* この原稿は、2025年2月24日に行われた、第6回現代史研究会(ちきゅう座)の討論集会「混迷する世界の現状―現実をどう見つめ、過去の運動にどう学ぶかー」の、総合司会を任じられた池田が、「一つの参考資料」として記したものです。
ただ、「全共闘」に関わる前の個人史が、少々長すぎますが、そこはご容赦願います。
4 小倉の地で―三池闘争・60年安保闘争など
「小倉高校は行かん方がええ、男ばっかしの所で、ほら見ろ、女子は髪の毛だってほつれちょる・・・」と、担任の男先生に言われて、元小倉高等女学校だった「小倉西高校」の方に入学した。「元小倉高女」というので、優秀な女子ばかり。半数はもちろん男子も居たが・・・女子の方が威張っていた。
そこで、私は、放送部、演劇部、そして水泳部にも入っていた。演劇部では、「ひろしま」というタイトルの、それこそ「広島の8時15分」の瞬間を切り取った芝居をやったこともある。校内の文化祭でももちろん演じたし、博多にまで出かけて行っての県大会にも出場した。しかも、その時、1位入賞まで勝ちとった。裏方を担ってくれた2年の先輩男子のお蔭でもあったのだが・・・
高校2年の頃は、何となく「三池闘争」の荒々しい抗争の余波を感じていた。父の姉夫婦が住んでいた三池炭田、弟も一時暮らしていたボタ山だらけの土地・・・私自身は行ったこともない土地なのに、なぜか「三池闘争」は気になっていた。
ラジオ、新聞、そして、そろそろ各家庭に入り始めていたテレビなどで詳しく知った訳でもないのに、エネルギーの「石炭から石油」への移行に伴う大量解雇(首切り)ゆえの抵抗・・・と理解していたのであろうか。
谷川雁、向坂逸郎、森崎和江、河野信子・・・彼ら彼女らの名前を知ったのは、東京の大学に入学してかなり時間が経ってからのことである。
長引く闘いの末に、「生活を守るため」でもあるだろう第2組合が発足し、最後は、第1,第2の組合員同士の暴力沙汰まで耳に入ってきた。確か死者まで出たのではないだろうか・・・。
よく分からないながらも、「哀しい!」と思った。「石炭から石油へ」のエネルギー転換が根底にあるならば、それは「国家」としての課題なのではないか・・・働く者同士が対立し対決する問題ではない。まして、「敵」として殺し合うことではない!と。
三池闘争と重なりながら、1960年に入ると、日米安保条約改定が大きく問題となり、我が家にもテレビが入っていた時代、ヘリコプターから撮影したのだろう・・・見たこともないくらいの大量の人の群れ(デモ)が写し出されていた。60年「安保反対運動」である。しかし、「ゼンガクレン(全学連)」による国会突入、女子学生(樺美智子さん)の死、国会内での野党議員の座り込み等々も、すべて効を奏さず、1960年6月20日午前0時、日米安保条約改定自然成立!その瞬間の時計の大写しと岸首相の満面の笑み・・・分からないことばかりだったが、ともかく釈然としなかった。
日本国憲法第9条に「武装放棄」を謳っていながら、なぜ「日米安全保障条約」(1951年)締結なのか・・・小学校4年生以来の疑問である。だから、「不平等」だった旧安保条約を、少しでも対等な「新安保条約」に改訂すると言われても、条文の一つですら読んだ事のない高校生だったが、賛成できるものではなかった。
にもかかわらず、あれだけ大勢の人たちの反対の意思表示(デモ行動)がありながら、
「声なき声は、岸信介を支持している!」と嘯く当時の自民党総裁本人の言い分。選挙で過半数を獲得できない野党の非力?・・・だが、国会で「多数」を獲得すれば、すべてOK!という訳にはいかないだろう、特にテーマとなった「安保改訂」、これについては、特別にじっくりと審議が必要なのでは?・・・「民主主義」ってなんだろう・・・と「?」マークが続くばかりだった。
1960年秋、もう一つ、ショッキングな事件が起こった。山口二矢という17歳の、浅沼稲次郎(日本社会党委員長)刺殺事件である。青年がいきなり壇上に躍り上がり、浅沼稲次郎めがけ突進し、そのまま腹部をグサリと刺し通すところまで、まるで中継を予定していたように、テレビは写し取ったのである。
計画的な犯行で、本気で命を狙ったことがアリアリと、刃物の刃は(肋骨の隙間を狙って)横向きのまま、突進していた。しかも、山口二矢は、1943年2月22日生まれの17歳。3月21日生まれの私と1カ月違い。同年齢同学年である。ニュースによれば、以前は、赤尾敏の「大日本愛国党」に入党していたものの、その時は、脱党しての単独行だったと。
私にとって、さらにショックだったのは、彼は逮捕されてほぼ1カ月後、留置場でシーツを千切った上での自殺。しかも歯磨き粉(チューブ)で壁に「七生報国天皇陛下万才」と書き残していたという。
戦後15年。日本にはすでに「大日本愛国」を掲げる「右翼」なる党と人々が居る、ということも衝撃だったが、私とまったく同年齢の青年が、本気で人を殺し、かつ自らの命を絶つことを、断行したこと。戦前の「大日本!」を評価し、「天皇万歳!」を叫ぶ17歳の青年の思想と行為。私には、到底信じられない「思想と行為」ながら、自らの「死」を賭しての本気度。・・・思想の異質性、人間の多様性、その時も、今になっても、ただ呻くばかりだが・・・。
5 予期しなかった特別奨学金と「東京」―「女ばっかしのチョロイお茶大!」
私は、一期校として九州大学、二期校としては、福岡学芸大学を希望していた。
小学校4年から6年まで持ち上がりだった若い男先生の影響も大きく、また、学校から見に行った、高峰秀子主演の『二十四の瞳』の大石先生にも感化されて、「小学校の先生」になりたい!・・・と思っていた。そして、どちらかの大学で、サークルは「児童文化研究会」のような所に入って、人形劇などを携えて筑豊地域などをトラックに乗って回る・・・そんなことも夢見ていた。
ところが、高校三年の夏休み前だったか、担任が、「おい、池田!来年から特別奨学金というのができるそうじゃ。お前も受けてみい」と。
それで、夏休みの一日、その奨学金のための事前テストを受けた。国語と数学の二教科だったか・・・国語の「詩」の解釈が難しかったのを覚えている。
そんな試験を受けたことも忘れていた頃、もう12月に入っていたように思う。この時も、廊下で出くわした担任が、「おい、池田、この間の奨学金のテスト、受かってたぞ!」と声をかけてくれた。
日本育英会の奨学金。高校の1年の時も授業料がなかなか払えなかった私に「月3000円」の奨学金を教えてくれた担任である。その時の普通奨学金は、家庭の経済状況を記した書類の提出だけで、審査され、運よく支給されるようになっていた。仲の良かった友人が、「この奨学金はね、小中の学校の先生になると、返さなくもいいんだよ!よかったね」と言ってくれたものだ。
さて、「特別奨学金」である。改めて資料を読んでみると、自宅外から通学する場合は、「月に8000円支給!」とあるではないか!当時、国立大学の授業料は、「1年間9000円」だった。これだったら、自分で家庭教師などをすれば、親から学資を出してもらわなくてもOK!途端に私の気持ちが変わった。「東京に行ける!」
その頃、東京の高校に通っていた一人の青年が、遠く離れていた彼の母親の元に戻ってきて、一人ブラブラしていた。その頃は珍しかったが、今でいう「不登校生」だった。私の母が、その彼の母親と仲良しで・・・しかも近所で・・・ちょくちょく遊びに行くうちに、二人だけでブラブラ散歩するようになり、彼の藤村、啄木などの文学談義、西田幾多郎、倉田百三などの哲学談義を聞きながら、気がついたら、「好き」になっていた。出会ったのが、私の高校1年。1年くらい「二人だけの時間」を楽しんだ後、彼は東京に戻された。それでもずっと手紙のやりとりは続いていた。「東京都杉並区馬橋2-224」・・・今では町内区画も番地も変わっているだろうが、すっかり覚えてしまった彼の東京の住所だった。
それから慌てて、東京の国立大学で「教育学部」のある大学を調べ始めた。まず、「トーダイ」、これは初めから却下。「トーダイ=東大」とは「東京大学」のことだと、その時初めて知ったのだが、日本一難しい大学だと思って止めた。次は、「東京学芸大学」。「福岡学芸大学」と同じ二期校だった。概要を見ると、何だか入学する時から、「学科」を特定して受験し、入学してからも、小・中のどちらかを選択し、中学だと希望教科まで特定しての学習のようで、気が進まなかった。私は、「小学校の教員」希望だが、学ぶのはもっと広く「教育」全般を学びたいと思ったのだろう。
次は・・・? 私立大学はたくさんあるのに、国立大学は数が少ない。後は、「東京教育大学」しかない!
さっそく翌日だったか、担任に、「進路変更します!」と告げに行った。「すみません、東京教育大学に変えます・・・」と。すると、担任は「う~ん」と言いながら、しばらく資料などをめくっていたが、その内、「な~池田。教育大の真ん前にお茶の水女子大があるんだが、知ってるか?そこに行け!教育大は、去年の倍率は19倍になっとる。お茶の水は5倍や。相手が女ばっかりなんて、ちょろかろうが・・・」
後から思えば、何という「女性差別」発言!しかも、私は「女子だけの大学」なんて、これっぽっちも望んでいないのに・・・それなのに、私は、抗議するどころか、「はい、そうします!」と言って教室に帰って行った。「東京に行きたい!」という思いからくる打算だったのか・・・「19倍」なんていう倍率に怖気を感じたのは事実だったし、「女ばっかりはちょろい!」はある意味、事実であることを私自身も認めていたせいもあったのだろうか。
廊下に張り出されていた「受験希望大学名」に「お茶の水女子大学 1名」と追加されるや、親が東京に転勤予定の友人2名が、「それだったら私も!」と名乗り出た。英文科志望1名。もう一人は演劇部・水泳部仲間の親友1名、数学科志望である。
小倉西高校始まって以来の初めてのお茶の水女子大学受験!それが、なんと3人とも合格だった。わざわざ「校長室」まで3人揃って行かされたのは大げさだし、こそばゆかったが・・・ともあれ、こんなヒョンなことから「東京行き」が実現することになった。(続)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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