本稿は私の「コロナ自粛」報告である。気取っていえば「知的生活」の報告である。
私の「コロナ自粛」は、2020年4月から6月中旬まで2ヶ月半。あっという間に終わった。時間感覚がおかしくなった。身体を動かさなかったので、「エコノミー・クラス症候群」を発症した。右下肢に血栓がたまり、心肺へ飛ぶ危険があった。1ヶ月後に再度エコーを撮ることになっている。気分はよくない。
長編書物を読む計画は挫折した。結局、テレビやパソコンによって動画系の情報を見ることになった。何しろコロナ感染と米国危機が刻々と変化、展開したからである。そして少しだけ読書した。そのなかで考えたこと書き留めておく。
《テレビとYouTube・SNS・CNN》
見聞したのは、「テレビ番組・TVやYouTubeの映画・SNS」。こうしてみると今時の情報源のカテゴリー分類は難しい。様々なソースの「ごった煮」が、様々な媒体の中に不完全な目次に沿って格納されている。
テレビ地上波で観るべきものは殆どない。TBS「報道特集」、同「サンデーモーニング」が辛うじて水準である。「NHKスペシャル」を高評価する人が多いし優れた番組があることは私も同感である。ただすべて「スペシャル」を自称するのはどうか。殆どは「標準」である。BSやCS(これらを束ねたCATV)には良いものがある。
私のCATV有料バックには「CNNj」が入っている。
今まで熱心な視聴者でなかったが、年初から意識してずいぶん見た。大統領予備選代議員選びや立会演説会をよく見た。米国大統領選は確かに凄い。プロンプター安倍なら一回戦で敗退するのは間違いない。最近は米国のコロナ被害騒動、白人警官による黒人男性(George Floyd 氏)絞殺。この報道にかぶり付きであった。「黒人の命大事」デモとトランプの強硬姿勢を見ていると「内戦」や「革命」の現実化を予感する。
CNNは報道現場と事実の重視、忖度のない取材手法にすぐれており日本のTV報道と雲泥の差があると感じた。米国の若者が人種を問わず期間を問わず蝟集するのを見て感動する。空中写真も印象が強い。2015年の日本で「安保法制反対」デモがあのように報道されたら戦況は変わったと思う。しかし日本の現状は、「一億総反知性化」の全開である。オモテは壮大な井戸端会議であり、ウラは壮大な夜店屋台である。それでもみんな見てしまうから劣化の悪循環が加速するのである。
《映画はテレビとYouTubeで》
YouTubeの無料映画やテレビ録画を見るからDVDを借りることはなかった。印象に残った映画は次の通り。
チャプリン監督の「街の灯」(1931)、「チャップリンの独裁者」(1940)、「ライムライト」(1952)(1950)の三本、山下耕作の「緋牡丹博徒」(1968)、五所平之助の「大阪の宿」(1954).マービン・ルロイの「若草物語」(1949)、杉江敏男の「愛情の都」(1958)。
「街の灯」の最後数場面。花売り娘が浮浪者に小銭を握らせる。その感触で事情を察した娘が、You?(あなたでしたの)と聞く。You can see now?(見えるんですね?)、Yes, I can see now(はい 見えます)と短い会話が続く。手術代の出し手はその浮浪者であり、大金は悪いカネであった。この残酷なハッピーエンドは無声映画史最高の映像である。私は今度も泣いた。
「ライムライト」で、若いバレリーナのテリー(クレア・ブルーム)のソロを見ながらチャプリンが死んでゆくと記憶していた。だが舞台の袖まで運ばれた彼はすぐに死んだ。テリーが踊り続ける遠景でエンドマークが出る。音楽は監督作曲の「テリーのテーマ」だ。
緋牡丹お竜に22歳の藤純子(現・富司純子)が扮し高倉健を相手に実に美しい。カラー保存が邦画では例外的に見事である。このシリーズは72年までに8作が作られた。
「大阪の宿」の原作者の水上滝太郎は米欧に学んで帰国後、大手生保の経営者と文学者を両立させた。この作品は大阪勤務時の経験を背景にしている。映画では時代を大正前期から太平洋戦争直後に変えている。水上が常宿にした小旅館に集う庶民の群像劇である。エリート意識が出がちな主人公と貧困と戦う庶民の対立と和解を描く佳品だ。佐野周二、乙羽信子、川崎弘子、左幸子に藤原鎌足らのベテランを配する。
「若草物語」は初めて見た。この49年版は、長姉が新人エリザベス・テーラーだが次女ジューン・アリスンが明るい演技で圧勝。真面目なカトリック映画である。
「愛情の都」を見たのは偶然。YouTube映像の解像力が良かったからである。宝田明、司葉子コンビを中心に草笛光子、団令子、淡路恵子、小泉博、河津清三郎ら共演。経営者の不良息子宝田が女遊びの果てに司と結ばれる話。ある誤解から司が一時「転落」して汚れ役をやるのが見所である。高度成長助走期のエンタメ作品である。
《蟄居した文学者はなにをどう書いたか》
横光利一の短編「夜の靴」と保田与重郎の「明治維新とアジアの革命」を読んだ。
「夜の靴」は敗戦直前、横光一家四人が山形県の田舎に引っこんだ記録である。寺の一隅を借り四ヶ月ほど滞在した。仕事を作家と知らせぬ主人公が、農民たちと打ち解けるさま、自らの緊張も次第に解かれるさま、住民の知恵ある生活のさま、が淡々と書かれる。私は横光のリアリズムと清廉な気持ちに感服した。河上徹太郎は解説で「作者の人間性が練れて重厚さを加えている点で、例えば『夜の靴』を氏の最大傑作に挙げても敢えて不服はない位に評価している」とまで書いている。横光利一が表現しようとした日本人とは何だったのか。「生涯土の落ちぬ璞(あらたま)」(川端康成による弔辞の一語)の作品を読んでいきたい。
保田与重郎は、1949年頃から執筆を再開し定期出版物を配布した。忘れられた思想家として1981年まで生存した。「明治維新とアジアの革命」は1955年の著作である。アジア唯一の独立国による明治維新がアジア諸国に自立への希望を与えたこと、徳川慶喜の先駆的言動が維新成功に大きく寄与したこと、大東亜戦争は不平等条約改正闘争に淵源していること、その敗戦はアジア諸国の独立をもたらしたこと、を挙げる。そして最後は次のように結ばれる。
「大東亜戦争によって独立したアジアの諸国が、みな真の自主独立の国となることは日本の願いであるし又その目的である。我々の無数の同胞は、まだ十年以前に、そういう目的のため、生命を捨てて悔いなかったのである。そしてわが明治維新以来の一貫する祈念だったのである」。
保田論文は「大東亜戦争肯定論」(林房雄)など戦後右翼の大東亜戦争の正当化論の原型を示している。一方で保田は新憲法の戦力不保持と戦争放棄を認める「絶対平和論」を主張している。それが保田の対米屈服または転向の表明なのか。偽装なのか。
《「旅愁」と「日本の橋」の作者》
戦時に多くの知識人を捉えた「旅愁」と「日本の橋」の、二人の文学者はおのれの軌跡をどう見ていたのか。考えがまとまれば、この報告の最終回に記すつもりである。
(2020/06/08)
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〔opinion9840:200615〕