアン嘘つかない」・・・

 多数派に同調することへの拒絶反応は、十代半ば頃の原体験に根差す。戦時中に通った旧制県立相馬農蚕学校ではヒステリックな軍国主義教育が横行。右へ倣えが苦手な彼は格好な標的と化す。教師に年中往復ビンタを食らい、上級生からも度々手酷いリンチに遭い、右耳の聴覚を失ってしまう。大勢が一律に動くことの怖さを皮膚感覚で知った。

 右へ倣えが大嫌いな性癖は出稼ぎ問題でも表れる。集落の男たちが我も我もと家を後にする中、独り頑固に家に居座り続ける。息子二人が大学に進んで家計が苦しくなり、しびれを切らした妻が外へ働きに出る。夫婦仲がこじれ、一時は離婚寸前にまで険悪化した。
 住まう旧三和村は六六年、いわき市に吸収合併される。近隣十四市町村を合併した新いわき市は面積約一千二百三十平方㌔、当時日本一大きな市だ。新産業都市指定を名目に住民の知らぬ間に合併が決まり、村役場は市の支所に、農協関係の各組合は事実上撤収し、診療所は閉鎖する。住民は住民税や固定資産税が引き上げられ、重要な手続きや病気の診療には二十余㌔も隔てた市の中心部・平地区まで通わねばならぬ不便を強いられる。

 合併から五~六年、集落の男たちの出稼ぎ先は遠方の京浜方面から地元の平への通勤に変わる。各種の建設工事作業現場などへ通う彼らの農作業は「日曜百姓」化していく。農繁期の五月はトラクターと田植え機で田植え作業をこなし、秋の収穫期はコンバインで稲刈りと脱穀を同時に行い籾を乾燥機にかければ収穫完了。当時、トラクターは小型で百二十万円、コンバインは百八十万円もした。出稼ぎ拒否の草野さんが頼るのは旧式の耕運機と稲刈り用のバインダーだけだが、昂然とこう言う。

 ――日曜百姓は農地があるからやむなく働く、という心情に傾きがち。機械任せの仕事は拙速主義に走って手抜きが多くなり、百姓本来の名に値する者はもういない。高価な新式の農業機械購入は減価償却が危ないはずで、農民には借金ばかり残って機械メーカーの懐を肥やすだけ。

 自身は築百年の古家に住み続けたが、集落の人々は出稼ぎでてき面に豊かになり、住居や家具・電器製品・自家用車などを都市住民並みか、それ以上に立派に装った。が、失ったものもある。地域が生活共同体ではなく単なるねぐらと化し、人間関係は急速に疎遠になっていく。各種の会合への出席率は悪化し、橋が傷んだり道が荒れて通行に難儀しようが皆知らん顔。草野さんには、この地域コミュニティの消失こそ農村荒廃の姿と映った。

 彼はまた著書『わが攘夷』で「反農民組織農協の解体を」と題し、体験に即した厳しい農協批判を繰り広げた。例えば、共済組合の地区役員は未納掛け金を督促して歩き、いざ水稲共済の被害調査となると集落の利害にはっきり対立する。農民から得た膨大な掛け金は大半が納めっ放しとなるが、その行方は不明だ。農事実行組合長は市や農協の言うがまま、納得し難い減反割り当てその他を集落へただ持ち帰ってくる。

 コメの生産調整~減反の経緯を見ても、農協は政府の意向を先取りして自主調整を申告。組織を束ねる強大な力は上意下達の方向にしか作用せず、農協と農民の関係は国家政府と農民の関係に類似している。農協機関は定期預金や各種農協共済の勧誘に血道を上げ、家庭電器製品などの売り込みにも躍起となり、農民の組織を謳いながら実態は農民を食い物にする支配管理機構なのでは、という痛烈な弾劾だ。

 草野さんは体制側を激しく攻撃したため「左翼」視されたが、本人は一人一党の「人間党」と自称。当時の革新政党の在り様も批判し、たとえば共産党の農業政策をこう評した。
 ――社会主義的な大規模経営を目指すと言うが、大型機械化や単作経営化・近代化の方向を示唆する点は自民党と全く同じ。私は幻想を抱かない。

 中央への不服従を貫く村落の自給自足を目指し、志を同じくする都市住民との産直方式などによるネットワークづくりを最後まで夢見ていた。草野さんは二〇〇五年、七十八歳で亡くなった。

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